Imaginantia

思ったことを書きます

日記 0615

今日は特に何もありませんでした。進捗・鑑賞・休憩・ひとりぶいちゃ、で終わりです。こんなのばかりでかなしいですね。

とはいえ、こう、値一定ではなく速度一定なので、まぁ累積されるものはあるわけですね。人間は微分を測りがちなので善くないですね。良いのかもしれませんが。

淡々と進んでいてほんとうに書くことがない。今日も変わらない速度を保った一日の予定です。

さて。


もうねー。書いたら負けだと思うんですけど。書いちゃいましょうかね…。某13年前の誰かのブログの話を。

まずこれについて書いている人が明らかに偏っている時点でもう駄目ですよね。いえ。私も書かない側に居ようと思っていたんですが、まぁ世界がくっついてしまったので…。

 

下のレイヤーから話を考えていきますけど。

一般にプログラムは書かないほうがいいです。だって何もせずにうまくいくならそれがいいから。「もしかして『これも普段と言われているようなことと正反対』でしょうか。」

だからプログラムを書いている時点で私達は負けているのです。そしてその量が多ければ多いだけ、世界に敗北しているのです。

その積み重ねの結果、私達はプログラムを書かないこと、即ち既に在るものを使うことにシフトしていきました。だから現代に於いては概ね「選択をすること」そのものがプログラミングであるのです。

そして規模の増大に応じて他者が作ったものを使うことになり、それは他者との対話が必要となり、そのための言語が必要となり、今の様々なプログラミング言語エコシステムという概念が出てきたわけです。

つまりこの話の根本は単純で、プログラミングが選択ではなかった時代は、自己完結が出来た。だからC言語を使えたのだし、設計を最初に確定させられたのだと思うんです。

この2つは現代に於いては一般に失策と捉えられるモノだと思います。理由は、これをすると他人と対話できなくなるからです。

 

もうちょっとレイヤを上げます。この「独り善がりの工程」はどうやったらできるようになるか。

多分この人は現世に生きてないんだと思います。ぱらぱら調べてたらひっかかったコレはだいぶ興味深いものですね。

コレは色んな話が混ざっていますが、きれいな話で包み込まれた中身が一番おもしろいです。ランドルト環の向きを逆で認知していた話。

これが事実かそうでないかはどうでもよくて、これが成り立つ為には何が必要かというと「自分の世界が閉じていること」だと思うんです。自己の選択に対する異常な信用。

明らかに他者が自分の選択と相違ある発言をしていて一切自分を疑わない人。具体的にどこで相違が発生しているのかを調べる「議論」に移行できない。ええまぁこれは係の人側にも問題はありそうですが。

ついでにランドルト環はその意味からして穴が重要なのであって。まぁそれ以上に図形領域と言語領域に差がある可能性があるのは明らかなのであって。

なんであれ自分の世界が確定してるんですね。

自分の世界が確定するとそれに対する評価も確定するので、できることの境界がはっきり視えるようになって。その中で動き回るのは比較的簡単でしょう。

だからこれ自体をやる簡単な方法は、全ての曖昧性を排除することだと思います。それは多くの人が出来ないことだしやる意味も無いことだと思います。

曖昧性というのは「実行順序が定まらないかもしれない」とかそういうことじゃなくて。「後でこういうことが必要って言われるかもしれない」とかです。

 

とはいえ。これが「正解」に近いのは確かで。プログラムの設計という行為は結局そこにある可能性を消し飛ばしていくことだとは思います。だんだん確定していくわけです。

現代だとこれは概ね複数人の合意によって決定するべきなことが多いと思うわけですけど。一人でやったとしても色んな主体が居る以上合意形成は必要ですね。機能を増やしたい側と、性能を上げたい側とか。

そうやって世界が確定していった結果、「向かう先」がわかるようになって。あとはそこへ向かうだけではあります。

でも、目的地がわかってもそこに辿り着けるかどうかって、不明瞭ですよね。

この人は世界を掌握しているので、好きに橋を掛けたり道を引いたりできます。だからきっと向かう先がわかった時点で空中に橋を掛けることで到達可能にしてしまえるのです。

でも普通はそうではありません。それは他者の都合とか、まぁ世界操作能力の不足です。

だから周りを見ながらどっちへ歩いていくか決めていくのです。気づいたら崖に居るかも知れません。崖を迂回してもいいし、橋を探してもいい。力があれば自力で橋を掛けることもできます。そうやって歩きながらだんだん進んでいくんです。

ちょっと成長すると地図を描けるようになります。地図はいろんなことが抽象的に描写されているので、細かいことはわかりません。情報が古いかもしれない。だから車で走りつつ、古くなった橋を通ろうとしたらそこで一回立ち止まって次の方法を考えます。歩いていくよりはよっぽど速いです。

もうちょっとするとドローンとかを飛ばせるようになるので、スタート地点からいろんな場所を確認して道を最初から決定できるようになります。確認が終われば懸念は無し、ひたすら走るのみです。

