Imaginantia

思ったことを書きます

最近のVR体験界隈について

私を含む。

結論を先に書きます。

  • まだ面白くない。
    • 私や周りのみんなは満足かもしれないが、コンテンツとして閉じた「領域」にはまだ至っていない。
  • 作れる人がいない。
    • やりたいことをやる為に必要なモノが多すぎて、それをわかっている人がいない。
  • 時間が掛かりすぎる。
    • 極論を言えば「ゲームより自由な媒体」なので「ゲームより時間が掛かる」はず。
    • だから今現在の時間感覚では詰めきることができない。
      • 規定された期間でどうにかするべきというのは、別の話。
  • だから継続性のためのボトルネックになっているのは「限界を作れる人間」だと思う。
    • そこまでいかないと面白くないから。
      • 今現在で面白いと言っている人が、ただ「VRが面白い」と言っているのか「コンテンツが面白い」と言っているのかを私達は区別できない。
  • そして制作時間が全然足りていない。
    • 量産化をするのはコンテンツを終わらせる行為だと私は思う。
    • 作業の為の時間ではなく、その前の設計段階の時間が足りていない。

つまり私には「まだ早い」ように思えていて、様々な根本的問題に面向かって対処しない限り、「当たり前のコンテンツ」に落ち着いてしまう気がする。

あ、「面白い」は interesting の意です。

所感

本当にみなさんよくやってると思います。頑張りを至る所から感じます。

それが文化として醸成されていることは疑いようが無いんですが、ただそれを外の人が楽しめるコンテンツとして出せるようになっているかというとまだ足りないのかなと思うのです。

まぁここには選択があって:

  • 既に中に居る人のために作る
    • 人の動き、文化、そういう基盤の上で初めて成立するコンテンツを組み立てなきゃいけない。
  • 外に居る人にも向けて作る
    • まぁVRなので中に入ってもらうしか無いんですけど、その境界を越える為のエネルギーを事前に与えなきゃいけない。

どっちも大変だと思います (ちなみに私は前者を選びました)。この2つは排反というわけではないんですが、同時に成立させるには必要なものが本当に多すぎます。

後者を目指すとするとその「ガワ」に比重が寄って、コンテンツのコアが薄くなる。前者だと、当たり前のことを当たり前として進めるから (その方が面白いことができるから!) 外にリーチしにくい。

まぁ、前者スタイルで「コンテンツのコア」がちゃんと備わっているものを私は数えられるくらいしか見たことがないですが…。

ともかく、私が思うのは「面白そうだと思って実際行ってみたら、そうでもなかった」みたいな不幸なケースが見えないところで起きているんじゃないか、ってことです。

何がコンテンツなのか

人に依ります。

本当に。

例えば:

  • 人と話せる。
    • 普段のVRChatのように。
  • 特定の人に会える。
    • ライブとして顕現したりする。
  • 視覚聴覚演出を観る。
  • ストーリーを鑑賞する。
  • 世界に干渉する。

極端な例なら、「折角能動的な気持ちになってVRをやってみたのに受け身コンテンツばかりだった」は大きなミスマッチになるわけです。VRChatにゲーム系の人間が少ないのはこういうところにあるのかな?

私はそれでも「体験の話を人とできる」のが楽しいのでそれはそれで良いと思っていますが、それはコンテンツとして閉じたものではなく、まぁ誰にでもできることではない。

万人受けするコンテンツは存在しないというのは昔から言う話ではありますが、これは「受け皿が無い」という話なのでちょっと違います。

例えば今回のVfesはその受け皿をできるだけ広くしようとする努力を感じますね (企画段階から)。

 

能動的コンテンツの範疇は受動的コンテンツの範疇よりもよっぽど広いと思っていますが、ただやればできるわけではないのが難しいところ。

特に「VRゲーム」というジャンルが死に体 (に見える) のは、逆に「受動的コンテンツを軽視したから」でもあると思います*1。要は見栄えがね、あんまりよくない。

対して能動性と受動性を最もうまく掛け合わせることが出来ている媒体領域が「ワールド」だと私は思っていて、だから「ワールド」という媒体はもっと先がある気がするんです。

