なんかちまっと書きたくなったのでトピック程度に書いておきます。
概念の手触り
概念は、さわれるものである。
これは モデル の話をしないと出来ない話だったんですが、幸いにも書いたので書けるようになりました。
モノに私たちは触ることが出来ると考えていますが、概念を「触る」ことについてはあまり語られない気がします。
結論から言えば、「触るという行為は操作の応答を確かめる行為であり、その観点に於いて概念を触ることに支障はない」ということです。
つまり触るというのは目の前の物体の"モデル"の詳細を確認する行為であり、概念の (頭の中にある) "モデル" は同等に解像度を持ちうるはずということです。
りんごを触っているといろんな感触があるように、抽象概念も触っていると滑らかな部分や硬い部分があります。
ちょっと似たような話を昔 書いていました (「概念上の感覚」のとこ)
そしてこれが行えるということが、その概念を理解していることなわけです。モデルの話で書いたように。
時折さわり心地がわからない箇所があるかもしれない。でもそれは丁寧に触れていけば段々知ることができる領域です。
例えば「ベクトル」はだいぶ触りやすい概念です。これは「長さを持った矢印」っていう意味ではありません。メタファーに意味はありません。
ベクトルの性質はこうです:
- 足し合わせることができる
- 伸ばすことができる
- 足す順番・伸ばす順番は変わらない
- 演算は「分配」する
どんなに足し合わせたとしても、「元々居た領域」から過剰に逸脱することはできません。伸び縮みさせながら空間の形を見てあげれば部分線形空間を張ることができます。
演算が分配するという性質は、全ての操作が結局ある種の「軸」即ちここでは「座標系」によって記述できるという意味です。そうすると世界の構造はだいぶ「視えて」きます。
空間に構造が入るにつれ、出来ることが増え、見える世界の解像度はあがっていきます。
結局だいたいの概念、「文字通りに操作する」ことはまぁ大前提として必要かもしれませんが、ちゃんとわかったことになる為には「手触り」まで持っていかないといけないんだと思っています。
そうしないとなかなか何をすればいいかわからないですから。
眼の前にりんごを出されても私はどうやって食べればいいのかわかりません。
まぁ、経験によって自ずと生まれてくる感覚ではあると思います。いえ、まぁ、「この感覚を生むために経験する」が適切なのかな、と思っています。
言葉を理解すること
言語理解、「意外と」難しいことがまぁ知られています。難しいんです。マジで。
これは「共に」です。伝える側、伝えられる側、共に難しい事柄なのです。
創作における、伝える側の「情報」を「媒体」を通して「表現」したものを「鑑賞」する、という工程はとても理に適ったステップだと思います。
こうしないと伝わらないのです。
つまり、伝える側が持つ「情報」をそのまま放出するだけでは相手は受け取れないのです。相手が鑑賞可能な表現にしないといけない。
だから言葉には意思を込める。
些細な言い回し、言葉と言葉の間、強調の強さ、類義語の選択、全てに意味を込めて「表現」するべき、なのだと思います。
ただしこれは表現能力の話。それを受け取れるかどうかは別です。
適切に情報を受け渡しする為には相手の受理能力を知らなければいけません。
その為に、この工程を逆に利用できるのではないかと思っています。即ち、相手が表現したものを元にして、相手の受理能力を測る。
つまり相手側の細かな言葉選びから、相手の思考がどのような状態にあるのかを推測し、共感する (これは理解であって同意ではありません)。
相手のモデルを自分の中に作り上げる。相手がexactにその表現をするに至る論理を逆算する。「次に発言する言葉がわかる」ことが理想とも言えます。
そこまで出来ればそのレベルに沿って表現を選択できるようになる。
うまくいかなければ、その反応を元にしてモデルを再度組み立てる。
コミュニケーションはそういうものですよね。
…っていうのがまぁ難しいんですよね。それはそう。
とはいえ相手が何を考えているかを考えずに文字上で会話するのは無理だと思う。逆に言えばそれができるからこそ文字で会話できるんですよね。
チャット難しい族、みたいな話はそういうところの話なのかもしれない。事実として直接面前で話したときに漏れ出る情報の量は半端ないですからね。邪魔なものが多いという問題もありますが。
媒体がなんであれ、原理は変わらないはずです。
おわり。
こういう文章は、往々にして一番届いてほしいタイプの人には届かないもので。