Imaginantia

思ったことを書きます

メモ 240125

ちょっと前に某所 (うちのワールドですが) で話した話題で、「アフォーダンスの概念はVR世界だとインタフェースに一致するのではないか」ということがありました。

特にUnityみたいなコンポーネントベースの仕組みだとコンポーネントとすら一致します。つまり「それが何であるか」を構成するモノは、アフォーダンスを陽に定義していると解釈できるのでは、ということです。

現在、そうなっていません。何故なら、それを認めてしまうとVRChatのワールドの9割9分は「からっぽ」ということになるから。

そうだと私は言いたくないけど、将来的にそうと言えるようになったら良いことなんじゃないかなって私は思っています。

 

私が前から言っている「願い」「法則」あたりの概念もここと一致します。つまり――「モノは動作してほしい」「モノは共通規格を持っていてほしい」という意味合いです。

この「理想」は普遍的なもので、ジャンルを問わず大切になると思っています。というか、この領域に届かないとこの世界の「面白さ」は伝わらないんじゃないかなって思う。

しかしそのあたりに至るにはまだ時代が早いようです。次の時代が早く来ると良いですね。

雑記 240122

某について考えたことをメモしておきます。ちなみに私はモノそのものよりも全体の構造に興味があるタイプなので必然的に文章が抽象的になりますが、これは別にボカしているわけではないです。(わかりますよね?)

ちなみに「どっちも」やってないです。

色々方向性はあると思いますが、面白いかもなあと自分で思う視点が:

これで。

 

人々が強い感情を抱くきっかけの一つに「期待」があると思います*1。期待したものが出てきた。期待した反応が出てこなかった。

今回 positive な感想を出している人たちには、「某に期待していたもの」ではなく「オリジナルに期待していたもの」という言い方をしていた人がいました。なるほど。

それは、逆に言えば「オリジナルに期待していたが、出てこなかった」ということだと思います。つまりではなく、その時点でギャップがあるのですね。

ではそれは何故か。

 

もちろん正確な理由など知らないしそんなものは存在しませんが、一つの原因としては「ちゃんとしすぎた」ことかなと思います。

世の中はみんなそうやって動いていて。最初は荒削りだったものが時間が経つにつれて研磨されていく。それは「角を削り落とす」行為です。

この比喩を展開すると、「最初は粗雑なこともできたが、今となってはそれはストップが掛かる」という意味です。

当然で。それによって守ることができるものがあり。それによってさらに守ることができるものがある。そこに合理性があります。

気をつけなければならないのは、これは「善性」とは全く関係が無いという点です。合理性に基づく判断としてこれは導出でき、それが例えば善性に基づく保護行為と同一行為だとしても、逆にこれを善性と捉えることはできません。「関係は無い」というだけです。

で、私が思うのは、何かを守った結果*2、「ゲーム文化の発展を止めてきた」のではないか、ということです。

 

たぶんこれはある意味では当たり前の事実で。だって新しいゲーム構造みたいなのって大体インディーから出てきてて。だから今更指摘する人もその必要性も無いのだけど。

要は「神話は随分前から崩壊していた」ということで。誰も言わないだけで

「それが良いものであった」という経緯から、現代も持て囃されているけれど、それが今でも成立するとは当然限らない。

 

で、それでいいわけないと思うんですよ。いや、そう思っていてほしいんですよ。でも「文化が成立」した以上、それは壊ない。

だから本当に面白いものを作るためには結局新しいところから始めるしかないと思うんですよ。既に立場がある企業にとってはね。

それをやらなければこの先はないよね、ってなると思うんですよ。

でもそれはできないんですよね。きっと。

 

たぶん、オリジナルが「ちゃんと独自性を持った新たな面白いゲーム」を出してたらこうならないんですよ。だからこの点に関してはそっち側の反省点ではあるんじゃないかと思うんです。面白いゲームを作りたいと思っているのなら。

 

