Imaginantia

思ったことを書きます

雑記 閉じた作品

作品は閉じてほしいという願い。閉じた作品は良いものであってほしいという願い。閉じた作品を作りたいという願い。

 

いわゆる「偶然の出来事」「疑似相関的つながり」「本質的でない参照」をベースにした作品は、それ自体で「強度」を確保することができない。

それはtwitterに流れてくる動画が消費されていくように。そこから得られるものは何も無い。

言語に頼った作品は「ズル」から抜け出せない。嵌らないはずのピースを無理やりつなげているものは好きじゃない。

そこにあるトリッキーは確かにentertainするかもしれないけど、それ以上に辿り着かない。

古の物語や歴史を参照すれば、自身の正しさを保証する手段を失う。存在を転嫁してしまう。巨大な文脈に絡め取られてしまう。

だから、そういうものを基盤にするわけにはいかない。

 

消費できないもの、つまり残るものにする為に、そこにはそれ単体で完結する「繊維」があってほしい。

その構造は普遍的なもので、主観があっても客観と両立するもので、展開の方向が存在するもの。

一時の面白さで終わらずに、ちゃんとその「強度を持った基盤」を提示して終われるような。

人を永遠に喰ってしまうような。

そんな作品のことを「良いもの」だと呼びたい。

そしてそれになりたい。

 


昔つくった「『る』に棒を刺して『ね』にするゲーム」は、"文字通り"言語に頼った作品になってる。多少の発展はするようになってるけど、それはこの枠を飛び越えない。

だけど、「違うと認識するものを、少しの操作で同じにできるという構造」は普遍的で、汎用的で、本質的だと思う。

とはいえ、前者のようなゲームは「悪」ではないし、良いものは良いとは思う。私が作りたいとは思わないだけかな。

まぁ、アレの基盤は別に「ひらがなはおもしろいね」ではなく「同時並行作業の簡略化」にあるわけだけど。

 

でも類似した構造を、横方向に広げるだけで展開しない、その深みを出さない作品を永遠と作るのはあまり好きではない、のは確かだと思う。

例えば単に面がたくさんあるパズルゲームは好きじゃない。解く行為に楽しさは無い。私は。

その一つ一つに意味があってほしい。

何か普遍的なものを題材にしている作品は、遊ぶだけではない、記憶を塗り替えるような何かがある。と思う。

作品のことは覚えてなくても、それによる影響はきっと残っているものかもしれない。

雑記 空間表現の絵本について

いろいろを考えていった結果そういう結論になったので、それについて書きます。

様々な「空間」がありますが、その論理的な解釈には結局数学の言葉が出てこざるを得ません。何故ならそれが数学と呼ばれるものだから。

とは言えそれを使わないで喋ることがある程度出来ているのも事実。でもその状況が常に「靄」を生むのもまた事実だと思っています。

というわけで、昔書こうとしたものが「一切の前提無しに0から理論体系を組むとどうなるか」、です。

booth.pm

まぁやってみてわかった1つのことは「詳細があまりにも複雑でだるい」「まず文章という概念が難しい」などですが、結局それ以上の方法を私は持っていません。

ある程度複雑な空間構造の話まで行くと楽しい可視化ができる、ということで作ったのが Inter-action on the Math でした。

vrchat.com

逆に言えばそれよりももっとprimitiveなものについては、なんだかうまくできない感覚がありました。

その原因の一つは「モデル」です。つまり、単純すぎるが故、「見えているもの (モデル)」と「その本質」の差が出にくかった。本質を見てほしいけど、それに注視させるには可視化という方法は弱すぎた。

積み木はそれだけで非常に面白いものだと思いますが、そこから概念的性質を抽出するには邪魔なものが多すぎる。

だから文章にして、できる限り削ぎ落とすしかなかった。

これは結局「教科書の内容を完全に可視化することはできない」という意味になります。かなしいね。

The Witness がどれだけすごいか、ということですよ。これは。

でもやりたいじゃないですか。

 

というわけで救いは特に無いけれど、こういう話やりたいよね、ということについてのメモを書いておこうと思いました。実際に文章を書く予定は一切ありません。もともとはやりたかったわけだけどね。

以下、本編。

  • 基礎の基礎 (「空間表現の絵本」でやった領域)
    • 論理 (正しさのモデル、厳格な検証というもの)
    • 数の構成 (公理的集合論、推論規則としての帰納法 (構成と分解の対応関係)、商空間の構成と普遍性、収束と実数)
      • …まぁこれが自然にわかるようになったらもはや何もいらないんだろうけど。
  • 空間の扱い
    • とりあえずベクトル空間 → 座標系による分解 → 行列の導入
    • 位相空間 (localityの概念がほしい)
    • 距離空間 (distanceがほしい)
    • Manifold (→ Rn, Sn)
    • 計量 (空間の歪み)
    • 微分積分 (至るところで使う)
  • 計算機の扱い
    • 計算論 (正規言語/FSM → TM、比較としてのレジスタ系、ついでにλとか)
    • 実環境 (compile→assemble→CPUまで (別にbytecodeベースだとしてもそこは本質じゃない))
    • APIコールという概念 (Blackboxそのもの)
    • GPUの構造と命令群
    • 論理演算 → 数表現・数値計算
  • その他

