某について考えたことをメモしておきます。ちなみに私はモノそのものよりも全体の構造に興味があるタイプなので必然的に文章が抽象的になりますが、これは別にボカしているわけではないです。(わかりますよね?)
ちなみに「どっちも」やってないです。
色々方向性はあると思いますが、面白いかもなあと自分で思う視点が:
某話題、誰も言わないけど「本当」の批判対象はそっちではなく「オリジナル」であるべきなのでは?とぼんやり思っている
— phi16 (@phi16_) 2024年1月21日
これで。
人々が強い感情を抱くきっかけの一つに「期待」があると思います*1。期待したものが出てきた。期待した反応が出てこなかった。
今回 positive な感想を出している人たちには、「某に期待していたもの」ではなく「オリジナルに期待していたもの」という言い方をしていた人がいました。なるほど。
それは、逆に言えば「オリジナルに期待していたが、出てこなかった」ということだと思います。つまり今ではなく、その時点でギャップがあるのですね。
ではそれは何故か。
もちろん正確な理由など知らないしそんなものは存在しませんが、一つの原因としては「ちゃんとしすぎた」ことかなと思います。
世の中はみんなそうやって動いていて。最初は荒削りだったものが時間が経つにつれて研磨されていく。それは「角を削り落とす」行為です。
この比喩を展開すると、「最初は粗雑なこともできたが、今となってはそれはストップが掛かる」という意味です。
当然で。それによって守ることができるものがあり。それによってさらに守ることができるものがある。そこに合理性があります。
気をつけなければならないのは、これは「善性」とは全く関係が無いという点です。合理性に基づく判断としてこれは導出でき、それが例えば善性に基づく保護行為と同一行為だとしても、逆にこれを善性と捉えることはできません。「関係は無い」というだけです。
で、私が思うのは、何かを守った結果*2、「ゲーム文化の発展を止めてきた」のではないか、ということです。
たぶんこれはある意味では当たり前の事実で。だって新しいゲーム構造みたいなのって大体インディーから出てきてて。だから今更指摘する人もその必要性も無いのだけど。
要は「神話は随分前から崩壊していた」ということで。誰も言わないだけで。
「それが良いものであった」という経緯から、現代も持て囃されているけれど、それが今でも成立するとは当然限らない。
で、それでいいわけないと思うんですよ。いや、そう思っていてほしいんですよ。でも「文化が成立」した以上、それは壊れない。
だから本当に面白いものを作るためには結局新しいところから始めるしかないと思うんですよ。既に立場がある企業にとってはね。
それをやらなければこの先はないよね、ってなると思うんですよ。
でもそれはできないんですよね。きっと。
たぶん、オリジナルが「ちゃんと独自性を持った新たな面白いゲーム」を出してたらこうならないんですよ。だからこの点に関してはそっち側の反省点ではあるんじゃないかと思うんです。面白いゲームを作りたいと思っているのなら。
結構これは文化的な変遷も絡む話だとは思っていて。IP文化って遊び手一人ひとりが情報を持たなきゃいけないから、まぁ broadcasting には向かないわけ。
知ってると面白いけど知らないと面白くない。それに対して、知らなくても面白いものが「強い」のは、それはそうだと思う。
だから story telling も現代の「その文化」に合ってない。それも、そう。
でも、じゃあその「丁寧」な作りをやめてギミック一本でやるかってなるかといったらならんでしょう。
文化に合わせながら自分たちのエゴを押し通すのが creative の面白いところだと私は勝手に思っているので (受け手の居ない作品は存在しないことと同じ)。
そういうことを、力を持っている人たちにはやってほしいな。って思っている人は私以外にも居るんじゃないかな。
本当に面白いと思っているものを、本当に面白い方法で作品として世に出してほしいのです。
結局みんなそれを願っていると思う。それが無いから、残念ながら台頭してきた消費的娯楽に移るのです。
良い方向に向かっていったらいいですね。
おわり。