ただふらっと見に来るだけでも良い。モノに興味を持って色々動かしても良い。そこには「塩梅」があって、人に依る。特に複数人が居るとその特徴が顕著になります。

で、だから、そういうものって、「ゲームを作る人間」にも「映像を作る人間」にも作れないと思うんですよ (大前提が違うから、その肩書を捨てなければ)。それが野生の人間が強い理由に見えます。

しかしそうすると細部に (ゲーム/映像を作る人間なら当たり前のようにやることが) 行き届かないポイントが出てきて、これまた外の人にリーチしない原因になる。

それをどうにか補うためにチームを組む。わかりやすい現状の説明になっていますね。

ディレクターの役割

私は「ディレクター」を director (direct-or, 行先を導くモノ) として認識していて、その意味で以降使います。

媒体が複雑になればなるほど、それが「どうあるべきか」に対する答えは長くなっていきます。

「体験者がどうなるべきか」だけではない。「こういう人はこうなって、こういう人はこうなる」そしてそこにグラデーションがある

理想を掲げること自体が難しい上に、それをじゃあどうやって実現するのかというのも、もっと難しい。だからディレクターは好き勝手な理想を掲げることが出来ない。

だからここの役割を分割することはできなくて、ディレクターが実現しなければならない。まぁ、そういうものなのでしょう。

私 (の担当範囲) はそれを engineering で (矛盾点を一個ずつ潰していくことで) どうにかしました。この補い方は人に依るようで、「演出で人を惹き付ける」「音で強制力を出す」とかもまたその手法の一種かと思います。

全部使えれば一番強いと思います。私はできていません。

 

何か「信頼のおけるコア」が無いと、行先にたどり着けないましてや行先が存在しない可能性が出てくるわけです。

しかもその信頼はちゃんと「この世界に則ったモノ」でなければならなくて (人の動きが違うから、別媒体の為の技法をなかなか流用できない)。それが出来る人間は居ないなって思う。

居ないから、私達はできるだけ固定観念を捨ててこの媒体へ最適化する努力をしなければならない。できるだけ、よくなるように。

努力をしなければならない。

 

そして同時に思うのは、「ディレクターは満足してはならない」ということで。

ディレクターが「面白い」と思うレベルが他の人よりも低かったら、その (作者にとっては) 面白いはずの作品はきっと面白くないものになることでしょう。

例えば来る人間は「映画」「ゲーム」「演劇」その他あらゆるものを体験してきた人なわけで、そんな人に自分の作品を面白いと思ってもらうには「ちゃんとやることをやる」必要がある。

ただ重要なのは「要素要素で他媒体を越える」ことではなく、「作品に筋が通っていること」だと思っています。筋が通るというのは意識の話じゃなくて、明確に観えるものとして。体験として。

何故なら、普通そうするから (しないと勿体ないから)。そしてここがなんだか全体的に足りてない気がするなあと思う部分でもある。

「明確に観えるものとして」というのは、ストーリー的にこういう意図で、とかではなく、ちゃんとVR空間として筋を通すということで。

…まぁこの辺は私個人の課題意識 (「制作者は鑑賞者と対等である」) が絡んでるので今回は省きますが…。

少なくとも、「何でもできる」というのは最弱の意思で、そこから捨てていくことこそが作品性なはずです。

何でもよかった時代は終わりです。

媒体として、「VR空間」としての筋を見極める眼が顕れたらいいなあと思います。

ちゃんと作るために

VR空間として作品を作るの、本当に時間が掛かります。それはそうなんですが、一応丁寧に書くと:

  • ゲームと違い、プレイヤーの行動を規定できない。
  • 映像と違い、プレイヤーの画角を規定できない。
    • 現実で無理やり奥まで歩く。大きなアバターで壁にめり込む。カメラを飛ばす。
  • VRだから、プレイヤーが興味を持つものを規定できない。
    • その辺の小石に関心を持ってしまって後ろで起きている大演出に気づかないかもしれない。