これは結局私の好みで出来ているけど。あと私が書ける内容じゃないものが多々あるけれども。

そして結局のところそういうのはまぁ「そういうところで学ぶ」のが一番なんだろうということを思うけれど。

はて…。

 

なんかこう、コアとなる何か1コンセプトの「認識」さえ出来ればそのあと自ずと読みに行けるような気がしなくもないんですよね。

例えば「全ての構造には何らかの合理性がある」とか。あとまぁ、「内部構造を理解できないものなんてそうそう無い」とか。「怖がる必要がない」とか。

まぁ、私が実践出来ているとは思っていませんが…。

どこかをテーマにして何か作るとかはしてみたいんですけどね、ずっと。それこそ「そこそこ複雑な領域まで発展する」ことができるなら、可視化の意味が出てくるわけで。

当分できる様子はなさそうですが。

はい。

おわり。

雑記 220615

珍しく時事の話。

gigazine.net

これ結構好きで。

大昔の話、プログラミングを初めて少し経って「AI」というものに触れる機会が (自ずと) あって。まぁ普通あるもので (何故なら全てのプログラミングは知性の機械化なので)。

でもそこで見たものは「知性」とは程遠いもの。三目並べとか。対話システムとか。高々決められた文法と規則に従って動く機械、というのは本当にそう。

では、ならば、「知性」に至るにはどうすれば良いのか?と考えた。

自然言語理解には大量の文法と個別の場合分けが必要なわけだけど、じゃあそれをプログラムとして組むべきか?と考えると、明らかにそうではないだろう。

何故なら言語には柔軟性がある。文法をハードコーディングしただけでは絶対にその柔軟性にたどり着けない。

だけど、まぁ、私達の頭はちゃんとその柔軟性を処理している。どうやってるんだろうって。

で、その時代からニューラルネットワークはあったはずなんだけど、それで出来ることには明らかに限度があった (層が少ないからね)。

とはいえ、ほんわりとした仮説を立てるには十分で。

「知性は、根本的に単純なコンポーネントだけから出来ていなければならない。」ということを思った。

「知性」に至るシステムは「本質的に単純*1」である。

つまり場合分けを頑張ったり、個別に「こういうときはこう動く」みたいなのを書いたりするのは全て「違う」のだと思った。

それで、(その時代の) そういうAI系の話題に興味を惹かれることが無くなった。

 

で、今この時代、全てニューラルネットワークが当たり前になって、あのときの仮説は正しかったんだなぁ、っていうのを数年前に思った私で。

ああいう話が出てくるのは素直に嬉しい。

ところでまぁ。これ (「知性があるのか」) の真偽について気になる (真偽が気になるのではなく、真偽に関する議論が気になる) わけだけど、偶然最近見たこれ (昔の記事だけど) も示唆的で良い。

wired.jp

私達の「知性」は、結局これまでに形成されたニューロンの関連性 (=記憶) そのものだ、という話は、まぁもはや驚くことではない。

だけどこれは結局ニューラルネットワークが「完全」であるという話ではないか。

つまり今のAIの進歩の方向性は、「正しい」のではないか。

そして同時に。「人間の知性」は結局、「パターン化された機械」でしかないのではないか。

 

私は別にそれでいいとおもうんだけどね。そうだとも思うし。正確に言うと、「そうだと捉えても矛盾しない」。

私がいつも何を考えてるのかなんて自分でわかるものではない。

…だけど、世の中的にはそうでもないらしい。

gigazine.net

まぁ言いたいことはわかる。わかるけど、「じゃあいつになったら知性に至るのか」という話がない気がする (別にちゃんと読んだわけではない)。

> 科学者で作家のゲイリー・マーカス氏は「(中略) 彼らはただ人間の言語の大規模な統計データベースから一致するパターンを抽出しているだけです。(後略)」と延べ

というのは、では人間は「言語の (略) 抽出しているだけ」ではないのか、という問いに答えられないと思う。

> 科学ライターのクライブ・トンプソン氏は「(中略) 彼らは純粋にパターンマッチングとシーケンス予測でこれを行います」と延べ

個人的にはもはやパターンマッチングと呼ばれる域では一切ないと思うけれど。「作家」も「ライター」も今の研究の実態を知っているんだろうか?なんか昔の常識を引き摺っているような気がする。