結構これは文化的な変遷も絡む話だとは思っていて。IP文化って遊び手一人ひとりが情報を持たなきゃいけないから、まぁ broadcasting には向かないわけ。

知ってると面白いけど知らないと面白くない。それに対して、知らなくても面白いものが「強い」のは、それはそうだと思う。

だから story telling も現代の「その文化」に合ってない。それも、そう。

でも、じゃあその「丁寧」な作りをやめてギミック一本でやるかってなるかといったらならんでしょう。

文化に合わせながら自分たちのエゴを押し通すのが creative の面白いところだと私は勝手に思っているので (受け手の居ない作品は存在しないことと同じ)。

そういうことを、力を持っている人たちにはやってほしいな。って思っている人は私以外にも居るんじゃないかな。

本当に面白いと思っているものを、本当に面白い方法で作品として世に出してほしいのです。

結局みんなそれを願っていると思う。それが無いから、残念ながら台頭してきた消費的娯楽に移るのです。

 

良い方向に向かっていったらいいですね。

おわり。

*1:一般に「期待」は危険なものだと思いますが、それは別の話…

*2:本当に守れているのかどうかは別問題ですけどね。色々と。

雑記 240103

新年です。言いたいことは色々ありますが言えないので言うことを募集しました。

比重に差はありますが書いてみます。(来た順)

アナログのものづくりの経験について

うーん。無いですね。本当に無い。強いて言うなら授業でFPGA触ったくらい。流石に「アナログ」とは言えないけど。

やりたいことが無いというわけでもなくて、LED いっぱい置いてわ~~~とかやってみたいけど、その前にやることが多すぎるみたいな感じかしら。

まぁ現実であって嬉しいものは大体 global illumination か fog なので、それ以外だとVRでなんとかなりそうな気がしちゃうかも。

あ、でも歯車とかの機構系は一回ぐらいちゃんとやったほうがいいんじゃないかとは思う。こう、基礎知識的に。

おもしろいVRゲームの作り方

「ゲーム」から考えていくとまぁ「没入度が高まる」程度だと思いますが、「VR」から考えたら色々あるのかもしれませんね。

VRには何があるか」で昔からよく言われてるのは「コントローラよりも高次元の入力」だと思います。なにせ両手だけで12DoFありますからね。頭入れたら18DoF。

高々スティック2個で4DoFなのとは大違いです。が、代わりにやりにくいのが「瞬間の入力」。ボタン以外はね。

とはいえ。人間は18DoFを操作できるほど頭良くないので、まぁ、まぁ、というところ。結局踊ったりするのが一番楽しいんじゃないかという説はある。

しかし踊り (に限らず、人間の動作全般) をゲームで「評価」(これは良し悪しの話ではなく、何らかの目的に対し判断基準を設けることを指す) するのは難しい (ジェスチャを確実に認識させるのは困難) なのでそこに焦点が行くのかな。まぁまず継続して動くのがしんどいという話もありますが。

ただたとえジェスチャを丁寧に組んだとしてもそれはきっと「ゲーム」的になってしまって、本物の没入を得られない感覚がある。システムと対話するというコンセプトならいいかもしれんけども。NPCNPCでしかないだろうし。

でもそこで「評価を『人』に任せる」という方向性が考えられて、それを人はコミュニケーションと呼ぶ。VRChatのことです。

まぁ確かに、VRはコミュニケーション向きの媒体なわけですわ。

 

でもまぁ、そんな最大限活用できないか、みたいな話に行く前に、media として、例えば視界を全部覆えるみたいな性質はいろいろ都合は良さそう。

ホラーが相性いいかは微妙なのかもしれないな、と最近思っています。従来からスクリーンを見ているだけのはずなのに、何故かそれに私達は十分没入できている (怖がることができる)。その根本的な構造がわからないとVRで面白いホラーは作れないんじゃないかな。

あと個人的には広大さに行くよりは細やかさに目を向けたほうが好きですね。初心者的にはデカ体験のほうが圧倒的に受け取りやすいだろうからそういうのをやっていいと思うのだけど、それが当たり前になってしまってからは空間の細部を観察する楽しみにシフトしたほうが「先」が存在すると思う。

そうなってくると媒体に依存しない構造が必要になってきて、「本物の世界設計」が始まるんだと思う。

だから…なんでしょう。結局はVRもまた媒体であり、媒体依存性を使った作品と、そうでない作品と、色々方向性はあるんじゃないかなという結論ですね。私の中で有力なのは「スクリーン越しやコントローラでは出来ない繊細さ」ですね。

