Imaginantia

思ったことを書きます

私達はどこに棲んでいるのか

最近よく「3次元空間」という言葉を (某コンテキストで) 聞きますが、私はあまりそれが好きではありません。

たぶんみんな数学っぽい用語はそれっぽければ使って良いと思って使っているのだと思いますが (まぁ事実としてちゃんとわかる人はほぼ居ないのでバレません) そういう態度が往々にして人類を不幸にしているものかと思います。

私達が概ね3次元空間に居るのは間違ってはいないと思います。でもそれはそこまでに本質的ですか?

もっと考えるべき本質がきっとあって。だけど誰もわからないから、見た目的にわかりやすいものを選んでいるのではないですか?

私達は本当はどこに棲んでいるんですか?

語の解釈

「3次元空間」というのは一応ちゃんとした術語なので、歴とした解釈が実在します。即ち「(局所的には) 3つの数字 (実数) で点を特定できる空間」です。

では「私達」は3次元空間に棲んでいるのでしょうか?術語を基に解釈を与える際には全てを術語世界に持ち込まなければなりません。即ち、『「私達」って何ですか?』。

「点」は3次元空間に棲んでいるといってもおかしくはありません (そういう点の解釈を選ぶだけです)。私達は点ですか?

 

点では表せないこの自由度がきっと大切なんじゃないんですか

 

そんなことはわかっていると思うんですけど。

さて、私達が「点」となれるのが、おそらく SpatialChat です。そう。そういう話です。

まぁ純粋な「点」ではもちろん無くて、画像情報音声情報いろいろありはしますが、ここで導入された概念は御存知の通り距離、なわけです。

 

私達はいろんなものに距離を見出します。関係性とか。そして大原則として「近いほど強く干渉する」。

きっと、私達は、このインターネットの世界であっても、もっと近くにいたかったのではないでしょうか。

何かに。

距離の生む世界

基底では人間関係という繋がりを渡り歩いてきた人類、インターネットもまた繋がりで出来た世界。

ではその上で何を求めているのか、ですよね。

抽象的な「繋がりの世界」と、具体的な「物理的距離のある世界」の差がどこにあるのか、と思うわけですが。

1つ思いついたのは、周りを見渡せること。そしてもう1つ、動きやすいこと

 

抽象的な繋がりの殆どは、大凡の人間にとって可視ではありません。

それを可視化するのが なかよしMAP みたいなものです。でもこれでも複雑すぎて読み切れるものではありません。

根本的に人類は抽象的な繋がりの理解力が足りないのです。

対して物理的距離は見たらわかります。それは即ち、見て関係性を理解できるという意味ではなく、見たままの距離以外に読み解くべき情報が無い、ということです。

そこには情報の欠落 (近づきたいけどそうできない状況 = 距離に表現されない関係性) があって、それはきっと各々の感情に結びつく (近づけないもどかしさとか) ものでしょう。

その「表現できなさ」が、全てが繋がってしまったこの世界に必要なものだったのかもしれません。少なくとも現状の人類には。

 

ただし、距離を関係性に連関させてしまうと「縛る」ことが出来るようになってしまいます。私達が基底で縛られているように。

それに対してこの世界の面白いところは、動きやすいことです。

もはや固まってしまった現実世界の関係性に対し、私達はここで自由に動き回ることが出来ます。文字通り。

姿を変えることで変わる距離もあります。界隈、プラットフォーム、名前、いろいろ渡り歩くこともできます。

きっと「変わる」ことが目的ではないのです。「変われる」ことが重要だったのではないでしょうか。自分の存在が流動的であるということそのものが。

それは安全性 (危険になったら移れる) でもあって、そして「変われるのに、変わらない」ということは信頼にもなりえます。「自主的な」土地概念は意味を持ちうるのです。VRChatに店があるように。

 

