ちまっと書いておこうとおもいました。折角なので。
自分の中で結論は出ていて、たぶん「構造美」なのです。ただ、その解釈はめちゃくちゃ広い。
作品の基盤となる"物理"法則とその一貫性、それらの基礎概念から発展していく「構造」。そういうのが好きです。
逆に言えば全てをその尺度で見ている節があります。
この話は The Witness が全てを説明しているのでそれが一番わかりやすいと思います。
作品を見るときには制作者の存在を基本的に巻き込んでいて、「何故こうなるに至ったか」を考えるのが好き。
つまり「その選択を導出できる」理由を見つけたくて。それは真実でなくても良く、納得できれば良い (再現可能であれば良い)。
諸々を鑑みて「悲観的に現選択を肯定する」ようなことになる (作者がその媒体をよくわかっていないことが明らかであるなど) と、それを私は「残念」と思うらしいです。
反対に、「発見困難であるはずのこの選択を堂々提示される」と、それを私は「素晴らしい」と思うんだと思います。明らかでないパズル、複雑な条件によって暗に示される世界構造、未解決問題の解法。
特殊な話をしているようにも思えますけど、これはわりと殆どの作品に当てはめることが出来るものだと思います。
コンセプトから誘導されて生まれた作品は全てこの道筋に乗ります。
だけど、この読解がどうしても出来ないことが多々あって。「作品を理解できない」という状況になる。
結局これは「作者の中身を知らないから」なのだとは思うけれど、わからないものはわからないのです。
仮説は色々立てられても結局全てを許容できてしまい、そこから情報が抽出できなくなる。思考ができなくなる。
まぁ、それで、だから、そういうものには何も言うことができない。
それらを揶揄として「アート」(括弧付きね) と呼んだりするわけですけど。
これの難しいところは、理解の到達度によって逆に理解できないことがあるというところ。
1+1が2であることを堂々提示されたところで、その行動原理を理解できるかというとそうでもない。
でも2+2が5であることを提示することは (無文脈に!) 理解できるんです。わかりますか?
1+1が2であることを提示しうる人は「はじめてさんすうをしったひと」「集合論に基づいた加法の定義をやっと学んだ人」のどっちかだと思います。どっちにしろあんまり情報を持っていません。
2+2が5って言う人はアレです。相手が何を知っているかわかっていて喋っているんです。その人はちゃんと考えている人です。
そのぼんやり感は実際に (本物の?) アートの範疇だと思うし、それで良いとは思いますが。
なんであれ私は「理解」が好きで、それに媒体は問いません。特に「なんだか良い」という感覚認識の出力を私は否定します。
点滅が良いのはそれが異常な知覚であるからで、特にそれを当然のように受理できる眼の構造でないから、だと思います。
美しさはそこにあるディティールのバランスで、ディティールは空間の (階層) 構造が一様でないことで。
自然が「自然」であるのはそこに構造があるからです。
私達は、私達の感覚器官が実際にどこまで知覚しているのかを知りません。そうでしょう?
結局これはscienceのプロセスとして認識しているということです。即ち「モデル」と「反証可能性」を求めているのです。
これは、私の話です。