ふわっと。
肯定と否定
なにかを肯定すること、なにかを否定することは、表裏一体のように見えて、そうではありません。
何かが正しいと言うにはその証拠が必要で、何かが正しくないと言うにはその反例が必要です。これらは在り様自体が異なるものです。
だから気軽にひっくり返さないでほしい。
そこに常に根拠を求めてほしい。正しく。
その正しさを丁寧に扱うには二値論理では足りないと思うわけですけども。人類はいつ進化するんでしょうか。
1.51714
これはまぁ調べると出てくるわけですが、0.65913の方はそこから導かれる「逆向きの屈折率」なのでした。掛けたら1。
「ただ視点が違う」「ただ方向が違う」というだけであることはお互いの同等性を強調します。
実際のところこの2つの数値に大きな個性は無いはずで、まぁ強いて言えば1以上か1未満か、というのが直感的な分け方です。
それ故にある程度わかりにくいというのは必然的な話。ただ多少感じるものはあるようなという話を。
1.51714には1が3つあって、唯一の偶数が最後の4だけです。だから基本的には硬さを持った同じ構造が続くような。そして最後に緩和が入るような。
0.65913は対照的に色味豊かですが、それでも偶数は最初の6だけですね。それでいてこちらにしかない6,9,3は一貫した華やかさを演出します。
まぁこういうのは占いみたいなもんなわけですけど、GCにはぴったりなイメージがありました。
視える人類、十進法に拘っている感じがして好きではなかったんですが、まぁ名前という解釈であれば (数値でないのなら) 良いのかもしれない。
そうか?そんなことはないが。
結局全ては解釈に過ぎない。
こだわりというもの
何かにこだわりました、という言明を稀に見ますが、それは「私はこうすれば喜ぶと思ったのでやりました」という意味なのか?
何故なら必要なものにはそれ相応に作る必然性が現れるだけで、こだわりを明言化するということは「それ以上」即ちそこにあるのはエゴかサービスか、ですよね。
で、エゴはまぁ言う必要ないじゃん。
みたいなしんどいことを考えるのは良くないと思いました。
というのも、まぁ、サービスに対する返答それ自体が自身の願いであるなら、それを否定する理由は一切ないということです。
こういう話は何度やっても「自覚」という概念に収束しますね・・・。
最強になってはいけない
何故なら次へ進めないので・・・。
きっと最強と思っても最強じゃないから。誰か見えない場所にいるから。それを認識できなければ、知らないうちに、気づいたときには立場は裏返っているのです。
裏返っていたことにも気づかない程に。
そうはなりたくないと。