考えてみたくなりました。
ゲームは概ね*1ゲーム性によって成立しています。が、私はゲームのゲーム性じゃない部分が好きです。そういう話について。
ここで「ゲーム」と「ゲーム性」は、便利なのでそのまま単語自体は使うとして、意味は次のように定めます:
- ゲーム: 視聴覚などの感覚を伴った、「目的」のあるインタラクティブシステム
- ゲーム性: ゲームにおける「目的」とそれに纏わる全ての要素
例えば「テトリス」であればそのゲーム性は「生き残ること/スコアを取ること、その為にうまく積むこと」になります。よく知らないですが例えば「サッカー」だと「ボールをゴールに入れること、その為にうまくボールを操作すること」なのかなと思います。
「インタラクティブシステムに目的が備わったものがゲームである」というのは ゲームの話 に書いたことで、であればゲーム性を捨てることはインタラクティブシステムに戻ることでしかないように思えます。
インタラクティブシステム自体はそれはそれで楽しいものです。「雑談」とか。
ちょっと思い出すのは、ゲーム制作の途中、ゲーム性が実装される前の「いろいろ動かせて楽しいね~」という段階。VRChatの文化の良い部分はたぶんこの辺にあって、ゲーム性など無くても私達は想像と試行錯誤から面白さを生み出すことが出来ます。
でも、そこからちょっと離れた面白さがあると思っていて、私はそれを見たくて、それに近いものが「ゲームからゲーム性を抜いたもの」に備わっている気がするのです。
だから、それを。
一度ゲームとして完成すると、ゲーム性が顕現します。それだけで人を惹きつけることもプレイを継続させることも出来るのだけど、例えば…人に薦めたいかとか。レビューで圧倒的好評になるかとか。所謂「良いゲームだった」ということにするには足りないものがある気がします。
昔はそれだけでもよかった。「テトリス」は今までにない体験だったろうし、他人のプレイを見て自分がやりたくなる気持ちも強く想起させる構造をしている。でも今は、それだけじゃあ人々は手に取ってくれない。
要素として思いつくものは色々あって、キャラクター、アニメーション、世界設定、ビジュアル、ストーリー…とか。嗚呼そう、よくあるコンシューマーゲームに備わっているものですね。
これらはゲーム性には一切*2関わらないのだけど、大事な要素として受け入れられていると思います。むしろそれがメインまであることもある。
で、じゃあ、その要素は何の為に在ったのかを考えたいのです。要素が必要である為には目的がなければならない。それを達成するための手段としての要素である。
雑な人はこういうときに「そうしたほうが売れるから*3」とか言うと思うんですが、そういうのはゲームというものに対する侮辱だと私は思います。そういう作品を私は否定しませんが、そんな理由を消し飛ばすほどの合理的な目的があったら誰もがそれを期待すると思うのです。それは即ち"それ"が目的ではないということです。
特にこの議題について私は明確な答えを持っているわけではありません。なのでだらだらと思うことを書いていきます。
「世界の実在性を明確にする」という方向性はありそうです。その目的は「人々の理解を促進する」、噛み砕いて言うと「噛み砕いて食べやすくする」というものですね。ただ「ストーリー」に関してはそれと直交した要素でしょうか。私の中ではストーリーは「因果関係を生み出す装置」即ち「点と点を繋げる為のもの」として解釈されています。
ところでゲームを物語系芸術とゲーム性による複合的な媒体として見ることも出来るとは思うんですが、たぶん複合的 (複数が一つになったもの) というよりは多義的? (一つが複数を兼ねるもの) なもの、のほうが理想的かなと思っています。
だからゲーム性とストーリーは結びついていてほしい。いや、結局全ては結びついていてほしい。
何故結びついていてほしいのかというと、それは納得度を上げるし、結びつくことで情報が増えて、それを識ったときの「接続する感覚」が増えて楽しいとか。あとは、そうやって出来た「絡み合う美しい構造体が見たいから」とかなのかな。
私はきっとその最後の要素を期待しているのだと思いますけれど。
ゲームは色んなもの (ビジュアル・音楽・インタラクション・その他) が組み合わさって出来ていますが、それを全て束ねて「1つ」になっているというのはよくよく考えたらものすごいことです。
それが出来るのはもとから1つだったからではないかと。制作過程がどうであれ、「もとから1つであるという意識のもとに作られている」から「1つになれる」のです。きっと。
うまく「1つ」になっていないと何が起きるのか?は、とりあえず「実在性が下がる」ということがありそうです。それによってプレイヤーは…納得を失うかもしれない。世界に居るという感覚が損なわれるかもしれない。それによって…たぶんゲームの評価が下がってしまう。何故でしょうね。
これの面白いところは、「1つになる」ためにはクオリティを上げることだけが手段ではないというところです。「均す」ことが重要で。古典的ローポリのゲームでオーケストラが鳴ってたらおかしいよねという話ですが。
完成されたゲームからゲーム性を抜くと、たぶんその「世界」が残るのです。いえ、残らないほうが理想的なのかも。だって全てがゲーム性と連関しているほうが実在度が高いですから。
「ストーリー」というものが「因果関係を生み出す装置」で、インタラクティブな媒体においては「外力」として働いてしまう以上、ゲーム性無しにストーリー進行をさせるのはかなり難しいことになるのではないか、という話になりそうです。
つまりゲーム性 (私達の進行) とストーリー (世界の進行) が手を取り合って進んでいくのがゲームであるならば、ストーリーが勝手に進んでいったら…私達は世界に必要なのでしょうか?