基底は「周りが見える」世界、SNSは「変われる世界」で、それらを合わせるとこの世界になる。そんな感じがします。

そういう意味では「基底で移住し続けている人」や「SNSで周りの人間を制御してきたような人」とは案外似たような感覚なのかもしれないですね。知らないですけど。

SNSと違って「増やせない」のはちょっとおもしろいかもしれませんね。頭は1つしかないので。

視界

さて、では3次元空間であることはどれだけ必要だったのでしょうか。

私達の視界はどう足掻いても2次元ですが、平行移動と回転によって3次元空間を間接的に視ています。

その間接性が、私達の認知にどれだけ影響を与えるか、です。

 

周りが見える、という側面に於いて、3次元世界は割と面白い意味を持っています。

遠いものが小さく見えるのですね。

ここでは3次元という語を2次元射影空間みたいな意味で言っていて、以降はほとんどorthogonalとperspectiveの違いとして書いています。

大きいものは大きいなりに観察ができて、そこには解像感という概念が生まれます。私達が直感的に「近づける」と思える世界は、確かに3次元の世界なのです。

また、平面だと作りにくい「遮蔽」とか、複雑な構造。何よりもそれらから出てくる「空気」とか。

私達が自然に受容できるこういう概念は、意外と自明なものではないのだと思います。

既知の概念 (現実世界に於ける3次元的広がり) を比較的容易に輸入できる、という意味では現実の模倣から入るのは間違っていないのかもしれませんね。

わざわざ仮想現実っぽい世界を考えようとすると2次元になりがちですからね。一面から見えないものを作ることが主、ですよね。ちゃんと構造立った状態でね。

 

動くことに関しては、2次元世界でも結構楽しい (昔のゲームとかね) ことはよく知られています。3次元での優位性としてはやはり「近づくこと」なのかもしれません。

または即ち「遠ざかること」。小さく観ること。

この「対象に対する距離の自由度」が、写真をどう撮るかという話でもあって。写真が創作たりうる理由にもなる。3次元世界は2次元世界を内包しないのです。

そういう意味ではここでは「遠くに移動する」ことに意味はなくて、「目的地に行く」「現在地から離れる」ということが主と言えるかもしれません。

近くに行って、大きく見えるようになったものを観察し、戻る、という行為は、「視える世界が実在する」ことを確かめることにもなります。

行程を省いてしまうと「中間が実在しない」ことになるのでそれはそれでダメなのでしょうね。

地図はスケールを跨ぐことで初めて遠くの詳細を知ることができますが、3次元の視界には遠くのものが初めから観えるのです。

 

結論ありきでこの文章を書き始めたわけではないんですが、考えた結果として「3次元空間であることはある程度本質的である」と思えるようになりました。

これは「距離を大きさで表現する媒体」なのであり、何よりもそれが直観的である、という点で、それを行うことに意味はあるのです。きっと。

だから私達は「浮く」必要はないんでしょうね。遠いものが小さく見えれば十分なら。何よりも物理的距離は平面の方が読みやすいです。

まぁ、世の中の人間が何を思って3次元と書いているのかはわかりませんが…。

抽象の無意味さ

…と。

こうやって文章を書くことは誰にでも出来ると思うんですが、私はこういう文章が一般に好きではありません。

何故かというと解釈はいくらでも自由に取れるからです。

その解釈を作家性を伴う形で表現するなら (私はこの文章をそういう気持ちで書いています) 許せ得るかもしれませんが、何らかの真理や原則、常識、指針のように提示するのは誠実ではない気がします。

抽象を拾い出すのはそんなに難しいプロセスではなくて、ただ具象を捨てて残ったものを読めばいいだけです。

それはいくらでも恣意的に行うことができます。

 

この世界に本当に必要なものは、抽象を具現化する存在です

 

結局みんなの想像の範囲は現実を簡単に越えてしまって。

各々の哲学もまた確固として実在するようになっている昨今です。

強いコンセプトなんてきっと最早無くて。

あとは私達にそれをやる能力と覚悟があるかどうか、それだけです。

 

私達が本当に棲んでいる世界は、結局そういうところなのだと思います。

がんばっていこうね。