珍しく時事の話。
これ結構好きで。
大昔の話、プログラミングを初めて少し経って「AI」というものに触れる機会が (自ずと) あって。まぁ普通あるもので (何故なら全てのプログラミングは知性の機械化なので)。
でもそこで見たものは「知性」とは程遠いもの。三目並べとか。対話システムとか。高々決められた文法と規則に従って動く機械、というのは本当にそう。
では、ならば、「知性」に至るにはどうすれば良いのか?と考えた。
自然言語理解には大量の文法と個別の場合分けが必要なわけだけど、じゃあそれをプログラムとして組むべきか?と考えると、明らかにそうではないだろう。
何故なら言語には柔軟性がある。文法をハードコーディングしただけでは絶対にその柔軟性にたどり着けない。
だけど、まぁ、私達の頭はちゃんとその柔軟性を処理している。どうやってるんだろうって。
で、その時代からニューラルネットワークはあったはずなんだけど、それで出来ることには明らかに限度があった (層が少ないからね)。
とはいえ、ほんわりとした仮説を立てるには十分で。
「知性は、根本的に単純なコンポーネントだけから出来ていなければならない。」ということを思った。
「知性」に至るシステムは「本質的に単純*1」である。
つまり場合分けを頑張ったり、個別に「こういうときはこう動く」みたいなのを書いたりするのは全て「違う」のだと思った。
それで、(その時代の) そういうAI系の話題に興味を惹かれることが無くなった。
で、今この時代、全てニューラルネットワークが当たり前になって、あのときの仮説は正しかったんだなぁ、っていうのを数年前に思った私で。
ああいう話が出てくるのは素直に嬉しい。
ところでまぁ。これ (「知性があるのか」) の真偽について気になる (真偽が気になるのではなく、真偽に関する議論が気になる) わけだけど、偶然最近見たこれ (昔の記事だけど) も示唆的で良い。
私達の「知性」は、結局これまでに形成されたニューロンの関連性 (=記憶) そのものだ、という話は、まぁもはや驚くことではない。
だけどこれは結局ニューラルネットワークが「完全」であるという話ではないか。
つまり今のAIの進歩の方向性は、「正しい」のではないか。
そして同時に。「人間の知性」は結局、「パターン化された機械」でしかないのではないか。
私は別にそれでいいとおもうんだけどね。そうだとも思うし。正確に言うと、「そうだと捉えても矛盾しない」。
私がいつも何を考えてるのかなんて自分でわかるものではない。
…だけど、世の中的にはそうでもないらしい。
まぁ言いたいことはわかる。わかるけど、「じゃあいつになったら知性に至るのか」という話がない気がする (別にちゃんと読んだわけではない)。
> 科学者で作家のゲイリー・マーカス氏は「(中略) 彼らはただ人間の言語の大規模な統計データベースから一致するパターンを抽出しているだけです。(後略)」と延べ
というのは、では人間は「言語の (略) 抽出しているだけ」ではないのか、という問いに答えられないと思う。
> 科学ライターのクライブ・トンプソン氏は「(中略) 彼らは純粋にパターンマッチングとシーケンス予測でこれを行います」と延べ
個人的にはもはやパターンマッチングと呼ばれる域では一切ないと思うけれど。「作家」も「ライター」も今の研究の実態を知っているんだろうか?なんか昔の常識を引き摺っているような気がする。
確かにまぁ私も別に今既に「完全」なものが出来ているとは思ってないけど、それは大した問題ではない気がする。
どんなに応答がちゃんとしたAIが出来ても永遠と「これは知性を持っていない」と宣うことは出来る。だけどそれは反証可能性を持たない。
人の記憶領域には限度があるけど、それを知性であることをきっと殆どの人が疑わない。
チューリング・テスト、というよりはまぁブラックボックステスト、は本質的なもので、要は「求める役割を全うできるのなら、それで十分」なはずなわけ。そこに完璧さの要請はない。
シンギュラリティはまだ来ないとは言えるかもしれないけど、シンギュラリティが来てないことを誰も否定できない。
まぁ、こういう言葉は別に「存在しなくても造れる」から、そこに本質はないけど。
でも近いうちにまた面白いことが起きるんだろうなあという期待はきっとみんなある。
世界はいい感じでいいですね。
だからといってやることは変わりませんが。
結局私という「個の知性」が自ずと望む何かを作るということに関して、コンピュータと違いがなかったとしても困ることはないのです。
区別する必要がなければ区別しなくて良い。
いつだってそうです。
おわり。
ニューラルネットワークは学習開始時の初期化に「ランダムな値」を用いますが、これが「個性」の1つなんだろうなぁと思いました。
*1:これはプログラムが単純であることとは違う。定式化が何らかの意味でシンプルであるということ。