Imaginantia

思ったことを書きます

日記 1121

今日の息抜き。

裏の波形は私の歯笛です。綺麗にピーク出るので使いやすい。

「出したい音程はわかっているけど相対ですらわからない」ことが昔からあって、それをこうすれば対処できるみたいな気持ちもずっとあった。

まだ実用してはいないしデザインも詰めてないんですが、なんとか使い物にはなりそうな雰囲気をしています。

あわよくば勝手にノートとして解釈されてほしい。ちょっと不定性を制御できないといけないんですよね。

まぁ、これは息抜きです。

 

最近日記におまけがついていないことを昨日思い出しました。

主に眠いからです。そこで今日は早く寝ることにしました。今1時55分ですが。

まぁ眠いんですけど。

とりあえず明日はめちゃくちゃ頑張る日と定義してみました。うまくいくといいですね、何かが。

…日記としては書くことはこれで終わりなわけですが、元々この「私の日記」という媒体はそうではなかったような気がするのです。


概ね書きたいことをこれまでの日記で書きつくしてしまったのはあるのかもしれませんけど。

こうやって外に出ない文章を吐く先として利用していた記憶があります。実際に昔の記事を今読みに行っているわけではないのでわかりません。

なので今はその話をしようと思います。

 

何か思ったことを表に出す、というのはすごいたくさんの副作用を伴います。

意図としては「その思ったことが世の中に共有されてほしい」だけなのかもしれません。

でもそれだけでなく、「話し手がそう思ったという事実」「話し手がその話を出来るに至る文脈」「話し手がその話をしようとする理由」の存在を、同時に公開します。

具体的に何かはわからなくても、確かに語ろうとした理由はあるはずなのです。それが無ければ語られないので。

「思いついたから」っていうのはあるかもしれません。でも「思いつく」ことと「話すこと」には乖離があります。思いついたモノを、私がそれを知っていると公開すること私がそれを話して良いと判断したこと話した結果起きる変化を私が受け入れること私がそれを話さない場合と話す場合で状況に変化が起きると考えたこと、まで含めて解釈し終えた段階で初めて、話すことを許されます。

最後のはセーフティです。話さないで済むなら話さないほうが良いことが多いのですから。

そうやって丁寧に、特に一貫してモノを語るというのは、自身が理解されやすいことにも繋がると思うのです。いえ、「理想的な自己の振りが出来る」に近いとは思います。

 

私は自分でも気づかない程度にこれをやっています。多分。twitterでの発言は縛っています。これでも。

任意のツイートは「私が今この瞬間twitterに投稿することが出来る状況にある」ことを示唆します。…別に示唆したいからツイートしたことは…極稀にしかありませんけど。

敢えて発言をしない期間を設けてることは結構あります。それはバレるとやばいとかそんなのではなく、「見ていないことにしたい」から。

ツイートをみてふぁぼをするのは「見ている」ことを示唆します。だけどあまりにもそれが早いと異常な反応を生む可能性が存在するので、私が偶然それを発見したと思われるタイミングまで遅延することがあります。

逆に出来る限り早く押すこともあります。ついったーにずっと見てるときの速度がこれです。昔はもっと早かった時代もあったね。

なんであれ、「私に対する解釈が既に持っているであろうものと乖離しないように私は行動しようとする」ようなのです。

…何故だろう。まぁ元々私がそういう性質だからか。

実際のところ私は色々掘り出すとめちゃくちゃ解釈不一致を起こせると思っていますが、まぁ同じような存在が居たらこれも分かられてるのかも知れない。

解釈不一致して困ることの方が多いですしね。掘り出したらアレなだけで観測上、即ち事実上の私は「その解釈」で間違いはないのですから。

まぁ、私は誰かの異常解釈を識るのはめちゃくちゃ好きな性格なんですけど。…だからこそそういう話を私からしないということでもあるのでしょう。

徒に誰かを「何か」にしてしまうのは怖いもので。あと私の場合、私が私の異常解釈を知っているので話し相手が居ないわけでもない。

誰かに知られなければその解釈は存在しませんが、私の解釈は私が知っています。はい。多分、誰もがそう。

そしてそれで終わって良いのです。それが事実です。

 

