Imaginantia

思ったことを書きます

雑記 あなたの言語、わたしの言語

一年前にも言語について考えていたらしいです。

phi16.hatenablog.com

が、最近考えてる話はまた違う側面でした。あと今日の話題とは関係ないです (根本では繋がっていますが)。

 

なんとなく「言葉を大事にするとはどういうことか」について考えていました。

というのも、私は一応「言語」が持つ機能について長いこと考えてきた人のうちの一人なので、一家言あるつもりなのです。

確かに私の分野は「表現に用いられる自然言語」ではなく「意味を明確に伝える為の人工言語」なのですが、「言語」という存在について考える上でこれらは不可分なものだと思っています。

だから、今の私が考える「言語」という概念について、書きたいことを書いてみようと思います。

 

つらつら論理立てて書いていこうと思っていたんですが、なんかあんまりおもしろくないので、思いついたことから雑多に書きます。

色々思ったことについて調べてみたところ、考えていたことの一部はポスト構造主義という名前がついていることがわかりました。私が考えていたのは、「言葉それ自体が意味を持つのではなく、言葉の意味は文脈から初めて定まる。だから言葉遊びは意味を持たないし、非論理的な比喩もまた意味を持たない」ということでした。

別にこれは悲観的な話ではなく、ただ眼前の事実を認めた上で、じゃあ現状をどう捉えるか、について考えていたんですけど。

まずここで問題なのは「意味」という言葉の意味が人によって異なっていることです。私は「価値」という意味で「意味」という言葉を使うことは無いのですが、世間的にはわりとその用法が知れ渡っているようです。だからとりあえずもう一度言っておくと、私の使う「意味」という言葉は「それが表わす事柄」というだけの意味です。

つまり「言葉遊びは意味を持たない」というのは、そんなのに価値はないって言ってるんじゃなくて、「言語を論理的文脈の積み重ねのツールだと捉えた時、言葉遊びによって組み立てることが出来る論理的文脈は存在しない」という話です。これは即ち「論理性以外のところにフォーカスがある」ということになります。

同様に、比喩というものを人は多用しますが、私はそれが意味あるものだと思っていません。「元の表現だとなんだかわからない」という状況はその通り元の表現の「意味」がわかっていないということなので、それが解決しない限り比喩は何も解決しません。

もうちょっと書くと、比喩によって「理解の補助」になることがあるのは事実だと思いますが、「比喩単体で理解したことになる」のは違う、という話です。私はこのことを最近の画像生成AIの議論を見るたびに毎回思います。

そして「言葉そのものには意味が定まっていない」というのもなかなか共有されていないポイントです。特にここは数学系の議論を通したことがある人とそうでない人で解釈が大きく異なるんだろうと思います。もちろん (双方にとって) それは言い訳にはなりません。

辞書に乗っているのは言葉の定義ではありません。言葉が意味するものは定義されていません。そんな曖昧な自然言語であっても人間はなんだかんだ意思疎通が取れていますが、それは文脈の力によるものです。

だから私達は、たとえ日本語であっても、「どんな言語を喋っているのか」を記しておかないと、わかってくれないことがあるわけです。

ここで難しいのが、どんな言語を喋っているのか記す方法もまた言語であるという点です。

その基本的な語彙の時点で乖離があったら、もうその後何もできることはないのです。お互いに

例えば根本的に、「相手が意味わかんないことを言っている」と思ったら、それは「相手の言っていることがおかしい」か「文脈が共有できていない」かのどちらかです。私は他者がおかしいと考えるよりは、他者もまた論理的思考の下で会話している対象であり、私がそれを理解できていないのだと捉えるほうが妥当だと思うので、そう思います。

何が言いたいかと言うと、見知らぬ他者にリスペクト (=人として対等であると見做す精神) があれば、「それは間違っている」なんて簡単には言えないはずなのです。その時点で対話が成立していないわけです。

だからあんな話になるんだと思いますけど。

まぁこのしょうもない話はいいや。

 