人との関わり方

最近結構悩んでいます。私は自分がこうなったら面白いと思っている方向に世界が進んでほしいので、そうなるように人を誘導したい、という気持ちがあります。

それは直接「こういうのはこうするべき」と主張することもあるし、そういう自分が良いと思う方向性の作品を作ることでもあるし。あと足りない人に何かを与える行動でもある。

だから私は「見てほしい人に」「見てほしいものを」見せる行動をしているわけですね。

こういう行動の対象には「鑑賞者」と「創作者」があって、例えばモノを作るとどっちにも語りかけることが出来るので便利だと思っている。ブログは記事毎に目的が違うかな。

で、最近悩んでいるのは、もっと創作者側に直接働きかけるべきなのではと言う気持ち。でも教育者ってだいたい誰から見ても胡散臭い存在じゃない?私はそう思う。自分の正当性がそんなに信用できるわけもないし。

そうならないように、対等であるようにこれまでしていたわけですが、なんかもうちょっと何かをやったほうが世界が進むのではないかなという疑念に悩んでいます。

線形代数くらいなら (自身の正当性を証明できる為) いいんじゃないかな。まぁ数学の基礎とかまで行くと思想の話になってしまうんですが…。

VRChatで数学を実装する際の面白さ

うーん。実装自体に面白さを感じることは私はあんまり無いみたいです (suzukiさんと違って)。実装出来たことが嬉しい・実装して出来たものが面白いはもちろんありますけど。

FFTとか作ると面白いですけどね。こういう。

HLSLもUdonもVEXも群とか関数合成とか書けないし演算子定義も出来ないし気持ちよく数学を書き下せたことがないですね。昔はHaskellとかAgdaを使っていたのでだいぶキモかった。

