最近は書くことがなくてブログを書いていませんでした。特に書くこともありませんがなんか書いておこうと思います。
私はちょっと前から試験的に (?) 人との交流を増やしています。正確には流れでそうなった…部分もあるんですけど、一応意図というか意思を持って増やしているつもりです。
まだ SNS 上だと実験的な部分しか出てないと思うんですけど、こう、なんか話のきっかけみたいなものがあった時に…もうちょっと深化する方向に拾えるならそうしようとする、みたいな…みたいな?
要は仲良し大作戦をやっています。おうちも落ち着いていますし (?) なんかこう、深化した友達がもっといてもいいような気がする、というか、欲しいというか。
お陰で色々変わってきていて自分の中ではいい感じです。個別の話については特にここに書くことはないんですけど。
そういう知り合いが増えることは嬉しいけど増やしすぎても私は疲れちゃうタイプなので、自分が大丈夫かな~と思うタイミングでつんつんすることにしています。なのでそんなにたくさんいるわけでもなし。それぞれ違う関係性になってるのもちょっとおもしろいです。
…あ、でもあれです。これは私から投げるときの話で、なんかメッセージ貰ったら喜んで返事するタイプなので、なんかそういうのがもしもあれば全然投げてもらって大丈夫です。というかその方が受け身で楽 (?) まぁそれはそうである。
まだ送る方の積極性は他の人より足りないな~と思うのでだんだん増やしていけたらいいですね。ですね。
元々あまり自分のことは人に話さないようにしていて…そこは今でも変わっていません。理由としては「私は過去を自身の構成要素だとあまり思っていない」あたりが近いと思います。
だから何かを見たときの反応とか、喋りかけられたときに返す言葉とか、そういうものが「自己」であって、その場で観測できないものの話をしてもしょうがないなって思っている。
もちろんこれは相反するものではなくて、「経験によって言葉を返せること」みたいなものは無限にあるわけだけど、私はそれを削ろうとしている。その方が pure だと思うから。
…が。それは「対人」的コミュニケーションで。つまり ⇄ みたいな状態の話で (鏡になろうとしている、みたいな)。⇉ みたいなコミュニケーションをもう少しして良いのでは、という気持ちもあります。伝わらないですね。
要は自己開示をもう少しした方がコミュニケーションの質が向上する可能性が高く、それが私にとっての得であると今は認識しているので、その尺度に則って喋ったり喋らなかったりしています。固い書き方になってしまっていますが一般に人はそういうことをしていると思います。
まぁ全て別に相反するわけではないので、適度にバランス取りつつ動いています。色んな部分をコントロールしようとしています、適度に距離を (相手から) 取られるようにするのもそうだし。
何の話だっけ。
SNS で思考を流すのもしなくなったな~と思うけど、これはどちらかというとおうちで話していて既に結論が出てしまって書くことがなくなるからですね。なので直接ぶいちゃとかで話すと無限に喋るし、ついったーと印象が違うみたいなことを何度か言われたことがあります。まぁそうかも。
でも結局…そんなに喋ることない、というか、なんかそうだね、みたいな感じだし。自分自身の行動については結論が随分前に出ているのでそれをやるだけだし。
だからたまに何か呟くやつは、あれです、「既に発話している他人に特定の文字列を見せることで何らかの変化を促進させようとするケース」か「自身の立場を明らかにすることで他人からの印象を調整するケース」ですね。これも細かい SNS 運用をしているという意味ではなく、人々が日常的に行っているはずのことを言語化しているだけです。
これ ↑ を書き記すことで「影響」が発生することもあるわけですけど、逆に書かないことによる不利益も最近ちょこちょこある感じがするのでインターネットに一応置いておくのは良いことかなと思いました。
コンテキストを共有している数人だけに伝わり、そうでない人には情報 0 で伝わるようなものが一番いいコミュニケーションだと思っているところがあります。その塩梅を探るのもそんなに嫌いじゃないです。
そういえば最近たまに思うけど書いてないことがありました。「事実とは何か」です。
「あの人はこう思っている」みたいな言明って事実に成り得ないのですが、その辺が区別されていないことをしばしば観測します。
- 「あの人はこう思っている」ではなく
- 「あの人はこう言っている」(発言と思考が一致するとは限らない) だし。
- 「あの人はこの時こういう発言をした」(今その発言をするとは限らない) だし。
- 「あの人はこの時こういう投稿をした」(SNS 上の文字情報化された「発言」と発話によって得られる情報は違う) だし。
- 「あの人のアカウントはこの時こういう投稿をした」(投稿を行った存在がアカウント所有者とは限らない) だし。
- 「あの人のものということになっているアカウントがこの時こういう投稿をしたという記録が SNS 上のデータベースに残っているらしく、私達はサーバーにアクセスするクライアントプログラムを通じてそのデータベースの内容を閲覧したということになっている」です。
- 本当にデータベースにそれが記録されているかどうかはわからない。(中間で何か別のところにアクセスされているかもしれない)
- 本当にサーバーに接続しているかどうかはわからない。(使用しているクライアントが正規でない接続を行っているかもしれない)
- クライアントプログラムが何を出力しているのかを私達は知らない。(ランダム生成文字列を閲覧しているだけなのかもしれない)
インターネットのゴタゴタってだいたいこれらの混同に因るものではないですか。
こんなに「丁寧」に考えすぎると大変なのはそうだけど、何かが起きたときにここを混同したままではいられないときがある。
そういう時に「事実とは何か」を直視しなければいけないときがある。物事をちゃんとわかってないとそれができないのですね。
だから自然言語で平易に書かれている文字列は、適切に翻訳しなければならない。ちなみにそれによって「誤読しているかもしれない」という過程も追加されます。
そして…されど事実というのは尽く何も言いません。そこにそれがあるだけです。だから"そんなもの"を根拠にした発言も等しく空虚です。
だけど、それが本物の虚無ではないから、私達はコミュニケーションができているのですね。
正確には、コミュニケーションができているということになっている。
この「ということになっている」の部分を、日常会話では言わないことになっているのですけど、本当に物事を考えるときには必要になったりする。
そしてこの「ということになっている」というのは、"virtual" に対応する言葉かな、と思います。virtual memory とか。
誰かの発言を見て何らかの感情を覚えたとして。その感情を文章に書き出したとしても、それは「表現された文章」であり、「感情」ではありません。つまり「感情を覚えたことになっている」というだけです。
でもそれでも良かったりするわけです。私達は常にそうやって生きているので。
この辺のことをちゃんと考えたい人には modal logic がおすすめです。
あとなんか書くことあるかな。特に思いつかないかな。
まぁ私のやることは特に変わっておりません。やること増えてはいますけど。なんか出てますけど。
面白いと思うものを粛々と作ることだけが現在で唯一建設的な行動だと思うので、それをやります。
こんなものがあったらいいのになって思っても、それは本当に存在しないのかもしれないから、そこを疑わずに考えてもしょうがないです。背理法は矛盾を導き出す為にありますし。
ので可能性を具現化してから初めて物を言うべきだと私は思っているので、そうしています。
もうちょっと世界が豊かになると「建設的な行動」の種類が増えて嬉しいんですけど、まだ足りないように見えるのでそこをやります。永遠にそうなのかもしれないけれど。
私のワールド解説会くらいはしてもいいかな、と思いつつある。
来年はワールドいっぱいつくりたいな~
おわり。