もっと表現の話が書きたかったのでした。

なんとなく「韻」ってどこから来たのかな、って考えたことがあります。昔の言語はかなり活用 (conjugation) が活発でしたから、文法構造上自然に韻が産まれていたケースは多いんじゃないかなって思いました。今の言語でもだいたい品詞によって語尾に強い傾向があって、「韻を踏む」ということは「並列表現」に近い事柄のように思います。言葉の長さが揃っていることも並列表現として捉えると妥当ですし。

全てを論理的機能に還元しようとするのは好きではありませんが、論理的解釈を試みること自体は否定されるものではありません。

言語というものは論理性にかなり強い影響を与えているというのは昔から言うことですが ("語り得ぬもの"とか)、それで言うと論理性最強の言語は当然プログラミング言語ということになります。何故かと言うと、その「文章」の指す「意味」が、明確だから。

…明確じゃない言語もありますし、まぁ明確な方が少ないですが、例えば私は Agda を知っているので、まぁそれくらい言っても文句は言われないでしょう。

次点で「数学の言葉」があります。これも難しいところですが一階述語論理と ZF(C) とかを考えれば明確です。そこまで行かなくても、数学書に書かれている「自然言語の証明」は、明確な意味を持って (読み取り方が確定するという意味) 書かれています。

どうして意味が確定するのかというと、身も蓋もない話ですが、意味を確定させたもの以外を使わないからです。自然言語で書くと二重否定を使わないと記せない感じがありますが、要は「全ての各部分が論理的に意味が確定しているから、全体も確定する」のです。

この手段は、別にこんな論理極振り言語に限った話ではありません。パターン化、使う道具、コマ割り、カット、どんな媒体においても私達は「意味が確定した表現」を使っています。

それがないと何もできないからですね。

もちろん自然言語だってそうで、言葉自体の意味は確定してなくても、助詞の意味は確定しているのです。

こういうものを、多分「文法」(grammar) と呼ぶのでしょう。言語に依らず、至る媒体にあるモノです。

 

でも同時に思うことがあります。「文法から読み解く力」が無いとそれを理解できない、と言っていいのか。つまり文法から読み解くという論理的思考無しに作品は成立していたはずじゃなかったか。

つまり感情に訴えかける作品とは何だったのか。

私個人の意見は、「論理的思考無しに作品は成立しない」です。つまり作品を作る側は、文法通りに構造を読むときに用いる思考のことを、もはや当たり前すぎて思考と認識していない、と解釈しています。

例えば特定の民族音楽に慣れた人は和音が理解できないみたいな話も聞いたことがありますし、極論を言えば英語がわからなければ英語の歌詞で感動することはできません。小説が読めない人、漫画が読めない人、詩が読めない人、多分どこにだって居ることです。

残念ながらこの言説は科学的ではありませんが (反証可能性がない)、まぁここから導ける事柄があるわけでもないです。問題提起でもない。

まぁでもこれを基準に考えてみると、どんな作品ジャンルにも相応の「読み方」というものがあって、それがわからなければ確かにわからないのかもしれない、ということになる。それを補填することは結構難しいし、やろうとする動きも無いでしょう。

強いて言うなら「国語」があるくらい。

意味を明確に定めるプログラミング言語系においては「解説」が一般的な行為で、それは理解すべきものがあからさまであるからでもあるわけですが、所謂作品というのはなかなかそういう視点で見られない気もしますね。

私は「文脈」の話をするよりは「文法」の話をしてくれたほうが好きなのかもしれません。個別の事情よりは、普遍的ルールの方が応用できますし、何より全体の見通しがよくなります。

何の話だったか忘れました。ああ、でも、「言葉遊び」も意外と文法なのかな、とかちょっと思いますね。こう書いてみると。

 

「表現」という言葉についても前にいろいろ書きました。その1つの理由は「表現論」(representation theory) という数学の分野があって、群とかを行列として捉える (何らかの対象を、行列として表現する) ことを司っているんですが、それ表現すること、だと私が思っているからです。別に私はその辺学んだわけではないんですが。

