今日は何をしたかしら…何もしてないですね。ということになっています。
twitterしないのは良いことかもしれませんが、だからと言って進捗が多くあるわけではありません。
まぁ3月の始まりに相応しい感じだったんではないでしょうか。しらんけど…。
そういえば今日はなんだか私のワールドに来てくれた人のスクショを多く観測した憶えがあります。何故だろう。
特に因果は無いのでしょうけど、はい、嬉しいです。特に「自分が作ったことを忘れている」ことがあるのでね…。
未だに Inter-action on the Math の英語解説文書いて無くて申し訳ないと思っています。機運が、機運がね…。
さて。
最近は本当に「日記」としての運用が多かったので、久々に思想の話を書こうと思いました。なんどか書こうとは思ってるんですが時間と題材が無くて。
今日思い出した事柄は「最適化」です。何度か私はこの語を使っているはず。
何かというと、「私は問題解決の解としての創作を行っていることが主であり」「それはデザインであってアートではない」ということです。
phiさん 、図形ってどやって考えてるんですか?✨
— 三日坊主✨ (@mikkabouzu777) 2021年3月1日
これに対するもうちょっと詳細な返答です。
直接どれを参照しているのかは定かではありませんでしたが、まぁあのコントローラが一番それらしいでしょうか…。
みなさんありがとうございました うちのかわいいUIちゃんです まだまだ色々できることあるとおもうのでいろんなもの創っていきましょう よろしくおねがいします pic.twitter.com/1VyugLLJOA
— phi16 (@phi16_) 2019年6月29日
【この子のつくりかた】1. 作りたい動きを考えます 2. これを煮込んで寝込んで要素に分解します 3. 要素の棲む空間を叩いて伸ばして3DoFか6DoFに落とします 4. やる
— phi16 (@phi16_) 2019年6月29日
作るときのメモです もう私もおぼえてないけど 参考にはならないと思いますがどうぞ pic.twitter.com/l3WuNZh0DF
— phi16 (@phi16_) 2019年7月2日
まず、私がずっと考えていたことは「どんなパーティクルが観たいか」でした。
こんな音に合わせてこんな動きをしたらいいだろうな、みたいなのをたくさんかき集めて。それを並べていったのがメモ1枚目右です。
そしてそれは容易に「分解」できます。例えば「位置」「色」「形状」「大きさ」、さらには「時間変化」「雰囲気」「鋭さ」等、いろんな方向性があります。
あとはそれを表現することを目指します。この工程は幾分本質的です。
例えば「位置」には「時間変化」が付きものなので、合わせて「軌道」にする。さらには重要なのは「初速度」と「終端位置」で、曲線の感じを考えるにはベジェ曲線で十分…。あとはその制御点をコントロールするUIを与えれば良い。
「色」は2色くらいは欲しいけどこれは独立しているわけじゃない。対称性を崩すために「片方を部首の色」と解釈する。もう一つの色はサブカラーなのでランダム性を表現できるようにする。そしてそれら2つの色をくっつける為の構造としてあのホイールは自然に生まれる。
「大きさ」も1次元の情報に見えるけど「分布」であるからにそこに構造は自然に入る。一様分布じゃないのもまた面白いかもしれないけど「大きいパーティクルが多すぎると小さなパーティクルが見えない」とかもあるから制約がきつく、それを制御する構造はそこまで必要ではない (実際あれは一様分布ではなく固定の偏りがある)。最小サイズと最大サイズの間を選ぶようにすれば自然に「ランダムなサイズ」を表現できるようにもなる。
「発生タイミング」「乱雑性」「細やかなエフェクト」全てそうやってUIが生まれています。ただし、ここにはもう一つ制約条件がつく。それは「実装」です。
パーティクルが格納できる情報量は4x6のピクセル、24bit×24で576bitでした。位置や速度で32bit×6が消えて、まぁなんやかんやあってそんなに格納領域は多くありません。
例えば「ミキサー」のあのUIは「パーティクルの総量が固定」であることを表現するUIです。それは実装的な話であって、表現的な話ではありません。
そしてまた、「実装期間」「VRChatの制約」「私の想像力」「私の実装力」、いろんなものが制約条件に付いてきます。
それらの様々な条件の下で行える最も良い「表現」を探す行為が、私がやっていることなんだと思います。
そういう「最適化」をやる、ということはきっと誰にだって共通です。なんですが、私の場合はおそらく制約条件の条件がちょっと特殊です。
個の感情を無視すること。有り得る領域を視える限り探索すること。文脈を拾わないこと。
置きたいから置くのではなく、何故置きたいかから解釈して、その理由から生まれる衝動の正しい言語化があるならばそっちを優先する。
これはデザインのプロセスです。アートじゃないと思う。だから私はアートを生めないのです。
「私」を抜くことをずっと考えていて、結果生まれたものが「私」から離れていれば離れているだけ嬉しい。
まぁ、それが逆説的に「私しか作れないモノ」になっているのは皮肉な話ですが…。おかしな話ではないんですけどね。
アートでなくても作ることは出来て、そしてその成果物にはどうしたって「大量の選択」が混在しています。私もそう。
私が選んだ道は、確かに「多くの人に共通して選べる道」だったと思うんです。でもまぁ、それを正確に同じ道を歩く人は当然居ません。
もうちょっと近い人が居てもいいんでしょうけど、でもまぁ、それが「彼処」だったんだと思うし、私にとって嬉しい方向だったんです。本当に嬉しかった。
最近思ったことが、「デザインには本質的に選択が無い」ということです。選ぶべくして選ばされている選択肢をひたすら進んでいくのです。そうやって最適に辿り着くことを常に祈る。
