特に最近の何かというわけではないですが、まぁ色々に付随して考えていたことを書こうと思います。
私は基本的に「科学」に基づいた世界観で動いてる人間で、まぁそれだけの話です。ただそれがどういう意味なのか、というのはわかる人にしかわからないのでしょう。
まぁ私の考える「科学」が世間の言うものと一致しているかはわからないので、以後は表現を変えて "science" と呼びます。
正しさの拠り所
私が science において最も必要であり唯一必要だと思っているのが「反証可能性」です。
反証可能性というのは、すごく雑に言うと、ごめんなさいができることです。もう少し綺麗に言うと「間違っているかもしれないこと」です。
一般に科学に対して「客観的に正しい理論」みたいなイメージが先行してると思うんですが、それは副次的なものですし、実態と幾らか異なります。
science そのものは正しくない可能性があるのです。ただ、正しくないとわかったときに修正するという態度が最も重要なのです。
有名な例である「天動説」も、それが誤りであると認められるまでは「客観的に正しかった」のです。それは science として成立していると私は思います。
「誤りであるとどう認めるか」が大事でもあります。誤りは、それが認識されるまで、存在しません。だからそれは確かに「正しかった」のです。
「間違いを認識する」ことができる為に必要な要件があります。それは「信じないこと」です。全てを。他人の発言も。自分の手作業も。正しいと信じられてきた記録も。
「信じない」ということは「疑う」ということです。「疑う」ということは、「正しいのかどうか常に検証し続ける」ということです。
science という体系は多くの人達が「正しいのかどうか常に検証し続ける」ことによって成り立っているわけです。それが「客観的に正しい理論」という言葉の実態です。
整理すると、「正しい」わけではないけれど、「正しいのかどうかを常に検証され続けている」から、ある程度うまくいくことが示されているというのが科学、ということです。
本当に正しいものなんて存在しないという虚無的価値観の下で、それでも「今のところ綻びが無い説明」を追い求めるという活動です。
現世に魔法があるかもしれないことを、科学は否定しません。説明が出来ない現象が起きたとしたら、それは興味を持たれ、研究され、最終的に科学に取り込まれることでしょう。
昔ある人に「どうしてそんなに自分を信じられるのか」と聞いたことがあります。その時の返事は「そうじゃないとやってられないから」とのことでした。
その気持ちは確かにわかります。それは否定されるものではありません。しかし、science は「自分を信じなくてもやっていく方法」を提供しているのです。
例えば具体的な手法として「対照実験」があったり、「仮説検定」があったりします。それらは明確に「その考え方は正しい」とは言ってはくれませんが、それでもある程度の意味がある、ということを示してくれます。
根本的に「信じる / 信じない」の世界観ではなく、「ある程度確かである」という考え方がベースにあります。実際それを徹底するのは大変ではありますが、「信じていたけど裏切られた」という現象が起きたときの辛さを考えると、だいぶ気が楽になる考え方なのではないかと思っています。
二値論理の功罪
今の話からわかるように、「~であるか?」という問に対して science に基づいて明確に Yes/No を返せることはそう多くありません。
例えば「この薬に効果はあるのか?」に対して Yes/No を返すことはできません。言えるのは「いくつかの事例を踏まえると、偶然ではないと考えられる」程度です。
さらにこの「偶然ではない」という表現は「必然である」とは意味が違います。偶然と必然の間にはグラデーションがあって、少なくとも偶然側ではないという意味です。
science においてはこの「言葉上では小さな表現」が非常に重要です。意味が違うから。
だけど、それを唯の Yes/No に落とし込んでしまうことが広く行われているように感じます。「真偽値に基づく論理」が普遍的に教育されているというところもあり。
しかしそれは本物の「論理」というものの序の口で、言ってしまえば「一番簡単なやつ」です。逆に言えば、だから「教育」に組み込まれているのですね。
世の中が当然最も簡単な論理で収まるわけはありません (もしそうならそれ以上難しい論理が作られていませんから)。Yes/No にしてしまうのは過度な単純化であり、繊細な意味合いを落とすことに他なりません。