つまり、表現とは「A」を「B」として表現すること、という話です。特に、「A」の本質的な部分 (up to isomorphism) を表現するという点。まぁ一般には単なる「部分」として読まれている印象ですが。

…わかるように、私は結構 (日常) 語彙を明確な意味ある言葉として捉えていることが多いです。もちろん定義そのまま当てはめたりはしませんけど、そういう「図式」を明確に想像していることが多いです。

そういえば私は「文脈」という言葉も明確な意味で使っています。前に「矢印の左側」と言いましたが、頭の中のイメージは dependent product とか slice category とかその辺です。まぁどっちでもいいんですけど、このあたりの利点は「計算できること」があります。

つまり「文脈に沿っていること」は型導出が出来ることだし、「文脈が適切に使われていること」は linearity を守っているかどうかで判断できます。

理論の言葉が自然言語に綺麗に対応しているとはもちろん思っていませんが、まぁ、そんなに外してもいないようです。

linearity (1つの要素がちょうど何か1つの為に存在していること) は結構面白い視点だと思っています。これは自然言語で言うと「伏線を追跡する能力」で、でも最後まで使わなかったものに対して不満が出たりはしません (exponential がついてると解釈されるだけ)

なんであれそういうものまぁ、私の中では大事な「言語」の一つなのです。

 

特に何も順序立ても結論も無しに書いてるので本当に支離滅裂な感じになってますね。まぁいいや。

普通の言語の話題に戻りますけど、まーほんと、人間は言葉がわからないみたいですね。ついったーを見ていると毎日痛感します。

正確には文章によって派生する論理展開がわからない、ということになるのかもしれませんけど、会話における言語は主としてそれを目的にして使われているので、まとめて言語と呼んでも差し支えはないでしょう (この差し支えのなさについては十分伝わったかと思うんですけど、そうでもないのかもしれない)。

お互いの文脈不理解が根底にあるのは間違いないんですが、更に「自分の持つ観点のほうが優先度が高い」と考えているというどうしようもない状況が重なって話が一向に進まない、みたいなこともよく見ます。

この話不毛な気がしてきた。いや最初からまぁそうなんですけど。

いや不毛だから毎回色々見ても見過ごすわけですけど、性質的に気になっちゃうんですよね。異常論理展開とかを見ると。既にいろいろ書いたことありますけど、これでも結構我慢してるんですよ。

なんかね、目先の話題について喋る前に「会話の構成」について考えなきゃいけないわけです。実際それをやる人もちゃんと居るんだけど、そういう相手ってだいたいそういうところがわからない人だから、そうやって「大前提の確認」をしようとすると「話題のすり替え」とかに感じるみたいなんですよね。で無理やり戻そうとするから本当に進まない。

「相手と話が通じないと思ったら大抵自分が悪い」とかも真理な感じあります。だって相手がわからないような話題を振ってしまっている時点でこっちが悪いのです。でもそれは恥ずべきことなんかではなく、ただそこからフォーカスを合わせに行けばいいだけなんですけど。

さっきも言いましたけど、話が合わないと思ったときに自分の解釈が間違ってるかもしれないとか考えないのはその時点でよくない振る舞いだと思います。きをつけようね。私も気をつけています。

あ、気をつけているけれど、例えば「それはおかしくないですか」って言うことはありますね。これは確かに数学語みたいなやつで、一切非難とかのニュアンスはないんですけど、この辺言語の違いで伝わってないかもしれない。「私はこう思うのでそうはならないと思うのだけど、私が間違ってたら指摘してください」の意味です。

いや、というか、私は指摘してもらえるのがとても好きで、どんな内容であれ論理的に妥当であればありがたいと思っているのだけど、なんかその時点で乖離があるよね、世間と。難しいね。

 

本当になんでもないことについてだらだらと書いてしまいました。

人によって言語って違うもので、私のこれに極端な成分は確かにあるわけだけど、それでも論理性に基づくというところは共通してるんじゃないかと思います。

気になったことを吐けたので、もうちょっと自分の視点も広がったかもしれません。論理って広がっていくものなのよ。

今度はもうちょっとまとめてから文章書こうと思います。

おわり。