まぁ、数学って抽象論だと思うので。具体的なプログラムに現れるというよりも、その振る舞いに数学が現れるほうが実態に即してはいるのかなと思います。

Knot Puzzle だってね、別に結び目のプログラムを組んだわけじゃないから。紐を実装したら結び目が現れるだけです。それが数学の面白いところですよね。

好きな銀髪

だいたい私のいいね欄を漁ると色々並んでいるのでわかりやすいと思っています。

でも折角なのでめちゃくちゃ好きなタイプのイラストを挙げておきます。

とてもわかりやすいですね。

ちなみにいいねは「髪が綺麗だったら」そこそこ投げてるので、アレなものもちょこちょこ入ってます。explicitなものは無いと思うけど。

UEVR

こんなん出たんですね。なるほどなあ。

これについての見方は色々ありそうですね。「何故できるのか」「された開発者はどう思うのか」かな。

要はUEでモノを作ってる人たちはみんなUEの基本構造に縛られているというわけですね。良く言うと乗っかっている。

まぁ、私達が言うことではないかもしれないけど。

カメラがあって、UIがあって、手に持つオブジェクトがあって。みんな同じ実装になっているからこうなるのでしょう。

良いかどうか、は判断できないことです。常識に時間を掛けないことで本質を頑張るか、常識レベルから時間を掛けるかという違いです。

でも私はいろんな常識があるほうが好きかな。まぁ所謂ゲーマーじゃないからね。

そして…まぁ。それによって何が生まれるのかというと…いろいろ微妙な話ですよね。

私はあんまりMod文化の人間ではないので (Minecraftくらい?) こう、ドウカナーという気持ちになります。これでVRが嫌われたくないよね。

「見えないところは削減する」のはよくあることなので、Modで覗き見た結果として映ってほしくないものが映ることは全然あるわけです。

まあ、全部がUEに乗っかってるだろうから描画バグとかは起きにくいんでしょうけどね…。

おもしろ実験で済んだらいいんだけどな。

強いて言うならこれによって「UEなら気軽にVRゲーム作れるのかも!」って思ってVR系人口が増えたら…いやあんまり良くないな。

VRは常識を否定してこそだと思うので、常識ベタベタな環境じゃああんまり真価を発揮しないと思いますよ。私は。私はね。

VRのUIについて考えてみた

ウオーーー強いテーマが送られてきました。まぁ omochi museum があの時期の私の答えであったかなとは思いますけども。

面白いと思うやり方案は大きく2つ持ってて、片方はそのうち出ますが、もう片方は3年前に試験実装したっきりになっていますね。

その後者のやつは今に至るまでまだ見たことがないので、誰もその発想を持ってないか、それともこれをやると他の部分で崩壊して作品にならないか、だと思います。

まぁその話はおいといて。

例えば…ボタンとかから考えてみると。ボタンっていうのは「押下によってアクションを引き起こす構造」です。つまりそこに本当に必要なのは押下の「瞬間」の認知。

構造的に対応するのはもちろんコントローラのボタンですが、一時期Humanoidの指で押すのが流行りそうになった時期もあったかと思います。

それはある意味で当然にも見えるわけですが、本質的にはそんなことなかったというのが私の見解で、何故なら指の移動は連続かつ有界でないからです。壁がない。

「なんとかなっていた」のは「指を目的持って動かしている」時点で一定の行動が行われることが規定される為、瞬間の認知ではなくジェスチャーの認知として機能していたからだと思います。つまりあれは「ボタン」ではなかったということ。

結局瞬間の入力って難しいんだなあと毎度思います。どうすればいいんだろうね。答えは持っていません。

離散的入力に π_1(S^1) が使えるというのは昔から思ってますがまぁ流行らなかったね。「一貫性の境界」の話です。

あぁ、でも普遍的な話題として、 Hysteresis の概念はみんな覚えておいたほうがいいなと思います。VRだとセンサ位置が常に微振動しているし。

要は On のときと Off のときで閾値を変える、みたいなことです。昔知ったときに天才か?って思ったもんね。当たり前なことなんだけどさ。

そういう実装面の難しさ (非自明さ) もありますよね。知見集とかあってもよさそう。

追記: そうだ。これは書いておかなきゃいけないことだと思った。

私の最近 (ここ3年くらい) の仮説は、「間にレイヤーがあればあるほど、没入度が上がる」です。解釈はおまかせします。

VRで使ってみたい数学

なかなか難しいですね。VRで数学を「やる」のはまぁいいとして、「使う」って難しいです。線形代数は毎日使っていますけども。

最近 PGA を使いそうな機会があったけど結局やらなかったですね。大した内容ではないけど。

「わかってると使ってる」みたいなところありますよね。私は群論を丁寧にやってないので自明な状況 (結合的で可逆な演算) くらいしか群を使った実感がありません。Quaternion を回しているときにはリー群の気持ちになったりしてるかも。

あと Hairy ball theorem にぶち当たるたびに悲しい気持ちになったりします。

π_1(S^1) を「測ったり」するのも楽しいですけどね。どちらかというとこれは被覆空間の話になるかな、点が固定なわけじゃないし。

今年は代数をやろうと思っているのでそうなったらもうちょっと代数やってる感を感じられるようになるかもしれません。そうなったらいいな。

おわり

思ったよりもたくさん案を頂きました。ありがとうございます。

いつもは色々考えた結果として文章を書くので何らかの結論があることが多いんですが、こういう形態だとだいぶ口頭で喋っているのと似たような感覚になりますね。

意味はあるのだけど、価値ある文章か怪しい感じ。まぁ年始ですから、そんな感じでいいかなとも思います。

というわけで。これからもいろいろやっていきます。

では。

メモ 空間とモノと

「データ」は、使い方がなければ「なにでもない」。「暗号文」がそうであるように。

だから「データ」が「存在する」というためには、「データ」に対する「操作」が必要である。

「操作」は「データ」を別の「何か」と関連付けるコト。即ち、ここで必要とされているのは「データと何かの関係性」である。

「まずモノがあって関連する」のは現実だけの話で、もっと普遍的な世界に対する態度としては「関連性がモノを形作る」が正当ということになる。

だから「空間があると機能が生まれる」のは現実だけの話で、「機能が発生して初めて空間と呼ぶことができる」。

例えば「足し算と掛け算がある実数」という認識ではまだ「空間」を成していなくて、そこに代数的構造を、距離構造を認識することで初めて空間に「見える」ようになる。

 

  • モノが関連性を作るのではなく、関連性がモノを定義する
  • 空間の中で操作をするのではなく、操作が空間を成す

 


「私達が空間に居る」のか?と考えると、そうではないことになる。「空間がある」、のではなく、まず「私達が在る」。

という話は、実際のところ随分前から指摘されていると思うけれど。

雑記231215 10選のやつ

ということで

ふわっと書いておきます。

Gumball Lounge 3․0

vrchat.com

ここは構造だけ抜き出すと「ちょっとしたゲーム要素・パズル要素があって、全部やると終わり」くらいになってしまいそうですが、このワールドはその各要素が「ちゃんとヤバい」ので好きです。