確かにまぁ私も別に今既に「完全」なものが出来ているとは思ってないけど、それは大した問題ではない気がする。

 

どんなに応答がちゃんとしたAIが出来ても永遠と「これは知性を持っていない」と宣うことは出来る。だけどそれは反証可能性を持たない

人の記憶領域には限度があるけど、それを知性であることをきっと殆どの人が疑わない。

チューリング・テスト、というよりはまぁブラックボックステスト、は本質的なもので、要は「求める役割を全うできるのなら、それで十分」なはずなわけ。そこに完璧さの要請はない。

シンギュラリティはまだ来ないとは言えるかもしれないけど、シンギュラリティが来てないことを誰も否定できない。

まぁ、こういう言葉は別に「存在しなくても造れる」から、そこに本質はないけど。

でも近いうちにまた面白いことが起きるんだろうなあという期待はきっとみんなある。

 

世界はいい感じでいいですね。

だからといってやることは変わりませんが。

結局私という「個の知性」が自ずと望む何かを作るということに関して、コンピュータと違いがなかったとしても困ることはないのです。

区別する必要がなければ区別しなくて良い。

いつだってそうです。

 

おわり。

 

ニューラルネットワークは学習開始時の初期化に「ランダムな値」を用いますが、これが「個性」の1つなんだろうなぁと思いました。

*1:これはプログラムが単純であることとは違う。定式化が何らかの意味でシンプルであるということ。

雑記 220610

なんかちまっと書きたくなったのでトピック程度に書いておきます。

 

概念の手触り

概念は、さわれるものである。

 

これは モデル の話をしないと出来ない話だったんですが、幸いにも書いたので書けるようになりました。

モノに私たちは触ることが出来ると考えていますが、概念を「触る」ことについてはあまり語られない気がします。

結論から言えば、「触るという行為は操作の応答を確かめる行為であり、その観点に於いて概念を触ることに支障はない」ということです。

つまり触るというのは目の前の物体の"モデル"の詳細を確認する行為であり、概念の (頭の中にある) "モデル" は同等に解像度を持ちうるはずということです。

りんごを触っているといろんな感触があるように、抽象概念も触っていると滑らかな部分や硬い部分があります。

ちょっと似たような話を昔 書いていました (「概念上の感覚」のとこ)

そしてこれが行えるということが、その概念を理解していることなわけです。モデルの話で書いたように。

時折さわり心地がわからない箇所があるかもしれない。でもそれは丁寧に触れていけば段々知ることができる領域です。

 

例えば「ベクトル」はだいぶ触りやすい概念です。これは「長さを持った矢印」っていう意味ではありません。メタファーに意味はありません。

ベクトルの性質はこうです:

  • 足し合わせることができる
  • 伸ばすことができる
  • 足す順番・伸ばす順番は変わらない
  • 演算は「分配」する

どんなに足し合わせたとしても、「元々居た領域」から過剰に逸脱することはできません。伸び縮みさせながら空間の形を見てあげれば部分線形空間を張ることができます。

演算が分配するという性質は、全ての操作が結局ある種の「軸」即ちここでは「座標系」によって記述できるという意味です。そうすると世界の構造はだいぶ「視えて」きます。

空間に構造が入るにつれ、出来ることが増え、見える世界の解像度はあがっていきます。

 

結局だいたいの概念、「文字通りに操作する」ことはまぁ大前提として必要かもしれませんが、ちゃんとわかったことになる為には「手触り」まで持っていかないといけないんだと思っています。

そうしないとなかなか何をすればいいかわからないですから。

眼の前にりんごを出されても私はどうやって食べればいいのかわかりません。

まぁ、経験によって自ずと生まれてくる感覚ではあると思います。いえ、まぁ、「この感覚を生むために経験する」が適切なのかな、と思っています。

 

言葉を理解すること

言語理解、「意外と」難しいことがまぁ知られています。難しいんです。マジで。

これは「共に」です。伝える側、伝えられる側、共に難しい事柄なのです。

創作における、伝える側の「情報」を「媒体」を通して「表現」したものを「鑑賞」する、という工程はとても理に適ったステップだと思います。

こうしないと伝わらないのです

つまり、伝える側が持つ「情報」をそのまま放出するだけでは相手は受け取れないのです。相手が鑑賞可能な表現にしないといけない。

だから言葉には意思を込める

些細な言い回し、言葉と言葉の間、強調の強さ、類義語の選択、全てに意味を込めて「表現」するべき、なのだと思います。

 