一歩踏み込んだ論理の世界として「直観主義論理」があります。字面を見て判断しないでほしいんですが、これは「回答の根拠を常に提示すべき」という態度を体現する論理のことです。
science においては「根拠」は大事なものです。何故ならそれがないと反証可能性が生まれないからです。論文は abstract だけでは終われないのです。
別に science の人たち全員が直観主義論理に基づいているという話ではないですが、私は基本的に直観主義論理で動いているつもりです。
ちなみにこの考え方だと気軽に二重否定を取ることが許されません。とは言えそれは単純な話で、物事にはグラデーションがあるからそれは妥当なのです。
「無い訳が無い」と「有る」は違いますよね。明確な根拠があるのは後者です。
ここの「明確な」という言葉にも意味があって、「無い訳が無い」根拠が存在することももちろんあります (鍵は家の中にあるはず、何故なら鍵を開けて家に入ったので、とか)。でも「有る」根拠のほうが (納得するには) 簡単で、(提示するには) 難しいです。
明確であることは嬉しいことですが、常にそんな根拠が出せるとも限らないので、曖昧な中で論理を行う必要もあります。それができるようになることは science である為に重要な要素だと思います。
世界観
ちょっと考えてみると、science は別に「現世」を特別な対象として扱っていないことがわかります。science は概ね実験・理論立て・考察からなるものですが、現世に依存している要素は実験だけです。
そしてそれを元にして作られた理論というのは、別に現世のことを記述しているわけではありません。「こう考えると実験結果が説明できる」という観点です。
つまり「ある理論が正しいとされる世界では、この実験結果が出る」というだけです。その世界が現世であるとは、science は主張しません。
何故ならそこを考えたところで、反証可能性が無いからです。
世界五分前仮説とか、シミュレーテッドリアリティとか、別に好きに考えたりするのは自由ですが、そこには反証可能性がありません。クオリアもそう。その他いっぱいありますけど。
「あるかないか」を考える以前に、「ある場合とない場合に区別がない」のです。この「区別がない」という状況は反証可能性にとってはクリティカルなものです。何故なら、反証できるわけがないのですから。
「願い事をしたら叶った」からと言ってそれは願い事が届いた証明にはなりません。神はいるのかいないのかは、どっちでもいいのです。
先程言ったように、science はこの世界に超常的な何かが「存在するかもしれないこと」を否定しません。可能性を認めます。だけど、どっちだとしても science の理論に影響は一切与えないのです。
だから、根本的に科学が扱っている世界というのは「理論上のもの」なのです。現世と一致しているかもしれないが、それすらどうだっていいのです。観測できないのですから。
根本的にまぁ私達が認識している世界もまた「想像上のもの」です。わかるのは眼に入ってきた光、空気の微細な振動、肌に掛かっている圧力、その他程度です。
何故それを人間がわかるのかというと、「そうした方が進化的に有利だったから」なのでしょう。偶然光を認識できるようになった個体が、その優位性を発揮して生き延びる過程を経てだんだんと優秀な眼が作られていく ("本当にそうであったか" は science の範疇ではありません。でもこれは、確かに納得できる説です)。
もっと世界には何か不思議なものが漂っているのかもしれませんが (放射線とか)、それらが観測できるまでは science の世界に存在しなかったのです。
だから人間は最初から仮想的な世界に生きているのです。それで困らないから。
関係性による世界認知
science という枠組みでは直感的でないかもしれませんが、「人間がゲームをプレイする」様子を考えるとその仮想世界認識というのが普遍的であることがわかります。
ボタンを左右に押して動くのは、「よくわからない」ですよね?ボタンを押下すると圧力が加わって電気が通るようになり、それを受け取ったCPUが…色々あってキャラクターが動きます。
でもそんなことなんてどーだっていいのです。右に押せば右に動く。それが実験と観察によってわかれば十分です。
何故それで十分かというと、キャラクタを所定の場所へ動かすという目的を達成するにはその程度の認知で十分だからです。