そんなことある???みたいな。ずっとびっくりできるので複数人で行くと楽しいタイプです。

本人は色々と真剣にやっているのかなあと思っちゃったりしますが、それがどうであれ体験として rich なのは確かで。

…でもみんな行ったときにバグなのかどうか区別できなくて断念してしまったのは敗北だったな。バグじゃなかった。

細かいことを言えば色々気になることはありますが、演出みたいなものを気合入れてやっている感じは本当に好感度高いです。

VR宇宙博物館 コスモリア Cosmoria

vrchat.com

言うまでもない。ここは「私は挙げなければならない」。

私自身はあんまり宇宙には興味を持たなかったタイプの人間ですが、色んな人が楽しそうにお話しているのを見ると良いワールドなんだなあと思います。

展示物がたくさんあるもののそれぞれ離散的に置いてあるのは少しもったいない気持ちはある。連関をある程度タブレットの文章の方で補完しようとしている雰囲気は感じますが。

でもそれはそれで、詳しい人に話を聞くと色々情報が出てきて話題が広がるというか、"VRChat"してるな、というところがあるので、この形式は悪いものではないなと思っています。

VMoVA

vrchat.com

正確に言うと "Thickness of Calligraphy" を推す、ということになるのかな?次の VMoVA の展示が何になるかわかりませんが。

こっちは逆に「流れ」が明確に示されているのが面白いですね。所謂アート的な感じだとそういうのって隠蔽されちゃうイメージだから。モノの紹介だけではなくそれに至るまでのコトがあって、読みやすい。

成長がみえるというのが面白いところなんでしょうかね。まぁまずテーマが面白いとか…いろいろあるか。

びっくりするくらいVR向きでVR固有な感じ。価値は大きいなと感じます。

Magnetize

vrchat.com

私はこの作者の「丁寧」な感じがたぶん好きなんだと思います。VRChatらしいやわらかさというか、程度の良い rich さがあって。

去年は Etiquette を推した記憶がありますが、そこで言われる "Do the impossible." をまさにやった、有言実行な感じも好感度が高いです。

こういう「スタイルとギミックの綺麗な両立」が出来ているワールドは本当に希少だな~という気持ち。

Exhibition ⁄ little traitors

vrchat.com

もともとWebで公開されている方も好きで。こう。

わかる。勝手にわかっているだけなのだけど、わかる感じがある。

そしてVRChatのワールドとして出てきて、なんというか、「ワールド」をやっていたのでとても嬉しかったです。

言ってもしょうがない話ではあるけど、ああいうことってあんまりコスト掛けずに出来ると思っていて (VRだから!)、でもそれをやる人が少ないのは結局発想の強さというか、正確に言うと発想した世界を具現化する意志の強さ、がなかなか十分に至ることがないから、なんだと思います。

だからそういう細やかな世界の進歩を推していきたい。気持ち。

Achievements

vrchat.com

同一の空間で、「解釈が変わる」のが好き、かな。物を知ることで世界じゃない何かを視なきゃいけなくなる感じ。

意外と最後もそんなに意地悪じゃなくてよかったなあと思っています。

Fractone

vrchat.com

UIが鬼丁寧で好きです。tracker部分は私はあんまりわかってないけど…。

世界がこうあってほしい。私も目指さなければならないなあと思います。

実用性もあって (?) 良いなぁとなったワールドでした。

The Library of Hilbert

vrchat.com

ここは私は演出が一番好きです。全体の異常空間構造については…難しいですね。少なくとも実現してくれてありがとうの気持ちは強いです (Bounded H2 に繋がった話でもあるし)。

バベルの図書館についてはこっちのワールドがあって、これは…ギミックがすごい。やってることはたぶんわかるのでやればできると思うんですが、実現しているのは普通に凄いなあととても思います。

が、まぁ私は比較的ギミック屋なので、そういう (ギリギリ理解可能な) 奇妙さよりも体験として良いという意味でこっちの図書館を選びました。

一度simplifyされた世界で変形する、というのは、たぶん直接本物が変形するよりも納得感があるんじゃないかなあと思っています。ひと手間掛かる感じ。まぁ実物を変形するほうがここにおいてはよっぽど大変でしょうけど。