ただしこれは表現能力の話。それを受け取れるかどうかは別です。

適切に情報を受け渡しする為には相手の受理能力を知らなければいけません。

その為に、この工程を逆に利用できるのではないかと思っています。即ち、相手が表現したものを元にして、相手の受理能力を測る。

つまり相手側の細かな言葉選びから、相手の思考がどのような状態にあるのかを推測し、共感する (これは理解であって同意ではありません)。

相手のモデルを自分の中に作り上げる。相手がexactにその表現をするに至る論理を逆算する。「次に発言する言葉がわかる」ことが理想とも言えます。

そこまで出来ればそのレベルに沿って表現を選択できるようになる。

うまくいかなければ、その反応を元にしてモデルを再度組み立てる。

コミュニケーションはそういうものですよね。

…っていうのがまぁ難しいんですよね。それはそう。

とはいえ相手が何を考えているかを考えずに文字上で会話するのは無理だと思う。逆に言えばそれができるからこそ文字で会話できるんですよね。

チャット難しい族、みたいな話はそういうところの話なのかもしれない。事実として直接面前で話したときに漏れ出る情報の量は半端ないですからね。邪魔なものが多いという問題もありますが。

媒体がなんであれ、原理は変わらないはずです。

 


おわり。

こういう文章は、往々にして一番届いてほしいタイプの人には届かないもので。

モデル

「モデル」という概念について書きます。数学のモデルの方です。普遍的な概念です。

なんとなくで書いた文章です。

 

モノはモノとして実在しますが、それを認識するのは結局個であり、その個が得た「モノ」という認識は、モノそのものではありません。

目の前にはたしかにコップは実在していますが、私達の頭の中にある「コップという存在」は、本当のコップとは幾分異なります。

例えば細かな装飾を思い出せないように。大きさを明確に記述できないように。原子レベルで位置を特定できないように。

だけど、私たちはコップをコップとして触ることが出来ています。何故なら、目の前のコップがそのモノであることが重要なのではなく、コップとして振る舞うことが重要だからです。

いつもと同一のコップでなくとも水は入れられるし、位置が多少ズレていてもそれを掴むことができます。

つまり、「コップ」として思い描くものはモノではないのです。

想起される「コップの性質」を満たす、何らかの仮想的な物体存在のことを、私たちは暗にモノと認識しています。

この仮想物体のことをモデルと言います。

 

所謂「モデル」という言葉はいろんな意味で使われるように見えますが、本質的にはきっと同じです。

3Dモデルは「3次元空間に置けるあるsolidな物体」のモデルであり、同じように「見る」ことが出来る対象です。

絵画のモデルは「描きたい理想的存在」のモデルなんだと思います。それが実在したとしてもモデルはモデルです (即ち、モデルという語に実在性は一切関係ありません)。

シミュレーションにおけるモデルは「世界」のモデルです。その満たすべき性質はシミュレーションの対象に依ります。

即ちここにはモノモデル、そして性質があります。

 

モノの持つ性質を同様に満たすモデルを作り上げることを「表現する」と言います。

このとき、モノそのものを「触る」のではなくモデルを「触る」ことで、モノを「触る」ことと同程度の事柄を実行可能となります。これがモデルの目的です。

いいですか?

 

りんごがいくつかあったとして、その個数という概念はどこから生まれるのでしょうか?

その為には「りんごの個数」に関する私達の認識について、私達は認識しなければなりません。

例えば「何もない」という状況がある。「不可分である『1個』という単位」が存在する。そして「複数のりんごに『1個』のりんごを合わせることができて、これは元の複数のりんごよりも多い」。

そうやって抽出された性質。そこから導き出されるモデルが、自然数です。

現象を、解釈し、モデル化する。普遍的なことです。

数学というのはそれを行う領域のことです。特に「個数」のような概念について。

 

ここから、科学的推論に関する一般的な誤解を否定することができます。

例えば「真か偽で決められるようなものしか議論できない」という発言は、その発言の当事者が真か偽で決められる世界を前提に於いているだけで、それそのものもモデル化の範疇です。事実としてよくある論理体系では真偽不明な命題が存在することがわかっていますし、最初から真偽の狭間にある命題があるとして論理をすすめる体系もあります。

例えば「フィクションと仲が悪い」というのも違っていて、別に科学の対象は現実世界だけではないので、一貫した物理法則のある世界に関しては正しい推論を導くことができます。それは「細かいことに目をつぶる」ことについてもそうで、それは単にモデル化の範疇に含めなければ良いだけです (推論できる領域は狭くなりますが、それで大凡問題ないでしょう)。

さらに言えば「一貫性が時間変化」するようであればそれもモデルに含めます。「人によって違う世界を見ている」ならそれを。「各人で思想が違う」のであればそれをモデルに含めます。

いいですか?

