ふと見えたので。返事です。
私は「何」なのか、というのは度々考えていますが、時系列的な解釈を述べてみようと思います。
多分、私は「言い負かされるのが嫌」だったのです。
誰かと話していて、自分にとって望ましくない結果になってしまうのが悲しかったんだと思います。
そうやってずっと誰かの「主張」…のように見える、唯の「思いつき」と「その強制力」に振り回されたくなかったのです。
だから私は考えることを選びました。相手の主張の正しくなさを示して拒絶したかった。
そうして論理性を獲得することになりました。加えて、「相手の発言の矛盾を先回りする能力」を手に入れることにもなりました。
つまり相手が気づいていない領域まで予め推論を行って、直近では気づけないような問題を先に発見する能力です。
これは所謂漫画世界によく居る人間が持っている能力で、単純にそれに憧れた結果だと思います。
また、これの為には「自分を話に巻き込まない」必要があって (推論においては私という情報は不要なので)、それが巡り巡って「個を強く出さないという願い」につながっているのかもしれません。
で、そうなってから、私は多分「余裕が出来た」んだと思います。
つまり相手が急に意味わからないこと言い出したら「意味わからない」と返す能力を。相手の発言が不明瞭だと思ったらそれを指摘する能力を。相手の発言から感情成分だけを抽出する能力を得て、私は「人の攻撃性」というものを当事者になること無く観測する能力を得ました。自身の安全性が保証されたのです。
そうして、特に私は「個人の主張」が薄いので、結果的に「全てを許容しようとする」ことができるようになります。要は優しくなりました。
正確に言うと「全てを許容しようと願い」「優しく在ろうと願う」ようになったということです。
ここから多分いろいろな話が説明できて:
- 素直にものを言うけれど、相手が過剰な感情を得ないように調節しようとする
- 相手との「正しい」共感を狙って話し、「正しくない」共感に対しては拒絶的に振る舞う
- 私は「理解の伴わない『はい』という返事」がとても嫌いです。
- 誰かの能力不足に対しては、それを事実として提示しつつ、その無問題性を示そうとする
- 他者の会話内で言語的齟齬が発生しているように見える際には間に入って緩和しようとする
- 問題が発生したとき、その外側の枠組みまで広げることで問題を無かったことに出来ないか図ろうとする
- 総じて、「厳密性はあるが、所謂厳しい人ではないように振る舞おうとする」傾向がある
勿論これは「願い」に過ぎず、それが完璧に叶っているわけではないんですが、その願いそのものが私をこの方向に進めているのだとは思います。
ただ、これは別に「私を優しい人だと認知されたい」という願いではないんですよね。そして実際その逆を行っているというのはそうなんだと思う。
恐らく怖さには2つあると思っています。「正しさを提示される怖さ」。そして、「正しく無さを肯定される怖さ」です。
私は前者は「善い」と思っているので積極的にやってるんですが (当然その正しさの枠組みを拡張することを含みながら)、後者については未だに悩んでしまっているところがあります。
私は別に甘えさせようとしているわけではないんですよ。本当に正しくなくて問題ないからそれを肯定するんです。
でも「肯定する」という行為は「責任を取る」と同義です。つまりこれは「正しくないと宣言する権利を没収する」ことになるのです。
これが多分「私を参考にしないでほしい」と思う理由なんだと思います。結局はいつか自分で責任を負うことになるのです。
私のその肯定性は、その存在を否定されるべきなのです。内容じゃなくて。
私はまだ制御出来てないです。たぶん。
実際、私は「作品を肯定してしまう」即ち「適当な解釈を与えることでその作品を理解してしまう」即ち「作品を理解していない」ということがあって、どうにかならんかな、と考えたりはしています。
厄介なのは他人の評価を推論に利用できないという点なんですよね。
まぁ何はともあれ、結論としては「何かに頼ることなく事実を唯観測する能力」は便利だと思う、というところになりそうです。
こういう話は外に出すものではないんですよね、本質的に。その必要が無いからです。
だからまぁ。きっと同じことを考えてる人は居るのだろうし…っていう言い方、毎回してるのもよくないのかな。
私はそういう人が居る可能性を否定しませんが居ない可能性も否定しないです。そういうところから、なのかもしれない。
はい。よくわからない結びになりましたが。おわり。
追記。
具体的な言及をすこししてしまったので、その分ちょっと書いておこうかと思いました。
「悪を肯定できない」というのは「自分で解決するつもりがない」即ち「自分で責任を負う気がない」即ち「受け身である」ことを意味すると解釈しました。
ここは基本的に積極性が要求される世界です。だからこそのハードルであり、だからこそのクオリティなのでしょう。
だからその態度自体がきっと「違う」のです。
そしてもう一つ気になったこと。
私は「環境差」に過剰な反応をする人が総じて好きではありません。当然違いはするのでしょうけど、それは願いの前には些細なことでしょう。
結局壁を作っているのは「認識者側」で、当事者はそんなこと認知すらしていないのです。
その差がこの世界を支えているのかもしれませんけどね。
これに限らない話ではありますが、何かに「理解できない」と言う人は、自身の理解能力の低さを反省するべきなのです。だってそういう発言でしょうに。