PokoPeaLand

vrchat.com

ここはまー私が挙げるところじゃないかなと自分では思うけど、こういうワールドが大きく出てきたということに対する称賛の気持ちで挙げました。

ようやるなあというか…できる気がしないというか…。空間設計が鬼大変そうで。

この…キャラクター性については私は別にそんなに好きじゃない寄りなんですが、このルックのこの規模のワールドが丁寧に作られているのは本当に…すごいと思います。語彙がないね。

Situation Voice "唐揚げレシピ"

vrchat.com

これはワールドの存在が尊い枠です。声がサフィーちゃんに結構合ってるのが良いです。

そういう系のコンテンツ一切聴いたことないんですが、VRで「事前動作が見える」ってめちゃくちゃいいんじゃないかなあって思う。

あと内容が全然意味わからんのも好き。アレな感じとギャグな感じが混ざって混乱する。サフィーちゃんが丁度いいんだと思います。

ベーコン炒めも見に行きましたけどめちゃくちゃ笑っちゃった。

VRChatらしくて好きです。ちなみに私が去年に選んだ10選のVRChatらしくて好き枠は The Road To The Mirror でした。

おわり

ワールド全体の完成度とかよりも個別の飛び抜けた要素とかで挙げているものが多いですね。

まぁ完成度の高さってあんまりevaluateしにくいですからね…。

来年は自薦できるようなワールドを作りたいですね。いや、面白いワールドは作ってるつもりなんですが (挙げてくださった方嬉しいです)、自分が作ったものなので内容が全部わかっちゃってるんですよね。一度限りでない価値があるようなものが作りたいですわね。

おわり。

雑記 ゲームからゲーム性を抜いたら何が残るのか

考えてみたくなりました。

ゲームは概ね*1ゲーム性によって成立しています。が、私はゲームのゲーム性じゃない部分が好きです。そういう話について。

ここで「ゲーム」と「ゲーム性」は、便利なのでそのまま単語自体は使うとして、意味は次のように定めます:

  • ゲーム: 視聴覚などの感覚を伴った、「目的」のあるインタラクティブシステム
  • ゲーム性: ゲームにおける「目的」とそれに纏わる全ての要素

例えば「テトリス」であればそのゲーム性は「生き残ること/スコアを取ること、その為にうまく積むこと」になります。よく知らないですが例えば「サッカー」だと「ボールをゴールに入れること、その為にうまくボールを操作すること」なのかなと思います。

インタラクティブシステムに目的が備わったものがゲームである」というのは ゲームの話 に書いたことで、であればゲーム性を捨てることはインタラクティブシステムに戻ることでしかないように思えます。

インタラクティブシステム自体はそれはそれで楽しいものです。「雑談」とか。

ちょっと思い出すのは、ゲーム制作の途中、ゲーム性が実装される前の「いろいろ動かせて楽しいね~」という段階。VRChatの文化の良い部分はたぶんこの辺にあって、ゲーム性など無くても私達は想像と試行錯誤から面白さを生み出すことが出来ます。

でも、そこからちょっと離れた面白さがあると思っていて、私はそれを見たくて、それに近いものが「ゲームからゲーム性を抜いたもの」に備わっている気がするのです。

だから、それを。

 

一度ゲームとして完成すると、ゲーム性が顕現します。それだけで人を惹きつけることもプレイを継続させることも出来るのだけど、例えば…人に薦めたいかとか。レビューで圧倒的好評になるかとか。所謂「良いゲームだった」ということにするには足りないものがある気がします。

昔はそれだけでもよかった。「テトリス」は今までにない体験だったろうし、他人のプレイを見て自分がやりたくなる気持ちも強く想起させる構造をしている。でも今は、それだけじゃあ人々は手に取ってくれない。

要素として思いつくものは色々あって、キャラクター、アニメーション、世界設定、ビジュアル、ストーリー…とか。嗚呼そう、よくあるコンシューマーゲームに備わっているものですね。