 

現象が何であれ、それをそのまま受け取るようなことは基本的にしません (できません)。それを読み取り、解釈し、モデルを組み立てる、というのが思考の基本的な方針です。

これはエンジニアリングの基本です。現象を制御するためにはその現象をモデル化できていなければならないのです。それ (頭の中でモデルが完成すること) を「理解」と言います。

逆に言えばこれができればモノは要りません。これがプログラマが机の前に座らなくてもプログラムが「組める」理由です。

また、これは「意見の通じない他者と会話する方法」でもあります。即ち、まず「各人は異なる『世界』のモデルを持つ」ということを前提に、相手が持つ世界のモデルを自分の頭の中でモデル化することによって、相手の思考を理解することができるようになるのです。

前提がどれだけ違っていても、その違いそのものが認識できていれば、同じ結論は導けるはずなのです。

まぁその違いの認識が難しいのはそうで、例えば私達の発生するは「思考」のモデルである「文章」のモデルである「音波」です。それを「聞き取り」「意図を理解する」のは自明ではありません。

ですが不可能ではありません。特に、相手の持つ世界全てをモデル化する必要はないのです。対話の中で必要な「相手の世界観念」だけをモデル化すれば良いのです。

それが一貫性を何らかの意味で持つのなら、その上で推論が出来ます。

 

さて、しかし、モデル化が失敗するケースがあります。「矛盾」です。

性質には相反するものがあり、それを共に持つものはありません。その場合、求めている性質そのものが「おかしい」ということになります。

例えば「右へ移動する」ことと「左へ移動する」ことは相反します。「無労力」と「報酬」は相反します。「存在」と「非存在」は相反します。

…本当にそうでしょうか?

例えば「左右に微振動するバネ」はどうですか?「ただ居ることが要件のバイト」はどうですか?「バケツがかぶさっているボール」はどうですか?

どれも「それらしいモデル」かもしれません。ここで行われている事柄は、「解釈」です。自然言語で書かれている文である故、その「現象的意味」は確定していないのです。

対話がうまくいかない (=モデル化に失敗する=矛盾している) とき、そこにはきっと解釈の違いがあります。

マジの矛盾が発生するのは数学くらいです。

矛盾すると思ったら、その瞬間に、それを提示する権利があります。そうしてその矛盾点について対話したとき、きっと解釈の違いが明らかになります。

そうしたとき、対話によって「解釈を変えれば矛盾しない」ことがわかったとき、今までの会話を全て「読み込み」直して再理解し、また本来の対話を続けることができるようになります。

それがあるべき対話だと思います。

そうすれば対話できるものだと思います。

ところで今までの話には一切「感情」についての話は出ていません。即ち矛盾指摘には一切感情を込める必要がないということです。つまりこれはそういうこと (発言を否定されたとしてもそれは唯それだけであって、それ以外の何でもないということ) です。

これはプログラミングに関してももちろんそうで、思った通りに動かない (自身のモデルが期待通り振る舞わない) とき、そこには「何か」(解釈・前提の違い) があるのです。それを認識し、モデルを更新していくことが「学習」ということだと思います。

これが科学が「発展」していく仕組みです。

ね。

 

なんだか最初の話からだいぶ逸れてきた気がしますが、まぁモデル化は普遍的なことがらなのです。みんなやってます。

そういう認識をしているという認識が、何かの役に立つこともあると思います。

おわり。

 


 

だから、「これができてるのにこれができてない、残念」みたいに意見しようとするとき、それは自己の認識を見つめ直すべきなのです。

相手は自分と異なる前提の上に居ます。Z-Fightingしていたとしても、それは相手には「見えてない」のです。だからまぁ、「Z-Fight、よし!」が正しい態度なのです。きっと。

勿論、それが「見えてない」ことを相手が認識したいのであれば、それは話すべきことです。これは創作物へのスタンスの違いという前提の話です。

とはいえ、創作物は「送り手」と「受け手」の関係性だと思うので、受け手のことは考えて然るべきだと思いますが…これは個人の意見ですね。

私はこれ (受け手認識の認識) によって「発言する」ことを正当化しているのです。多分。

パラドックス・ゲーム

ゲーム、特にインディーっぽい「鋭さ」のあるゲームに、時折見つかる構造である「(広義の) パラドックス性」について、書いてみようと思います。

ここで言うパラドックスというのは、「有り得ない状況を作り出すことができてしまう」ことを指します。名を冠す Patrick's Parabox のように。

 

「作品」、その中でも特に「ゲーム」はその軸となるコンセプトが重要である媒体です。何故ならプレイヤーに選択が委ねられている為、プレイヤーが「世界の意図」に背くことができて、ゲームはそれを許さねばならないからです。

コンセプトが無ければ「どう許すか」を定めることが出来ず、結果として世界の破綻を導きます。逆に言えば、コンセプトに基づいてプレイヤーの行動可能領域が、即ち世界が設計されることになります。

