今日はHoudiniをしました。あといろいろ細かい修正。
波、やっぱり難しいですね。知ってた。私達が見ているのは現象ですが、実際に起きているのは「作用」とかそれくらいの規模で、それが積み重なったことそのものは簡単につくれるものではないわけです。
今回「海があるので波がある」ということで波を作ろうと思い至っているわけですが、実はこの前提は正しくないわけです。風が吹いているとか、地面があるとか、そういうのが必要なのです。
あれね。機械学習で最近話題になっている「モノそのものではない領域でモノを認識している」やつね。犬は芝生の上に居がちみたいな。人間もそんなもんで、海があると波があると思いがち。そう。
一般的な「島に接する海」ならそれで十分なんですが (世界の境界が生まれる為)、今の世界はそうではないのです。だから波が生まれる理由が必要な気がして。
で、とりあえず水を落として波を発生させたのがこれなんですが。
概ねの理解を得た pic.twitter.com/UYtZxMgGdt
— phi16 (@phi16_) 2020年6月19日
そうじゃないよね。
いや。部分的に理解在る部分はもちろんあって、「波が浅い場所に入るとちょっと高くなる」「柱に当たると急激に上にのぼる」みたいなのはわかりやすい点だとおもうんですけど。根本的にこんな波起きないんですよね。世界になにもないので。
で、そのために、今回、取り急ぎで世界に「モノ」を置いてみたんです。でもなんか波を生むと思えるほどじゃなかった。
結局は風についてちゃんと考えなきゃいけないんですね。今わかりました。まぁ風が吹く理由は幸いにしてあるので (悪天候なので) そこから辿っていけばいい…かしら。
納得行く領域に辿り着くまではだいぶ長そうです。
私は多分「理解」できる力はあるんですが「発想」する力はあんまりないんです。だからこうすればうまくいく、みたいなのは私からは出てこなくて。誰かが作り出したものか、段階的に順を追って考えるしかないんです。これ何度目だ。
はー。見たいと思ったものが作れるようになりたいものです。
少なくとも今回2つ、明らかに「筋力が必要なモノ」があるので、他をなんとかしてさっさと取り掛かってみたいところですね…結局諦めることになるのかもしれないけど。まぁそれはそれでいいよ。
現在のTODOは大きく分けて13個らしいです。なんかこういうことをしている場合じゃない気もするんだよな。その先を見なきゃいけない気がする。
終わったら息抜きに…って考えたけどそういうのは終わってから考えましょうね。少なくとも今思いつく「作りたいもの」はこの中に詰め込めるので。
久しぶりに某パーティクルコントローラに遊びに行ったけど楽しかったですね。多分それほど新しいものを考え込む時間がないからある程度はここから参考になるんだろうな。
…っていうか「できること」をベースに作るのは普通ですよね。安定した創作。ちょっとくらいやってみたい。
おやすみなさい。
追記。
昨日のアレですが、もっと強い開集合が見つかりました。根本的に挙動が局所的であるからにそれについて深く考えれば良いということに気づいてからはすぐでした。
後はこれを二要素で綺麗にいろんなパターンが生える例を作って実装するだけです。だけではありませんが。まぁ。
なんとなくとか勘に頼らない、ということをちゃんとやりたいところです…が。「しない」って難しいですよね。
あっ書くこと思い出した
— phi16 (@phi16_) 2020年6月19日
そう。そういえば「否定語は他人に伝わらない」という話をそういえば書こうと思ったんでした。
端的に言えば「行動を示さない」からで、「願いと反する」からで、「意味がわからない」から、だと思います。
「何かをする」という行為は (それ自体やその方法が正確に定義さえされていれば) 誰でもできることです (誰でもできないのであればそれは定義されていません)。
対して、「何かをしない」っていうのは一般に簡単ではありません。例えばペンを持たないのは簡単ではありません。何かを成し遂げるのにそれが必要かもしれないから。
記録をしたいけどペンは持ってはいけない。そんな状況があったとして、ではどうするか、っていうとき、少なくとも2つ解釈があると思います。
- 「ペンを持っていけないのは記録をしてはいけないから」。即ち記録をするべきではない、という意図を持った指示であると。これは更に「記録をしてはいけないのは何故か」ということを解釈する必要が出てきますね。
- 「ペンじゃなかったら記録はしても良い」。鉛筆を探し出してくればいい。即ちペンそのものに問題がある、という意図の場合。
私はこの意図が区別できない状況がすごく嫌いです。
意図的に意図が落とされた言葉が存在するならば、その意図を探らざるを得ません。そしてそんな状況が成立している時点で既に情報的に対等でないわけで、それは信頼と遠い位置だと思います。
逆に言えば、指示に意図が明記されていれば良いのであって、そうすれば受け手の解釈を助けている立場となり、ただ存在するだけで信頼が成立しえます。それは内容が正しいかとかそういうレイヤーじゃなくて、存在を認めるとかそのレベルの話です。
ちょっと前にboothの規約の話がありましたが、これはまさしく良くなった一例だと思います。この補足がなければ本来信頼しあえるはずだった者たちが分かたれてしまうことがあり得たわけですよね。
「文章に対しては意味がある、その意味を説明する文章がある」っていう構造は正しく意思を伝える上で必要なものだとは思います。
こういう不幸が世界で起きることが少なくなることを祈っています。それを見るのは私が悲しいので。