まぁ走っている最中にがけ崩れとか起きたりするんで失敗しないわけではないんですけど。

一般に問題解決は最適化なのでそういう隠喩が成立しやすい。そういえば「クリエイター」はまた違って、目的地がはっきりしてないんですよね。偶然見つけた泉にもう住んじゃったりする。

だからこの点に関してはこの人の言っていることは実は正当だと思います。まぁ応用できるわけでは無いけど。

では。

ここでの「成長」は何なのかな、って考えると。視力かしら。周りを視る力。周りを観る力。それは特に、周りを観ない力でもあります。即ち自分を識ること。

どっちに行けばいいのかわかるようになる。今どういう状況かわかるようになる。こんな状況だけど気にしなくていいということが、自分の能力から推測できるようになる。

地図を見るだけで歩けるようになるわけですね。最初は細かいことに気づけないから地図だけだと危なっかしいかもだけど、終いには危なっかしい道を高速に走れるようになる。

…それはきっと、識っているからでしょうね。実際の道を。まぁ、大量の人が指摘している事実です。

この「視力」がここの言う「暗黙知」にあたるものですね。ついでに私の「頭の中にしか存在しない型システム」は、舗装されてない道路を舗装されていると思いこんで歩くことに近そう。靴履いてるから実際大丈夫なんです。たまにコケる。

 

さて。もう一個上の話。何故この人は論理という言葉を使ったのか

まずメタ思考が苦手なことが明らかです。パラドックスに平気で足を突っ込むタイプです。

引用: 論理的な思考をしないで欲しいという意図を説明するために書くのだから、論理的に間違っている点については目をつぶって欲しい。

間違っているものは間違っているのです。そして間違いがあればそこから世界は崩壊していくのです。だけどこの人の世界はこの人の認知だから、壊れていることを認知せずに済んでいるのかもしれない。

そういう点でポジショントーク的側面がありそうな気がします。論理的思考が出来ないから、論理的思考を放棄するべきだと言うのです。まぁ、半分冗談。

私は論理性を基底に置いている側の人間だと思っているんですが、そういえば特に「脳のリソースを消費している」と思ったことは…あんまりないです。思うのは、「元々それほどに難解な問題であった」ということ。

まぁ、これについては私が「閃かない側の人間」であるというポジションである側面もあるのかもしれない。いやでも閃きでどうにかなるんかな…

だから逆に論理性について考えることは一切無いんですね。で、もしもこれと同じことが起きているとしたら。

つまり「論理的」という言葉が、元来の「論理的」と違う意味を持っていたとしたら。

 

なんだか私はこの人は「具体的」に近いことを言おうとしているんじゃないかなって思うんですよね。対義語は抽象的。

「具体的な作業、つまりコードを書くこと、というのは本来頭を使わなくて良い」という主張は、今までの話を前提にすれば受け入れ得るものだと思います。

抽象領域で頭を動かすことでコンピュータ無しでプログラムを構成できる。機能の具体的な実装はその段階では考えない。設計図は抽象領域で描く。そうですね。みんなそうやってます

つまりこの話は、「自分の世界に於ける『論理的』という言葉の定義が違う可能性を考えなかった」ことに起因するのかな、という説。いや明らかなような気もしますけどね。

未定義語って、何よりも怖いんです。何故なら人と通じないから。

引用: ここで「論理的な思考」の定義を細かくすることはしない。そもそも、細かく定義しようとすること自体がすなわち「論理的な思考」である。

だからきっと、そういうことなんじゃないかなぁ、っておもうんです。

そして、抽象的思考はこの時代ではプログラミングのきっと基底にあるものです。それに13年前と違って現代では概念も大量に洗練されてきています。抽象度のレベルがこの時代とは全然違うと思います。

なので、そんなに遠いものじゃないと思うんですよ。それに本当の論理的思考の放棄は必要ないのです。


まとめると:

  • この人は自分の世界に居るので好きなことがなんでもできる
  • 言語世界が外と違うといろんな齟齬を生みがち
  • 頭の中で完成させる能力は経験に依るものだとはおもう
  • 抽象を捉えることは最早特異でもなんでも無い

とても普通の話になりました。私はこの人と話したことがないので実際に如何に特異かは知りませんが、そう納得できない領域ではない気がします。たぶん。

そういやランドルト環のようにこれも二つの話を一つにしちゃっているんですね。本質が全然違う話だと思うけどこの人の世界だと一つなのかしら。コト単位なのかも。

 

のんびり書いてたらめっちゃ長くなってしまった。こういう話好きなんだけどだいたい自分の中で終わるから外に出ないんですよね、っていう話を最近書きましたね。逆に言えばこの人は自分の中で終われなかった人ですね。私もそうだけど。

昔はこういう異常な人に成りたかった時期があったけど。今の私の愚直に頭を回すのも嫌いじゃないスタイルです。これとか結構うれしかったんです。実は。

私は他者に理解されたい人間みたいなので。

いろんな人がいるとおもいます。いろんな人に出会っていきたいですね。

そんなことを思いながら今日friend欄みてたけどどこも行く勇気が無くてダメだったわ… joinする努力…

 

おやすみなさい。