ちょっとした話。「作品 (a work)」をどう観ているかという個人的な話。
単語の意味がわかりにくいと思ったものは英語を併記しています (が、伝えるのは難しいですね)。
まず、作品 (なんでもどんな媒体でもいいです) は必然的に「要素の集合体」です。ここでの要素は例えば「演出」「シナリオ」「ポスプロ」「モデル」「宣伝」「コンセプト」「意思」「人」などです。
ただ、唯の集合 (set) というわけではなく、その要素要素には繋がりがあります。結果として「構造 (structure) を持った集合」になります。
こう。
で、そうして出来たある種の空間 (space, ただしこれは spatial / temporal と関係ない純粋な概念) を、私たち体験者は観測 (observe) することになります。
ここで大事なのは、作品の内部構造は体験者にとってブラックボックスであるということです。どんな要素で出来ているかを本質的に知りません。
もっとも、これは作り手も知りません。「自ずとそうなった」もので、その明確な構造を意識しているわけではないからです。
ここで観測 (observation) とは、対象 (object) を何らかの意味で評価 (evaluate) することです。
そして評価 (evaluation) とは、モノを何らかのものさし (metric) で測る (measure) ことです。私たちはこうすることでしか作品を観ることが出来ません。(なおこの工程は「作品の良し悪し」の判断とは関係ありません (後述))
特に、ものさし (metric) は一般に人固有である為、評価及び観測結果は人々の間で一致しません。
しかし、「ものさしとそれで測った結果」という組 (pair) は、誰にとっても理解できるもの (普遍的 (universal) なもの) になります。
ピーマンが嫌いな人がピーマンを食べた結果苦手だという結果になるのは当然です。それでいいのです。
観測結果にはその観測時の条件が付随したデータが無いと普遍的 (universal) になりません。
他者の観測は概ねアテにならないと言えますが、それはその他者の価値観 (values) を知らないからです。
で、この過程を繰り返していくことで私たちは作品を再構築 (reconstruct) することができます。
完璧な解明というのは常に不可能なものですが (例えば制作過程で捨てたアイディアは不可観測)、最終的なものから読み取れる範囲というのはとても広いです。
そうして再構築されたデータが、作品が表現 (represent) するモノ、と呼ばれることになります。
これは即ち「(誰かが) 再構築できなければ、表現できていない」ということです。そう思っています。
観る側は「作品を如何に精度良く再構築するか」(=眼) を問われているわけですが、その指標となると私が考えているものが境界 (boundary) です。
それは、「作品に何があり、何がないか」の境目のことです。
作品を (何らかのものさしで) 評価した結果というのは一般にはただの数値などではなくもっと複雑な構造をした値 (value) だと思います。ベクトルとも限りません。
なのでそれを明確に示すことは難しい。しかし、「何があるか?」「何がないか?」というシンプルな問いに対しては、比較的答えを出しやすいのではないかと思います。
これは「細部を読み解く」代わりに「沢山の問を投げかける」ことで像 (image) を明らかにしようという試みです。
細部を観るには知識 (knowledge) が必要なケースが多いですが、代わりに単純な問を (必要なだけ) 出していくことはそこまで知識を要しません。
これは「関数近似をする際に勾配があると収束が速いが無くてもある程度はできる」みたいな話です。精度は落ちます。
だけど事前知識が無い以上、それをするしかないのです。見ていく過程で気づきを得て (たとえば「制作者は初心者である」とか)、収束が速い方法に切り替える (「なら細かい部分は見逃す」) ことも出来ます。
ただなんであれ常に「作品の境界を明らかにする」試みが必要であることに違いはありません。何故なら私たちは常に作品に対して無知 (without-knowledge という意味) である為です。
特に、「作品に何があるか」だけを見ているだけでは「どこまであるのか」に気づけません。もっと外側まで広がっているのかもしれない。一部 (local) だけを見て評価することは一般にできません。
だから、作品を観るという行為は必然的に「この作品には何が無いか」がわかるまで観測する必要がある、ということになります。気になるところを指摘できなければちゃんと見たことにならない (論文発表の聴講とか特にそうですよね)。
さらに言えば、「あるもの」と「ないもの」がわかったところで究極の境界にはたどり着けなくて、さらに細かく境界付近の観測を行う必要が出てきます。
特に、「何かがあるかないか (どちらか?)」という観測は常に出来るとは限らなくて、「あるわけでもないが、ないわけでもない」ようなケースがあります (離散的真偽値には限界があるという話、位相空間と集合の差…)。これは この前のAIの話 にもありました。