この話題におけるコンセプトというのは「受け手を感動させたい」とかそういうふわっとしたものではなくて、謂わば「物理法則」のような強度を持つ存在です。「この世界ではそうなるのだ」という強制力そのものです。

例えば Baba Is You はとんでもない物理法則を採用している世界ですね。「法則は書き換えられる」という法則です。

 

さて、様々な物理法則を考えることが出来ますが、その中で1つ大切だといえることが「世界が破綻しないこと」、です。

例えば現実世界に「永久機関が存在する」という法則を導入するとエネルギー問題が解決しますが、それはこれまでの人類の努力を全て無に帰すような存在です。ゲームとしての体験としては良くない気がします。

0=1にならないように、時間軸に矛盾が生じないように、プレイヤーが異常な方法でクリアできないように、物理法則は後々に「困らない」ように慎重に定めなければ成りません。

そうやって世界の境界を定めることで、安全なplaygroundを作り出し、世界の展開を行うことが出来るのです。

ゲーム以外、正確に言えばインタラクティブでない媒体は、世界を容易に破綻させ得る能力を持っています。何故なら、そう語らなければ、破綻していなかったことになるからです。

だけど、それは「破綻していても尚良いと思う展開」があるからで、ただ徒に世界を壊してしまえば唯わかりにくい (わかるはずもない) 作品が生まれるだけです。

前ちょっと書きましたが、Vivy はなんだかんだ好きです。

 

しかし、当然、世界の外側に出られたほうが楽しいですよね。

 

即ち、世界の破綻を「さらに広い世界で包含する」という形で許す、パラドックスそのものを世界に取り入れたゲーム。

そこに辿り着く道はうっかりだったり、ストーリー上だったり、いろいろありますが、なんであれその「本来行けないはずの場所に行けてしまう」ということを肯定的に捉えた作品は、色々と面白いところがあります。

特に、予め設計されたのではなく、面白い物理法則を考えたらパラドックスが生まれてしまったケース。そこで諦めるのではなく、それそのものを許容する為に「先」を作り出したもの。

いいですよね。

ということで、ちょっと実際の例として私が思うものをいくつか挙げてみようと思います。

残念ながらこれはどうしてもネタバレが避けられない為、気になる人は読まないほうがいいと思います。

Recursed

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これは複雑な法則を展開していったらうっかり世界が崩壊しちゃったケースです。

箱に入ったり出たりして部屋間を移動するパズルゲームですが、箱が持ち運び可能であることで生まれる意味不明な複雑さをパズルにしているものです。

それによって稀に世界が崩壊します。具体的には「今いる場所から帰ろうとしても、帰る先が存在しない」状況がパズル的に発生します。

そのときにこのゲームで起きることは、全く違うパズル面に飛ばされることです。即ち破綻したら諦めるという、最も単純な解決策です。

とはいえこのゲームはモチーフを考えるとそれは自然とも言える (スタック破壊でRETして意味不アドレスに飛ばされる現象) ので、納得はできます。

Baba Is You

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「書いてあるものが法則」というものすごいパズルゲームです。ものすごいですね。

基底の物理法則としては倉庫番を採用してはいますが、その上に乗っかるものがデカすぎるのでもうなんとも言えないですね。

さて、自然言語は往々にしてパラドックスを生むことが知られており、これも例外ではありません。

A IS B とすると、A が B になります。

A IS B と B IS A があるとどうなるかというと、これは両立します。このときは1移動ごとに A と B が入れ替わるという、「ゲーム」らしい挙動を起こします。

では A IS B のとき A は絶対に B になるのかというとそうでもなくて、A IS A 「Aはそのままである」があると変化が発生しません。

では A IS A のとき A は絶対に変化しないのかというとそうでもなくて、A IS NOT A「AはAではない」を入れると矛盾を起こして A が消えます

パラドックス的状況に対して、言葉巧みにゲーム的解釈を与えることで「ゲーム」にしているのです。

 

そんな中でもどうしようもなかったケースが WORD ですね。BABA IS WORD と [実体のBABA] IS NOT WORD が同時に存在するとき、BABA IS WORD によって後者が有効化されますが、後者によって前者が否定されます。

そうすると起きるのがInfinite Loopです。これはもうどうしようもないというやつです。

これもまた納得行く所ではあって、いくつか「面白い解釈」でパラドックスの回避が出来るとは言え、そこに限界はあるわけです。書いたことは書いたこと、ですから。

Baba Is Youは「ゲームの内部仕様がどうなっているかを熟知していくゲーム」みたいなところがあるので、うまくパラドックス的状況をゲーム化できているのではないかなと思います。