これを「制御する」のではなく、「許容する」ために時間が掛かるのです。私達は何らかの形でこれらを許さなければならない。

一番やらなきゃいけないことは正常系じゃなくて異常系の設計なのです。理想的状況から離れても大丈夫なように。いや、それもまた理想的であるように。

これもやり方は色々ありますが、何にせよやることがあまりにも多い。そのために criteria (判断基準?) みたいなものが必要だったりもしていて、例えば私は「好奇心に従う/自ら楽しもうとすると、体験が最大化される」ように作りました (= そうじゃない場合は体験が弱まることを許容する)。

 

もう一度書くと、見えるものではなく、見えないものを作るのに時間が掛かるのです。正常系に対して異常系の分岐は多すぎる。

だから制作工程って結局こうなるんじゃないかって思う:

  • 意識を確立する。
  • 基礎を検証する。
  • それらしく見える範疇まで辿り着く。(ここで或る種の安心感が得られます)
  • 見えるものを組み切る。
  • 見えない部分を延々と作っていく。

私は完全にこれでやりました、最後の2工程は同時進行ですが。

人々にクオリティが判断されるのは大体4工程までの内容なんです。が、「判断できる以前に実は切り捨てられている人々」を救うために5工程目が必要なわけです。

特に見えない部分って根幹設計にも関わっていることが多くて (誰をターゲットにするか、どんな行動を許すか)、最初から考えなきゃいけないけど、最後に作らざるを得ない。だから制作中に揺れ動いてしまうもので、「きっとできるだろう」が「できなかった」とき、もう一度全体設計を見直す必要が出てきてしまう。

だからそこのイテレーションを回すために、最初の2工程に時間を取る必要が出てくるんだと思います。この段取りはゲーム作りとほぼ同じですね。

結局、今やっている制作期間の見積もりっていうのは全然足りないんじゃないかって思います。私は足りませんでした、ずっと至る所にある課題の解法を考え続けていた。

一年スパンで一作品に集中するのは私に向いてない (他にやりたいことが出来なくて悲しい) ようなんですが、それでも足りないとなると私には手に負えるものではないのかもしれません。まぁゲーム制作に数年掛かるのは当たり前になってますし、今回に関しては最初から全力でやらないと終わらなそうな期間だったのが原因ですが…。

ちょっと本当に、この辺の「制作に何が必要なのか」は明確な言語化が必要になってきている時期なのかもしれません。

 

言語化をするとそこから人に能力が伝わって、「できる人」が増えることにも繋がります。今はそういう状況が始まらんとしている時期で、うまくいけばそのうち能力を獲得した人がたくさん芽吹くような気がするのです。

そしてそうならないと、終わる。

これからどうなっていくのか

素直に、今のやり方は続けられないと思います。が、それは金銭面とか云々以前に、できる人が居ないからです (報酬が云々はまた別の話題です)。

どうしても短い期間でどうにかしなきゃいけない課題を個人のパワーでなんとかしているのが現状で、私はそれはそれで面白いとは思っていますが、「ちゃんと余裕がある状況で」「好きなものを作る」ときのほうが当然面白いと思う。

誰かがtwitterで「制作途中で告知を出すんじゃなくて、完成してから告知をするべき」に類似たことを言っていました。なんだか忘れてしまった感覚でしたが、そうだなあと思います。悪い文化を受け継いでしまっているんだなあと。

まぁ案件はギリギリに来るものみたいなどうしようもない現実の話もあると思いますが、もう少し未来を想定してちゃんと良いものを作れる状況にどうかなってほしいものです。

ぶっちゃけ隔年でいいと思う。

 

だから私は今年を自分の能力を再確認する年にしました。そういう時間が無いと道具も成長しないから、使い古した斧を振るうことしかできません。

まぁ極限環境で成長するのもありますが、もっと根源的に「棲まう土地を変える」とか*2そういう変化ができるのは、制約のない自由なタイミングのみだと思いますので。

 

面白いものがこれからもたくさん出てくることを願います。

おわり。

*1:まぁあと能動性を履き違えているケースも多いですが

*2:Houdiniとか