そういうものは無理やりどちらかに当てはめるのではなく、ちゃんとその姿を見てあげる (単純化を諦める) 必要があります。それによって問いを改めたり、値 (value) の解釈を広げたりすることを行います。
そうして境界の精度を上げていけば、再構築された作品の精度も上がると思うのです。
そうして出来た「再構築された作品」は普遍的 (universal, 人に依存しない) なものと言えますが、それを「感想」として世に出すと、それがまた表現 (representation) であるが故に断面だけが現れます。その選択は人に依存します。
なのでどんな感想もまぁありうるわけですが、できる限り「読み取ったもの」を正確に表現しようとするなら (体験者としての誠意)、やはり境界を語るのが一番良いのではないかと思います。
次元が落ちるので情報化しやすいですし。
これは即ち、「何があり、何がないか」を言うこと。「何がよくて、何がよくなかったか」を語ること。
良いだけ、悪いだけじゃその感想の妥当性を判定できないのです。その人の作品再構築の精度がめちゃくちゃ低い可能性があるから。
この「何があるか」「何がないか」というのは、実は直接「よい」「よくない」と関係があるわけではありません。なくてもよいもの、あってよくないものがあります。
例えば「Z-Fightがすぐ見えるところにある」ということは「Z-Fightは良くないという意識がない」ということを意味しますが、それら自体は作品の良さに影響しません。作品の良さというのは個人の感想の表現の仕方 (切り出し方) の問題です。
あるもの、ないものは普遍的な観点だと思います。つまり「この作者はZ-Fightを避けようという意識がないだろう」ということは観測者全員で共有可能なはずです。それをどう思うかは人の勝手です。
それはコレにも近い話です。
「目から鱗が落ちる」は新約聖書の言葉なので歴史時代小説では使ってはいけない、というツイートが流れてきた。ただこういうことをあまりに厳密にやりすぎると、読者さんの読みやすさを削いでしまうのもまた事実。
— 澤田 瞳子(Sawada Toko) (@nono_sansan) 2022年10月25日
つまりそういう言葉を使うということから「作者は言葉選びを時代背景に則って行う気がない」、というのは事実として普遍的に観測可能なものです。しかし、これを是とするかどうか (感想) は観測者に依ります。
しかしその上で、「作品は境界が表す」即ちないものではない領域、あるものの領域の限界 (limit) がやりたかったことであるという観点からは、「作者にとってそういう言葉選びは作品の本質ではない」という読み取り方が出来るのではないかと私は考えています。
(よくある「この文章は現代語訳なんだ!」という返しよりは、「そのような言葉遣いはこの作品の本質ではない」という方が実態に即しているような気がするんですが、どうなんでしょう?)
これは一貫性 (consistency) をどこに見出すか、即ち作品に備わった絡み合った構造 (structure) をどこまで意図と判断するか、という話です。
どこかおかしな部分があったとしてもそれは意図外であると読み、他を主 (theme) として作品を理解することで的外れな指摘を行わないことができます。
そこまでやるのが真っ当な「評価」であると思います。
しかし、これが難しい場合があります。それが利用したものの代償を払っていないケースです。
例えば雄大なコンセプトを宣う場合、それに見合ったものが出来ているかを判定する権利を観測者は持つのです。declareする権利を行使する代償として、blame (適切な日本語がわからない) される義務が発生すると思うのです。
代償をちゃんと払いきれなければ、それは「嘘」になるのです。
もちろんこれはコンセプトが嘘になるというだけで、作品そのものの存在は失われませんが、代わりに作り手への信頼が失われる状況ではないかと思います。「ああそれでいいとおもっているんだな」と。
モチーフを雑に扱うようなケースとか。金銭面の話でもきっとそう。ないものをあると言われたらblameされてもしかたない。
まぁ、例えばアセットを利用して出来たシーンは「アセットそのものの出来」は (代償として) 評価から除外され、「アセットを選ぶこと」「うまく使っていること」が本質的な評価対象になるはずです。それでいいのです。ただそれだけです。
何かを使ったところでその作品そのものの価値が無くなるわけがないのですから。
まとめると:
- 作品そのものを完全に解明することはできない
- 表現を観測して作品を再構築することが鑑賞の主だと思っている
- 作品と「再構築された作品」は区別したほうがいいと思う
- 観測を人に依らない形で扱うことはできる
- あるものとないものの境界が作品を現す
- ただしそれは二値分類ではない
- ないものまで観測者は読み取るべき
- 誠意ある場合はその境界を感想で示すべき
- 一貫性評価は境界に基づいて行うべき
- 利用したものの代償は払わなければならない
という個人的な*1考えです。
「境界」という単語自体はよく使っていたけど、こういう風に丁寧に書いたのははじめてだったはず。
*1:個人的であることは、他者に強制しないという意味で、批判不可という意味ではありません