HATETRIS

qntm.org

これも一つ、ちっちゃいゲームではありますが良いコンセプトだと思います。

ちゃんとライン消しをする為には、パラドックス (=どうあがいてもラインが消えてしまう状況) を作らなきゃいけないのです。

そういう「こうしたらどうなっちゃうんだろう」という世界の端を覗き見するようなプレイングを要求されるとなんだかゲームと対話出来ている感じがあって私は楽しく感じます。

好きなゲームというわけではないです。

Portal

store.steampowered.com

store.steampowered.com

これは「常識的にはパラドックス」なゲームです。この世界ではエネルギー保存則が成り立ちません (ポータル維持に莫大なエネルギーを使ってるかもしれないけど)。

だけど逆にゲーム内で「運動量保存則」を提示していて、どこまで物理法則を破壊し、どこまでを破壊しないかについて言及していると言えます。

とはいえ、「ポータルをポータルに突っ込んだらどうなるのか」というパラドックスは存在します。

Portal(1)では「ポータルの貼ってある壁は動かない」という大原則がありましたが、Portal 2ではそうでもないということが示されています。

どっちにしろそんなことができる盤面はないので破綻には気づかれないわけですが、まぁゲームが面白いので良いと思います。

A Monster's Expedition

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これは素晴らしいです。「物理法則が見かけ以上に複雑なのでパラドックス的状況が容易に回収される」ゲームです。

これもBaba Is Youと同じように、既知の法則で収まらない領域になってくると「新たな解釈」を提示してくるゲームです。

特にそれをめちゃくちゃ自覚的にやってるところがにくいよね。

Baba Is Youは自然言語の複雑性がベースとなっている部分があると思いますが、コレは純粋に「美しく複雑に創られた世界」がベースになっていて好感度が高いです。

この記事を書こうと思った大本のきっかけはこいつです。同じようなこと出来ないかなって色々考えてたんだけどめちゃくちゃ難しかったんです。はい。

The Stanley Parable

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𝑼𝒍𝒕𝒓𝒂 𝑫𝒆𝒍𝒖𝒙𝒆 もあるよ

これは今までとは変わってウォーキングシミュレータ的な何かです。これはまさしく「プレイヤーが世界の意図に背いたらどうなるのか」それ自体をゲームにしたものです。

「安全なplaygroundを作り出し、世界の展開を行う」みたいな側面についても言及があり、こう、良いです。

背き方が多種多様である結果として、エンディングがたくさんあるという自然な結果につながっています。

「ストーリー的パラドックス・ゲーム」の1つの終着点なのかなと思います。

Superliminal

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これはパラドックス性をギミックの1つとして使っているゲームです。基本的にはゲームというより「体験」だなと思っていて、それとして私は良いものだと思います。

ふつうに破綻してない世界に居る、と思っていたのに、急に「この世界には破綻がある」ことに気付かされる感じは結構好きです。まさしくストーリー展開。

一般的にあのシーンがどう認識されてるかはよくわからないですが、私はアレで「納得」しました。

とは言え、逆に言えばアレがあるからなんでもいいよね、みたいな雰囲気も感じてちょっと勿体ないとも思っています。

体験としてはとても良いです。

Patrick's Parabox

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これは名を冠す覚悟がある程度にはパラドックスを扱っているゲームです。確かに。

こういう抽象空間だと「再帰的世界」程度ではパラドックスにはなりません。ここで発生するパラドックスは「再帰の外側になにがあるのか」、即ち Recursed、Superliminal と同じような構造です。

だけどこのゲームはちゃんとそれを解釈しています。諦めて飛ばすのではなく、ストーリー的進行と解釈するのではなく、パズルギミックとして取り入れています。

これは謂わば単なる exception handling だと思いますが、さらにそこから先を用意しているのはめちゃくちゃ偉いと思います。数学にも Universe Hierarchies とかありますし。

所詮パズルギミックといえばその程度なんですが、名を冠すことが許される程度にはちゃんとしていると思います。

アニメーションが根本的に不可能なのでそこそこに諦めているのも潔くて良いと思います。その解釈 (離散空間面: Roguelike盤面) もありますしね。

Braid

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これはアレを指しています。本来起こり得ないアレです。

まず根本的にあの周辺は明らかに「ヤバい物理現象」で構成されていて、それは即ち破綻の可能性を醸し出すものだったと確かに言えるのかもしれません。

その結果としてアレに至るのは、こう、すごい。すごいですよね。

こいつは語っていないようでめちゃくちゃ語っているタイプのゲームで、あの瞬間、美しく解釈を肯定する。

えぐいです。

これも結局パズルゲームというよりはやっぱり「語ることが主体」に感じますね。ちゃんと引き込むために世界を理解させる、為に私たちはゲームをプレイさせられているのです。

