Imaginantia

思ったことを書きます

雑記 言語と論理性

最近いろんなきっかけで言語について考えます。

自然言語って面白いですよね。アレはまさしく「歴史」そのものなわけで、「自然言語を完全に理解する」ことは不可能であることが自明にわかります。

興味深いところとして、案の定的ではあるのですが、どんな言語も「簡単になろうとする」ところがあるようです。発音、綴り、文字、文法などについて。

まぁ難しいものは受け継がれづらいということです。それができるのは「明確な強制力」によるものがほとんどで、そうでない限り、言葉は崩れていきます。

その「難しい」の観点もなかなか面白いと思って。例えば私は活用による格の提示は (システマチックな部分に関しては) 合理的だなあと思うわけですが、それよりは前置詞や順序によって提示するほうが今のところ多く残っていそうです。

つまり「単語それぞれが不変であることが簡単である」と言えるのかもしれません。まぁこれは小さい子に教えるみたいなことを考えるとわかるような気もします。音が明確に分離でき、それぞれが固定できると判別もしやすいです。

 

「人に情報を伝える」為に作られた言語は、逆に言えば「伝われば機能を全うする」わけです。お互いにその了承ができていれば言語はどんな形にもなりえます。

文字を介した言語表現は現代に至るまであまりにも発達しすぎて大変なことになっていますが、その1つの要因として「情報を明確に抽出できること」があるのではないか、と私は思います。

それは複数の文字に関するルールとして明文化でき、正しいこと、正しくないことが判断できることがほとんどである、という点です。そこに個人の意思は関係なく、限りなく純粋な情報媒体として機能しています。

「お互いの言語がそのままでは理解できなかったとしても、翻訳を掛けたら理解できる」というのはそれに拠っています。言語機能は本質的には言語に依っていないのです。

すると「テキストにはがあるのか?」を考えると、確かに、その「ルール」と「世界に纏わる明確な情報」という成分が出てくるのだと思います。

 

明確であることの大事な理由は、その人間の眼を通して初めて判別できるものがあるから、だと思います。世の中の物質というのは所詮原子の集まりでしかないわけで、例えばコップと水の境界はどこにあるのか、というと結構難しいんではないかと。

「人らしいものの見方」というのはやはり人の遺した情報からしか得られないのでしょう。逆に言えばそこから精度良く「人らしい視点」が復元できることが現に示されています。

さて、そして大事な「ルール」という成分。これが興味深い点です。論理はどこから来るのか。

論理性の興りがどこにあるのかは知りませんが、現代の数理論理学の基本は「当たり前の推論を組み合わせて、巨大な推論を組み立てる」ということです。

そしてそういう「部分的整合性によって全体の整合性を生み出す構造」に最も一致しているのが「文章」です。文章を理解する (次に何を言うかを予測する) ためにはその論理性を獲得しなければならない。たしかにそれはそうです。

なんやかんやでうまくいっているその理由はもちろん私は知りませんが、まぁ文章予測ができるようになったら論理性を得るのは確かにわかります。

 

しかしそれは完璧には程遠いです。もちろんそれ自体は悪いことや問題点では無いのですが、なかなか「論理性」と呼ぶには難しい点が見受けられます。

1つ興味深いのは「反省をしない」という点。世の中の文章はなかなかうまく反省できているものってそんなに多くないかもしれません。何故なら、その為には一度間違えなければならないから。

間違ったことを認識し、次にそれをしないようにする、というのは一切自明な行為ではありません。

その理由として、「何かをするのはできるかもしれないが、何かをしないことはどうすればいいかが明白ではない」という点があります。

「車に轢かれそうになる」のを反省したら「赤信号で渡らない」という推論ができるかもしれませんが、それは同時に「どうしても渡らないと間に合わない」ケースと競合します。これは昔のSF小説ありがちみたいな話題でしょうか。

そういう意味では「正しいことをする」というのはとても論理的な行動なのかもしれませんね。

一応反省させるための枠組みをやろうという取り組みはあるようなので、まぁこれに関しては時間の問題なのかもしれません。反省をちゃんとできるようになったら、面白いことになると思います。

 

もう1つ気になるのは「記憶領域の限界」です。既に膨大なメモリとニューロンを与えられて動いてるはずですけど、それは本当の意味での「メモリ」を使えてないはずです。

文章の上ではそういうメモリを参照する行為が当然無いので、無理矢理にも (無いメモリのまま) 続きを予測しようとします。しかし、その行動は「本物の論理性」に基づくものではないでしょう。

私達人間は外部装置を使い、正しいかどうかを何度も確認します。確認することができます。そうしなければ、正しいと自信を持って言えないから。

まぁもしかしたら「反省」がこれを解決するのかもしれません。つまり何度も自らの出力を読み直し、おかしいところが無いのかを自発的に指摘するようになったら、また状況ががらっと変わりそうです。

本当に外部装置を取り付ける方向もあると思いますが、そうじゃないほうが将来性があっておもしろそう。な気がする。

 

そういえばなかなかこの「反省をしない」というのはグロテスクだなあ、と思いました。その異様さ、本当に人にそっくりです。

計算間違ってるよって言っても同じ計算をしてしまうのは不思議です。「間違っている」という言葉の意味をちゃんと理解していれば同じ結果になってはいけないことが明らかなはずなのに。

"次の"論理性はそこにあるのかもしれませんね。

 

さて、自然言語によって十分な論理性が発揮されているところですが、しかしそれは人工言語であるプログラミング言語には敵いません。何故ならルールが明らかに定まっているからです。

特にプログラミング言語には自然言語にはない面白い性質があります。「検証可能である」という点です。これはプログラムを実行して結果を確認するという意味ではありません。

プログラムの一部分一部分はまさしく「明確な情報」そのものであり、それらをまた繋がれて出来たプログラムは全体が「明瞭な情報の集合体」になっています。そこには意味しかありません。

だからもっとも反省に向いた環境なのです。だからみんな積極的にエラーを出せる。ちゃんと怒ってくれるから。

これの行き着く先は「証明」です。数学の証明はまぁ自然言語で書かれていたりはしますが、かなりシステマチックな書き方になっていて、まぁプログラミング言語として表現することも可能なものです。

その「検証」という行為をちゃんと実現できたなら、きっとAIちゃんはもっといろんなところで使えるようになるんだろうなあと思います。

それはもう人間のほとんどが出来ていないことだから、ほとんどの人は要らなくなるかもしれません。

でもきっと「証明を思いつく人」はまだ必要なのかもしれません。

 

楽しいこの世の中、こういう適当なことを考えるのはまぁ楽しいです。が、生産性は無いですね。

そんなこと考えるよりは素直にAIちゃんにアイディア教えてって言ったほうがいいです。

 


 

もうちょっと普通に歴史的な意味の言語についても書きたかったんだけどそれはまた今度にしますね。