何故特定の場所に動かしたいかというと、それによって得られる体験があると期待されるからです。
その目的に関係ない部分つまり「具体的な領域」は一切認識しなくて良い。そうして抽象化された世界を私達は観測しています。
具体性の程度は目的によって変わりますけどね。正確な入力をするにはモニタとの遅延が認識に入るし、バグ技を使うなら内部メモリが認識に入ります。
抽象化された世界というものは「関係性で出来た世界」だと思っています。一個一個の物が何であるかはわからないのだけど、それが別のものと関わったときにどうなるかがわかる。
ボタンとキャラクターの間には長い連関があるのだけど、それを単純化して認識しやすくする。そうなったら、ボタンが何であるかは忘れて良い。
知らなくてもわかる。
この考え方は数学で結構大事で、長々と大変な定義があったとしても、他の物との関係性さえわかっていればそれを忘れて良いのです。
Quaternionが4つの実数で出来ていることは、物体を特定軸で回すという目的を果たすだけなら忘れて良いのです。
寧ろ忘れるべきでもあります。
情報伝達には根拠が重要です。しかし本当に万物の根拠を掻き集めてしまうと頭が足りません。だから各要所要所を抽象化し、関係性というパッケージにして軽量に扱おうとするのです。
つまり推論するときに全ての根拠を丁寧に展開するのではなく、「それが正しいという前提」の下で推論を行う。そうして得た結論は妥当ではあるけど、穴あきになります。その穴を別の推論によって綺麗に塞ぐことで、全体として完全な推論を作る。これが三段論法です。
なんなら穴を自ら綺麗に塞がなくてもいいのです。誰かが正しいと言ってくれたなら、それを使うことができます。但しそうやって得た全体の推論には、「その誰かが言ったことが正しいならば」という穴が残ります。いつか実は成り立たないことがわかってしまったときに、それを掘り返すことができれば良いのです。
いわゆるインタフェースという概念はこの関係性そのものでもあります。遠くのサーバ、手元のGPU、その他実際に何が行われているかさっぱりわからないものであっても、「Aを行うとBが手に入る」「Bを使うとCが得られる」という連関さえ知っていれば、私達はそれを扱うことができます。
そういうブラックボックスに対しても、中身を知らない恐怖に駆られずに平然と居られる。もしかしたらなんかヤバいことが中で行われているかもしれないけれど、インタフェースの機能が守られているならば、意図通り使うことができるはずです。
魔法が使われてるかもしれないけど、別になんだっていいのです。そんなことは。
リアリティとは
この文章のきっかけの一つはとある場所で「リアリティとは?」という話題を見たことです。
science 的な立場だとリアリティがあることそのものには意味は無くて。リアルなんてなんだって良くて。リアリティがあることによって起きる事柄が大事なのです。その連関が。
そしてリアリティとは結局は世界認知の構造そのものであり、この単純な問いにはいくらでも答えを出すことができます。それぞれに相関はなく、それぞれが興味深いものです。
であればこの中間概念である「リアリティ」という語は、要らないように思えました。
言葉に騙されているような気がしました。
まぁ、そんな結論は自分の中では随分昔から出ていて。
なんだか「アート」をやっている人間に science の視点がないのは勿体ない (そんなところで止まっているの?) 気持ちを持ちつつ。
まぁ science まで行っちゃうとアートできなくなるんだろうなあ、ということも思いました。
でも、私個人としては、そこまで行った science だからこそ出来ることがあると思っていて。
science に基づけば即座に答えの出る問題などではなく、science でも解けない問題領域の面白さがあると思って。
実際それをやっている人はたくさん居て。それが興味深いと。
そういうところで私は活動していきたいなと。そんなことを思ったのでした。
おわりに
science について長々と書いてきましたけど、そうすると science という言葉の「定義」ではなく他概念との関係性が見えてくるのではないかと思います。
言葉そのものに意味はなくて。そこにあるのは関係性に基づく意味があるだけで。
何かに依存することなく推論を完結した、そうしたものが本当の知識であるように私は思います。
まぁ、なんというわけでもないですけど。