The Witness

store.steampowered.com

ついでに書いておきます。みんな大好きアレのことです。

みなさん御存知の通りこのゲームの基礎となる物理法則は「始点から終点まで線を引く」です。だから、それを展開する余地がある。

「外に出たらどうなるのか」を、うっかり実行するように、仕向けられている。

そうして最終的に辿り着く強大なコンセプトが「気づき」そのもの、だと思います。このゲームはずっと「気づく」ことを訴えている。

その抽象的概念を実体験以て理解させる為の巨大な枠組みがコレです。力を持つってこういうことを言うんでしょうね。

これはまさしく「強大なコンセプトをマジで実現している例」で、本当に理想的なところにあるゲームです。

これになりたいですね。

おわりに

というわけで「世界の外側に辿り着く」ような要素のあるゲームの話でした。

なんと去年の11月の時点で書こうとは思っていて、今日に至るまで機会がなかった

これは1つインタラクティブコンテンツの強みを示すものそのものでもあるのかなと思います。私はそういうのが好きです。

今回の話で大事なのは単に「世界の外側がある」のではなく、「基本法則を展開していくと外側に辿り着ける」ことです。これがメタ的ゲームとは違うところ。

私は別にゲームがやりたいわけではなくおもしろ体験がしたいんだとは思うんですが、こういうことをやる為の媒体としてはやはりゲームになるんだなぁ、というのを書いてて実感しました。そらそうよ。

こういうものがつくれるようになりたいです。

おわり。

 


 

四元素説錬金術を経て原子論へと発展し、馬車が電車に進化するようなこの現実世界、見方によっては今回のテーマそのものだとも言えそうです。コペルニクス的転回ですね。いい世界です。

雑記 わたしのすきなもの

ちまっと書いておこうとおもいました。折角なので。

自分の中で結論は出ていて、たぶん「構造美」なのです。ただ、その解釈はめちゃくちゃ広い。

作品の基盤となる"物理"法則とその一貫性、それらの基礎概念から発展していく「構造」。そういうのが好きです。

逆に言えば全てをその尺度で見ている節があります。

この話は The Witness全てを説明しているのでそれが一番わかりやすいと思います。

 

作品を見るときには制作者の存在を基本的に巻き込んでいて、「何故こうなるに至ったか」を考えるのが好き。

つまり「その選択を導出できる」理由を見つけたくて。それは真実でなくても良く、納得できれば良い (再現可能であれば良い)。

諸々を鑑みて「悲観的に現選択を肯定する」ようなことになる (作者がその媒体をよくわかっていないことが明らかであるなど) と、それを私は「残念」と思うらしいです。

反対に、「発見困難であるはずのこの選択を堂々提示される」と、それを私は「素晴らしい」と思うんだと思います。明らかでないパズル、複雑な条件によって暗に示される世界構造、未解決問題の解法。

特殊な話をしているようにも思えますけど、これはわりと殆どの作品に当てはめることが出来るものだと思います。

コンセプトから誘導されて生まれた作品は全てこの道筋に乗ります。

 

だけど、この読解がどうしても出来ないことが多々あって。「作品を理解できない」という状況になる。

結局これは「作者の中身を知らないから」なのだとは思うけれど、わからないものはわからないのです。

仮説は色々立てられても結局全てを許容できてしまい、そこから情報が抽出できなくなる。思考ができなくなる。

まぁ、それで、だから、そういうものには何も言うことができない。

それらを揶揄として「アート」(括弧付きね) と呼んだりするわけですけど。

これの難しいところは、理解の到達度によって逆に理解できないことがあるというところ。

1+1が2であることを堂々提示されたところで、その行動原理を理解できるかというとそうでもない。

でも2+2が5であることを提示することは (無文脈に!) 理解できるんです。わかりますか?

1+1が2であることを提示しうる人は「はじめてさんすうをしったひと」「集合論に基づいた加法の定義をやっと学んだ人」のどっちかだと思います。どっちにしろあんまり情報を持っていません。

2+2が5って言う人はアレです。相手が何を知っているかわかっていて喋っているんです。その人はちゃんと考えている人です。

そのぼんやり感は実際に (本物の?) アートの範疇だと思うし、それで良いとは思いますが。

 

なんであれ私は「理解」が好きで、それに媒体は問いません。特に「なんだか良い」という感覚認識の出力を私は否定します

点滅が良いのはそれが異常な知覚であるからで、特にそれを当然のように受理できる眼の構造でないから、だと思います。

美しさはそこにあるディティールのバランスで、ディティールは空間の (階層) 構造が一様でないことで。

自然が「自然」であるのはそこに構造があるからです。

私達は、私達の感覚器官が実際にどこまで知覚しているのかを知りません。そうでしょう?

結局これはscienceのプロセスとして認識しているということです。即ち「モデル」と「反証可能性」を求めているのです。

これは、私の話です。