作品は閉じてほしいという願い。閉じた作品は良いものであってほしいという願い。閉じた作品を作りたいという願い。
いわゆる「偶然の出来事」「疑似相関的つながり」「本質的でない参照」をベースにした作品は、それ自体で「強度」を確保することができない。
それはtwitterに流れてくる動画が消費されていくように。そこから得られるものは何も無い。
言語に頼った作品は「ズル」から抜け出せない。嵌らないはずのピースを無理やりつなげているものは好きじゃない。
そこにあるトリッキーは確かにentertainするかもしれないけど、それ以上に辿り着かない。
古の物語や歴史を参照すれば、自身の正しさを保証する手段を失う。存在を転嫁してしまう。巨大な文脈に絡め取られてしまう。
だから、そういうものを基盤にするわけにはいかない。
消費できないもの、つまり残るものにする為に、そこにはそれ単体で完結する「繊維」があってほしい。
その構造は普遍的なもので、主観があっても客観と両立するもので、展開の方向が存在するもの。
一時の面白さで終わらずに、ちゃんとその「強度を持った基盤」を提示して終われるような。
人を永遠に喰ってしまうような。
そんな作品のことを「良いもの」だと呼びたい。
そしてそれになりたい。
昔つくった「『る』に棒を刺して『ね』にするゲーム」は、"文字通り"言語に頼った作品になってる。多少の発展はするようになってるけど、それはこの枠を飛び越えない。
だけど、「違うと認識するものを、少しの操作で同じにできるという構造」は普遍的で、汎用的で、本質的だと思う。
とはいえ、前者のようなゲームは「悪」ではないし、良いものは良いとは思う。私が作りたいとは思わないだけかな。
まぁ、アレの基盤は別に「ひらがなはおもしろいね」ではなく「同時並行作業の簡略化」にあるわけだけど。
でも類似した構造を、横方向に広げるだけで展開しない、その深みを出さない作品を永遠と作るのはあまり好きではない、のは確かだと思う。
例えば単に面がたくさんあるパズルゲームは好きじゃない。解く行為に楽しさは無い。私は。
その一つ一つに意味があってほしい。
何か普遍的なものを題材にしている作品は、遊ぶだけではない、記憶を塗り替えるような何かがある。と思う。
作品のことは覚えてなくても、それによる影響はきっと残っているものかもしれない。