インタラクティブに進行するなら満足するか、というとそうでも無いと思います。何らかの目的を私達は追い求め、その対価として、代償として、責任としてストーリーが進行しているからです。それが手を取り合っているということ。
あまりこの記事で具体例を出すのはふさわしくないかなと思っていたんですが、例えば What Remains of Edith Finch は根本的にゲーム性の無いゲームですが、局所的なゲーム性があります。それは「登場人物の欲求」です。主人公として居る間は欲がなく、自由に行動できる感覚があります。もちろん大多数の人間は知識欲に基づいてゲームを進行させるわけですが、それには世界は穏やかに (語りかけるように) 答えます。対して「登場人物の物語」においては明確に、何かをする、したい、しなければならない、と状況を提示し、私達はそれに沿ってゲームを進行させ、世界が (時に劇的に) 進行します。
強い感覚を引き出す為には「自分が進行させた」という自覚が必要で、ただ「プレイの流れ的にそうしなければならなかった」だけ (インタラクティブなだけ) だと自責が弱い。だから「自分がそうしたかった」ことにする。
登場人物に自己を乗せるには、登場人物の選択がプレイヤーにとって合理的なものになる必要がある。その為に背景を設定し、キャラクターを設定し、それを説明し、プレイヤーの意思決定とその人物の意思決定が同じものになるように重ね合わせる。そうすることで初めて世界が進行する。
よくやってるなあと思います。
でもこのやり方はかなり参考になりうるものです。
確かにアセットがめちゃくちゃ作り込まれているからこそ生まれる感覚は明確にあるわけですが、ストーリーを進める為に重要なのは「プレイヤーが欲を持つこと」なわけです。それは普遍的な法則な気がしますよね。
今「欲」を生み出す装置としてゲーム性が活用されていますが、それだけであれば他にきっと手段もある。…うーん、でも知識欲はやっぱり弱いんだよな。「押したらどうなるかな~」だけだと強い結果を生み出した責務を受け止めきれない。
まぁ、単純な例だと、「その辺に居る敵をやっつけた」ら「敵の大群がやってきた」くらいなら納得はできそう。
でもいろいろ手段はあるとおもいます。やっぱり。
ところで「世界の実在性」以外には何か無いんでしょうか。残るものが。
まぁそれで思い出すのが The Witness なんですが…。
このゲームは所謂ゲーム性と呼べるものは「知識欲」以外に無いと思います。「新しいパズルを知りたい」「解けるようになって嬉しい」。原始的で普遍的な欲求です。
しかし、何度も言ったことがあるようにこのゲームは「それ以外」が強いのです。
それはさっきの話と構造的には一致していて。即ちゲームから「知識欲の代償」を求められる、のです。
つまり The Witness は「ストーリー無しに、ストーリーの与える要素を代替する方法を発見した作品」なのかもしれません。
ちょっと唯一無二ですけど…。
じゃあそれによって何がやりたかったのか、というと…私はよくわかりません。それが解釈が分かれる点ということなのかな。
でも私は「それが実現できる」ことにとても惹かれたし、可能性を感じました。
そこまでいくとゲームは手段になります。何かやりたいことがあって、それを実現する為にゲームという媒体が適しているから、それを使う。
媒体 (という概念) に対して真摯に向き合うというのはそういうことなのだろうと思います。そうありたいですね。
結果的に何が言いたかったのかというと、いえ、元々この文章を書きたかった理由は、VRChat のワールドに何が足りないと自分で思っているかを言語化したかったからです。書いたら出てくるかなって思って。
結果的には「欲を生み出す装置」という話になりました。そうかもね。
どうしようもない結論だけど、まぁ、書いて良かったなってちょっと思いました。