存在しないものに名前を付けるとそれが存在するように思えてしまう言語上のバグがある
— phi16 (@phi16_) 2025年5月25日
定期的に同じ話をしているような気もするんですが、書きたくなったので書こうと思いました。
この世界にある「物体」の速度は光速を超えません。有名な話です。
だけど、例えば「レーザーポインタの示す点」の速度は光速を超えることができます。これも有名な話。
人は「レーザーポインタの示す点」をある種の「モノ」として認識します。ということは…矛盾しますね?
…そうではないですね。ここで言う自然言語的「モノ」の概念は「物体」とは異なるわけです。
つまり、私達が言語で捉える「モノ」概念は、丁寧に何かを考えようとする際には役に立たないということです。
よく漫画とかで時間を止める系のギミックがありますよね。認知があるかとか動けるかとかで作品によって違うことが多いです。
例えば人は動けなくなるけど物が動けるということがよくあります。ということは「人」と「物」を区別しているということです。どうやって?
動けない人の近くに行使者が近づいて云々みたいなこともよくあります。ということは「空気」は動いています。「人」と「空気」が区別されています。
いわゆる能力系だと特に行使者の「認識」が強く作用していることが多いみたいです。時間停止以外にもまぁ、浮遊とか、転移とか、色々ありますよね。人と人以外を区別できているシステムが。服を含むのか、アクセサリーを含むのか、体内は、接触している人は…とか。
言うまでもありませんが現世に存在している「物体」は原子で構成されていて、肌の境界というのはかなり複雑な様相になっているはずです (多少の水分の出入りとかがあります)。そこに境界を引くというのは非自明な操作なわけです。
これが示すことは何かというと、「人」という概念もまた、物理的観点からは役に立たないということです。
別に物理的観点から考えないしなぁ、というわけにもいきません。
「生」と「死」も同じように明確にすることができないものですが、法的にも医療的にもこの辺は必要な概念でしょう。私達の周りには基本的にはどっちかしかいないので、普段生活する分には困らないことが殆どなわけですが、世界的にはこの境界がそこそこ居るはずです。
というよりも、遷移が在り、それが連続的である以上、その中間があるはずです (中間値の定理!)。
もっと日常的な話で言えば「青信号と赤信号の境界」もあります。それが一瞬であるから人々は気にしないだけで、そこには曖昧な瞬間が存在する。だから「今、青か赤か」という質問に精密に答えることはできない。
「横断歩道と歩道の境界」もありますね。側溝があるエリアは含むのでしょうか。白線の内側はどっちなんでしょうか。足が半分はみ出てきたら。左足と右足がそれぞれの領域に立っていたら…。
そこに遷移が在り、連続的である以上、「どちらか」であることに精密に答えることはできない。
精密に答える必要は基本的には無いけれど、極稀に、必要なこともある。
そういえばそういうルールの抜け穴を見つけるような物語展開も、漫画ではよくあることですね。特に言葉を操る媒体ですし。
— phi16 (@phi16_) 2025年6月12日
まぁ、だから、必要になったときには「言葉が失わせていたもの」を直視しないといけない、と思うわけです。
特に、それを特別にしない扱い方で。何故なら、そうしてしまうと「特別と特別じゃないものの境界」が生まれてしまうから。
理想的には、必要としないときにもそうあるべきです。何故なら、そうじゃないと「必要なときとそうじゃないときという境界」が生まれてしまうから。
つまり、境界を、引かない。
まとめると……結局世界というのは殆どが曖昧なもので。言葉によって「在る」ように思えているものは、実は、無くて。
だからこそ学術屋さんの言う語彙たちは私達の自然言語的な言葉とは"一線を"画していると言えます。
…おや、境界を引いてしまいました。そうですね。実際には境界はありません。学術的語彙たちはできるだけ明確に示すようにしているだけです。
そういう曖昧かつ厳格な世界は扱うのがとても難しくて、人々は線を引いて単純にしようとするのだけど、それによって零れ落ちる物たちがある。
仮説検定ってわかりますか?歴史的に使われている、「仮説を検証するやりかた」のことです。そこでは典型的には「調べたい仮説の否定が、棄却できるかどうか」を調べます。
つまり、もしも本当に仮説が成り立っているとしても、こいつは「仮説が成り立たない、とは言えないだろう」ということしか教えてくれません。これは「仮説が成り立つ」とは違うのです。これが「曖昧かつ厳格」の意味合いです。
…何度か言ってる気がするんですが、私は物事を考えるときに排中律 (⇔ Aでないわけではない、ならAである) を認めないほうが良いと思っていて、そういうのを直観主義って言います。私はこれがもっと広まったらいいのになぁって思っています。
だって、排中律は成り立たないですからね。世の中には沢山の「境界に乗ってしまう存在」があるんです。
数学屋じゃないからこそ直観主義論理をやるべきだと思っているところあります。
特にオチはないです。が、書いていて思い出した好きな文章があるので貼っておきます。
物理学者による哲学批判 / 一物理学者が観た哲学 という100ページくらいある pdf で。好きすぎて偶に知り合いにおすすめしています。
科学的でない物の考え方について丁寧に「注意」をしている文章です。そうだよねえって思いながら読めます。逆に言うとそうでない人は「科学」がわかっていないということだと思います。
最近読んだ本に「すべての哲学は『言語批判』である。」って書いてありました。そうだねえと思います。
言語って、怖いですね。