私は「選ばない」ことを選んでやっているつもりです。最適性だけを重視するように。普遍的であるように。
…そうすると「選べない」っていう本質的な問題が出てきたりする。例えば「世界に床が在ることは恣意的」なのです。
そういう状況になると本当に何もできなくなっちゃう。それは正しい。これがあるから私は音を作れなかった。あるscaleを選ぶことがもう恣意的なのです。いえ、まず音階があることが恣意的です。
そういう「選択」を拒絶しても、でもやりたいというのなら、そこにある道は2つで。「最適性を示すこと」、そして「選択に差がないことを示すこと」です。
前者をやった結果があの鍵盤であり、後者をやった結果が「440Hzを選択できる (何故なら小さな周波数の差は音楽的な違いを生まないので)」ことにつながっています。
ここまでの工程にアートはありません。だから私はこのままでは永遠に「本物の曲」は作れません。そうならそれでいいし、そうじゃないならまた面白いなとは思っています。
さて。
ここまでの前提を以て始まりの質問に答えると、結局私は「題材が無ければ考えることが出来ない」というところに辿り着きます。
いえ、きっとそれは誰だって共通なんです。ただ私はその「題材を選ぶ意味」を求めてしまう癖があるということです。
そこに図形があるのなら、そこに意味はあってほしい。逆に言えば意味が無ければ図形は生まれない。UIとはそうあるべきだと思っています。
でも、まぁ、これは当然「デコレーション」としての図形には当てはまらない話です。
そして「デコレーション」は私は作ったことが本当にありません。
そんな図形らしいものつくったことなくないですか (?)
— phi16 (@phi16_) 2021年3月1日
…という意味でした。
まぁ、強いて言うなら一昨日の "2147483647" はデコレーションです。が、これは文脈が明らかですね。とは言え知らない人にはデコレーションにみえるんでしょう。
いろんな資料、世界にあるとは思いますが、きっとそこには文脈が見えないだけで「意味」はあるんでしょうね。
コラージュされてしまっていることも多くあるとは思うんですけど…。UIとしては良くないと言わざるを得ない。本当にユーザに触らせるのでないとしても、それがインタフェースとしての意図を持たないのであればそこにデザイン的美は宿らないし、デコレーションとして機能するのかどうかも…いや、わからない。わからないですね。
まぁ私はどうしようもないのでそうやるしかないんでしょう…。はい。
これも結局逆張りの一つです。かっこいいUIとして認められているモノへの逆です。「意味がないけどかっこいい」なら、「意味があってかっこいい」方がどう考えても嬉しい。
…はい。まぁこれは全て「私」の話です。
私の評価基準は (少なくとも世間に対しては) 歪んでいるので参考にすべきではないし、全ての判断はその選択をする主体が行うべきなんだと思います。
だからこれは「日記」なのです。きっと。
未だに私は「アート」をやっている人の気持ちをちゃんと理解したことがありません。やりたいことがわかってしまったらそれはもうデザインの工程だと思っています。
その芯となるモノがどこからくるのかは未だにわかっていないような気がします。でもそれはわかるものじゃないのかもしれません。
私はまぁ作る側としてはアートを拒絶していますが、見る側としては好む方です。まぁそれは結局そういう生き方というか。そういうものなんだと思います。
これは比較的嬉しい性質で、例えばかわいいアバターを見てしんどくなることは無いんです。語弊がありました。かわいいアバターの展示を見てしんどくなることは無いです。
しんどいという言葉は全面的に肯定的に使われています。
いや、もうちょっとまた違うかな。
めちゃくちゃ個性の出てるアバターを見ると素直に「すごい」と思えます。それはそうやってアートをやっているからなんだと思います。
めちゃくちゃかわいいアバターは「デザイン的にかわいさが作られている」場合と「なんだかよくわからないけど自分に激刺さる」場合がありますが、前者は「私の探っているデザイン領域ではないから」、後者は「もうなんかどうしようもないから」しんどくないです。
ちなみに「めちゃくちゃかわいいアバターを使っている人が居る」場合は話が違っていて、これは人の属性で、その人の持つ文脈を全部ひっくるめた上で観測できるんです。要は寝る前ちゃんは可愛いということです。
ここで書いた「しんどい」という言い方はまぁ感情的なものですが、対して「デザイン」を見たときのしんどさというのは完全に理性的なもので。
ワールドの導線に完全に誘導されるとか。小さな指示子が効果的に意味を示すとか。気づかない内に構造が頭に入っていることに気づくとか。
そういうがめちゃくちゃしんどい。
まぁこの話はいいや。
要は私は「アートを作る側としてのお話は一切できない」けど「アートを見る側としては楽しく見ていたい」ということです。はい。
最近なんでかわかんないけど †関係性† に関して感情があることが多く、ちょっと困っています。元々そうだったとも言う。
私は意味を持たない構造を否定しますが、「人」に関しては全てを肯定しています (何故ならそれは全て選択なので)。だからなんだと思う。
というかそういう意味では創作的関係性よりも現実の関係性のほうが重みがあるのは当然で、そらやばいわ。
なんというかこう。いつもありがとうございます。
さて。
今日はおでかけの日です。多分。
ちょっと某を観にいこうかな…とも思っていたのだけど、なんかその前にやらなきゃいけないことがちょこちょこあるのでさっさと帰ってこようかな…。
作業としては…まずは整理が必要かなこれは…。はい。
いろんなことをやろうとおもいます。やる気が出たら。
では。おやすみなさい。