で、その話はまぁよくて。

結局「いろいろ考えたことを話さない」のはそういうごちゃごちゃの結果なわけです。それはそれでいい。

だけど私が話したいと思うことがあるんですよね。こっちが問題。まだ意識上は緩いんでしょう。

話して良いのではないか、とは思うわけですが、それによって起きる現象はそこそこ広大です。twitterだと広がってしまうので。話題が。

そうするとこのブログという一方向媒体はその対処として便利なのです。拡散もされないしね。

そしてそれを目的として日記が生まれたという過去なはずなんです。

つまり。

この日記は、私が公開可能と考えた物事について、一方向的な考察を記したいと考えた時に、次の日の予定を記しながら付随して情報を忍ばせる為の媒体、です。多分。

昔はこれと「次の日の予定を確定させる」という意図はほぼ等価でうまくいっていたのかもしれませんが、此頃は頭が固定されていることが多くて「次の日」に関する言及及び「その日」の話が多くなっているのだと思います。

頭が固定されているのもきっとよくないので、ちょっと積極的に話を書くようにしたいです。これから。

最近頭が動いてない感じがするのもそういうところなのかもしれない。


ちなみに最近思ったことで公開しなかったこと。正確には考えようとしたこと。

「野球」という球技が現世にはあるようですが、そのルールを私は概ね知りません。単に知る機会が無かったので。

逆に言えばルールを知っているということは知る機会があるということで、それは或る現世に生きる個人の過去を何らかの意味で指し示す物に当たってしまうわけですね。

ただそのルールが一文で記せるほど自明ではないことは知っています。それはコーナーケースの対処とかではなく、本質的に。

ずっと不思議だったんです。何故打ったら走らなければいけないのか?

例えば体力測定 (これは事実として現世に生きる私が知っているものです) ではボールを投げる距離を測るというものがありますが、それだけで十分「競う」ことが出来ています。

でも「飛んだ距離を競う」のではなく…何かよくわからない基準で点を与えます。

いくらかメタ的に納得できる事柄はいろいろあります。

  • 昔の時代では飛距離を測るのは容易ではないので別の評価軸が必要だった。また、或る境界以上を同一視することで外れ値を吸収し、公平性を向上する。
  • 要素が複雑であればあるほど複合的な要因によって、「物語」をシステム的に生みやすい。それは観客が居る状況では価値になる。
  • 単純では無いモノを理解するという行為は人間を幸福にし、理解できている自己を肯定できる。この段階で或る種の中毒性が発生する。
  • 離散的な点数の与え方は、評価を容易にし、引き分けという概念を生み、逆転を示唆する。強さを決めるのではなく、運を含めたゲームとして解釈される。

でも結局「なんで回るのか」というと…「飛ばす能力と走る能力を共通化できる」みたいな話なのかな…こういうのはギャンブル性に繋がりますよね、選手側の。

まぁ最終的にはどっちも強い人が強いんでしょうけど。

「回る」理由は「元に戻ったほうが進行が自然だから」、「4つある」理由は「90度が単純かつ計測が容易かつ方向転換が比較的しやすい」からとか… まぁ理解できます。

最近ルール決めて謎の行動を行う遊びをしていないので (横断歩道はよく白いところを渡っていますが) この不思議なルールが出来て運用される経緯というのは…何よりも現世で強い影響力を持っているというのはなかなか興味深いところです。

「サッカー」という違う球技の本質は単純なのにね。球を制御すること。

私個人は特に何も影響を受けなかったのでなんともですけど、幼少期にこの人類の過去を受け入れることを要求された人が異常性を伴ってしまう…ことに関して不干渉である人類、これが人類だなぁというところで…。

全てを受け入れることを要求される時期、適切ではない情報を与えてしまう人類、うーむ…。永遠に救いは来ません。

願いは叶わないのです。

 

まぁ定期的に観測される「明らかに非当事者文脈で構成された物体であることが当事者から分かるモノ」とかね、いつまでも現世に存在し続けるんだろうね…。

非当事者からは当事者が見えないのが根本だったりはしますが、でも当事者は非当事者に積極的に見られに行かないというのも自明にそうでしょう。

構成者に本質的当事者が正しく含まれるか、構成者を何らかの意味で当事者にするか…「誰が問題解決をしたいのか」とかその辺。

企業だったらユーザ増加が直接の目的になったりするからこれらをするモチベーションがあると思うんだけどね。

全ての情報に偏りがあることくらい根本としてってほしいですね。

情報という概念がまだ浸透していない所以でしょうか。はて。


長々と書いてしまった。楽しいですね。

結論用意してるわけではないので伸びるんですよね。1時間半経ちそうだし。

眠いので寝ます。明日もなんか思いついたら書きたい気持ち。

おやすみなさい。