これらはゲーム性には一切*2関わらないのだけど、大事な要素として受け入れられていると思います。むしろそれがメインまであることもある。

で、じゃあ、その要素は何の為に在ったのかを考えたいのです。要素が必要である為には目的がなければならない。それを達成するための手段としての要素である。

雑な人はこういうときに「そうしたほうが売れるから*3」とか言うと思うんですが、そういうのはゲームというものに対する侮辱だと私は思います。そういう作品を私は否定しませんが、そんな理由を消し飛ばすほどの合理的な目的があったら誰もがそれを期待すると思うのです。それは即ち"それ"が目的ではないということです。


 

特にこの議題について私は明確な答えを持っているわけではありません。なのでだらだらと思うことを書いていきます。

「世界の実在性を明確にする」という方向性はありそうです。その目的は「人々の理解を促進する」、噛み砕いて言うと「噛み砕いて食べやすくする」というものですね。ただ「ストーリー」に関してはそれと直交した要素でしょうか。私の中ではストーリーは「因果関係を生み出す装置」即ち「点と点を繋げる為のもの」として解釈されています。

ところでゲームを物語系芸術とゲーム性による複合的な媒体として見ることも出来るとは思うんですが、たぶん複合的 (複数が一つになったもの) というよりは多義的? (一つが複数を兼ねるもの) なもの、のほうが理想的かなと思っています。

だからゲーム性とストーリーは結びついていてほしい。いや、結局全ては結びついていてほしい。

何故結びついていてほしいのかというと、それは納得度を上げるし、結びつくことで情報が増えて、それを識ったときの「接続する感覚」が増えて楽しいとか。あとは、そうやって出来た「絡み合う美しい構造体が見たいから」とかなのかな。

私はきっとその最後の要素を期待しているのだと思いますけれど。

 

ゲームは色んなもの (ビジュアル・音楽・インタラクション・その他) が組み合わさって出来ていますが、それを全て束ねて「1つ」になっているというのはよくよく考えたらものすごいことです。

それが出来るのはもとから1つだったからではないかと。制作過程がどうであれ、「もとから1つであるという意識のもとに作られている」から「1つになれる」のです。きっと。

うまく「1つ」になっていないと何が起きるのか?は、とりあえず「実在性が下がる」ということがありそうです。それによってプレイヤーは…納得を失うかもしれない。世界に居るという感覚が損なわれるかもしれない。それによって…たぶんゲームの評価が下がってしまう。何故でしょうね。

これの面白いところは、「1つになる」ためにはクオリティを上げることだけが手段ではないというところです。「均す」ことが重要で。古典的ローポリのゲームでオーケストラが鳴ってたらおかしいよねという話ですが。

完成されたゲームからゲーム性を抜くと、たぶんその「世界」が残るのです。いえ、残らないほうが理想的なのかも。だって全てがゲーム性と連関しているほうが実在度が高いですから。

「ストーリー」というものが「因果関係を生み出す装置」で、インタラクティブな媒体においては「外力」として働いてしまう以上、ゲーム性無しにストーリー進行をさせるのはかなり難しいことになるのではないか、という話になりそうです。

つまりゲーム性 (私達の進行) とストーリー (世界の進行) が手を取り合って進んでいくのがゲームであるならば、ストーリーが勝手に進んでいったら…私達は世界に必要なのでしょうか?

インタラクティブに進行するなら満足するか、というとそうでも無いと思います。何らかの目的を私達は追い求め、その対価として、代償として、責任としてストーリーが進行しているからです。それが手を取り合っているということ。

あまりこの記事で具体例を出すのはふさわしくないかなと思っていたんですが、例えば What Remains of Edith Finch は根本的にゲーム性の無いゲームですが、局所的なゲーム性があります。それは「登場人物の欲求」です。主人公として居る間は欲がなく、自由に行動できる感覚があります。もちろん大多数の人間は知識欲に基づいてゲームを進行させるわけですが、それには世界は穏やかに (語りかけるように) 答えます。対して「登場人物の物語」においては明確に、何かをする、したい、しなければならない、と状況を提示し、私達はそれに沿ってゲームを進行させ、世界が (時に劇的に) 進行します。

強い感覚を引き出す為には「自分が進行させた」という自覚が必要で、ただ「プレイの流れ的にそうしなければならなかった」だけ (インタラクティブなだけ) だと自責が弱い。だから「自分がそうしたかった」ことにする。

登場人物に自己を乗せるには、登場人物の選択がプレイヤーにとって合理的なものになる必要がある。その為に背景を設定し、キャラクターを設定し、それを説明し、プレイヤーの意思決定とその人物の意思決定が同じものになるように重ね合わせる。そうすることで初めて世界が進行する。

よくやってるなあと思います。

でもこのやり方はかなり参考になりうるものです。

確かにアセットがめちゃくちゃ作り込まれているからこそ生まれる感覚は明確にあるわけですが、ストーリーを進める為に重要なのは「プレイヤーが欲を持つこと」なわけです。それは普遍的な法則な気がしますよね。

今「欲」を生み出す装置としてゲーム性が活用されていますが、それだけであれば他にきっと手段もある。…うーん、でも知識欲はやっぱり弱いんだよな。「押したらどうなるかな~」だけだと強い結果を生み出した責務を受け止めきれない。

まぁ、単純な例だと、「その辺に居る敵をやっつけた」ら「敵の大群がやってきた」くらいなら納得はできそう。

でもいろいろ手段はあるとおもいます。やっぱり。

 

ところで「世界の実在性」以外には何か無いんでしょうか。残るものが。

まぁそれで思い出すのが The Witness なんですが…。

このゲームは所謂ゲーム性と呼べるものは「知識欲」以外に無いと思います。「新しいパズルを知りたい」「解けるようになって嬉しい」。原始的で普遍的な欲求です。

しかし、何度も言ったことがあるようにこのゲームは「それ以外」が強いのです

それはさっきの話と構造的には一致していて。即ちゲームから「知識欲の代償」を求められる、のです。

つまり The Witness は「ストーリー無しに、ストーリーの与える要素を代替する方法を発見した作品」なのかもしれません。

ちょっと唯一無二ですけど…。

じゃあそれによって何がやりたかったのか、というと…私はよくわかりません。それが解釈が分かれる点ということなのかな。

でも私は「それが実現できる」ことにとても惹かれたし、可能性を感じました。

そこまでいくとゲームは手段になります。何かやりたいことがあって、それを実現する為にゲームという媒体が適しているから、それを使う。

媒体 (という概念) に対して真摯に向き合うというのはそういうことなのだろうと思います。そうありたいですね。

 

結果的に何が言いたかったのかというと、いえ、元々この文章を書きたかった理由は、VRChat のワールドに何が足りないと自分で思っているかを言語化したかったからです。書いたら出てくるかなって思って。

結果的には「欲を生み出す装置」という話になりました。そうかもね。

どうしようもない結論だけど、まぁ、書いて良かったなってちょっと思いました。

*1:これは1個体における割合の意味ではなく、無数にあるゲームの中の割合の意味

*2:操作感とかは結構変わってくるけど

*3:何故なら宣伝効果が高くなりやすい為

雑記 言語としてのツール

今私はベイク中で暇です。

この動画を見たときになんだか「言語」を感じたという話なんですが。

つまり… Blenderでこういうことがしたい!ってなったときに、なかなかぱっとはできない。だからツールを作って使い回せるようにする。

とても妥当だと思います。

が、Houdini頭で考えると別にツール作るほどでもないなと思っちゃって。

  • 各オブジェクトをpackしておく
  • Attribute Randomize でランダムな値を突っ込んでおく
  • Attribute Wrangle で適当な点からの距離に基づいて影響力を計算
  • Attribute Wrangle で packedtransform で動かす

色々細かいアレはあるけどまぁ動くでしょ。ノード6個くらいあればなんとかなるでしょ。

つまり…「語彙」が。

「便利なツール」があったらもうその範疇でやりくりするようになって「癖」が出る。それはもう昔から常にそうなのだけど。全ての媒体、全ての道具においてそう。

語彙が少なければ少ない語彙で表現するしかない。

対してまぁ、汎用的で小さな語彙と、その合成ができると言語としての表現能力が格段に上がるわけです。現代の言語はみんなそうやって出来ていて、現代のツールの流れもそれに沿っているわけです。

ツールに表現が制限されるならば、ツールが十分汎用的で「何も癖を与えなければ」いいわけですね。そういうところがHoudiniの好きな点です。

「便利な機能がほしい」ではなく「やりたいことをすぐ実現したい」はずなのです。

「適切な言語」という概念は実在します。


ベイクが終わったのでこの辺で終わっておきます。