これは日記です。
5/6にディズニーランドに行ってきました。たのしかったです。
いろいろ見てきて思ったこととかを書きます。
元々行くときに「境界を観に行きたい」と思っていました。「夢」と「現実」の境目、「できたこと」と「できなかったこと」の間です。
消火器はそれなんです。
— phi16 (@phi16_) 2022年5月6日
即ち「置きたくない (景観を損なう)」けど「置かなければならない (法に則るべき)」。そして、「隠したい」けど「見つからねばならない」。
如何に「自然に溶け込ませ、それでいて発見したいときには発見できる」ようにするか、はそのまま「力」の見せ所だと思うんです。
色々な溶かせ方を見れて大変よかったです。
このような「境界」は細かいところを観察すると見つかります。消火器はそのきっかけとして良くて、眼の動かし方の指針になるのです。
そうやってのんびりと世界を眺めていました。
しかし、あまりおもしろくないということに気づきました。
これは考えたら素直に納得しました。ディズニーランドはもう殆どが「夢」に成っていたのです。
即ち「現実」が消えた世界を目指した結果、「現実」は確かに消え、それによって「現実に備わっているディティール」も全て消えていたように見えました。
「自然」に置いてある柵、岩、なんであれ全てが「夢の物体」なのです。「描かれたもの」だけで出来あがった世界なのだと思います。
触ってもその質感は「実感」を伴わず、それらの配置には「生」が無い。全てが絵で出来ていて、物と物の関係性即ち「構造」が一切入ってないのです。
構造の無い世界です。
だから、観察し甲斐が無いのです。「見たまま」しかないから。
世界の観察ができないので、アトラクションやショップに行くしか無かったのです。そういうシステムなんだと思います。
しかし、これは私の信念の一つであるところの「構造を入れると良くなる」ということに真っ向から反しているコンセプトです。
だけどここまで「良い」評判があるということは「構造の無い世界も良い」ということです。この差は何か。
って思って、まず、基底現実とバーチャルという差があることを思い出しました。
その上で昔ぼんやり考えていたことがある程度矛盾なく成立しそうだと思ったので、もうちょっと書いてみようと思いました。
即ち、価値観の反転です。
私の制作における哲学の半分が、「モノとモノをつなげること」です。
即ち何も「つながって」いない2つの物はお互いに浮いていて、その間を「つなげて」あげることで相互に存在を提示することができるようになる。実在性が高まる。
しかし、これは全てがつながっていないことを前提とした信念です。
対照的に、基底現実では自ずと全てがつながっています。だから、つなげることそのものに価値が生まれないのです。
隣に置いたら影が落ち、長い棒は柵に寄りかかり、紐を引いたらベルが鳴る世界です。
では何に価値があるかというと、つながっていないことなのではないか、と。
他者と干渉してしまう環境から逃れて「演者と観客」という構図を作り出し、日常を過ごす家から離れて「非日常の遊園地」を立て、俗世の常識から離れて「自らの信仰」を祈る。そういうものに、この基底現実では価値を与えます。
「絵だけで出来た世界」は、当然多大な価値を持つものなのです。
そのコンセプトを立派に掲げて実現するのはめちゃくちゃすごいと思います。めちゃくちゃ。
2つの異なる世界をシームレスに繋げるよりも、間にあからさまな「境界」を引いてしまった方が「おもしろい」のです。
店には「本当に実在するお店」としての実在性ではなく「描かれたお店」としてのロールだけが期待されているのです。実在してほしくないのです。
結局みんなそういう「夢」を求めてきていて、「現実」を探しているのは私だけだったわけです。
ちゃんと合意形成があるわけですね。
「絵」であることは実用上良い面も多々あって。
視界の半分を占める地面が唯の平坦な板で良い理由は、やはりそこが「描かれていないから」ですが、それを「見えない通り道」として扱うことができています。 外見的に異なる複数のお店をくっつけて「大きかったことにする」ことができます。 虫は (世界観的に) 居てほしいけど (現実的に) 居てほしくないので、音で表現するという選択肢をとれます。 歪むべきでない柱を積極的に歪ませて、速度や大きさの表現に流用できています。 外界のディティールに気をとられることなく、アトラクションへ自然に意識を向けさせることができます。 何よりも各施設が既に「絵」として出来ていて、それぞれの世界観を干渉させずに同一区画に収容することができます。
確かに、これは完成された「夢」なんだと思います。
それはそれで良いものなのだと思いました。
だけど、バーチャルで制作をやってる側としては、これと真逆の状況が起こっていると思うわけです。
即ち、「置いただけでは何もつながらない」。それは「つながっているという信頼がない」という意味合いを含みます。
だから私たちはライティングを統一し、ライトマップをベイクし、インタラクションによる相互作用で以て「つながり」を示しているのです。
そうやって「世界に構造を入れていくこと」が私達の制作における1つの指針であると思います。
何もつながっていない「夢の世界」は最初からあるので、そこから離れていきたいのです。
基底現実では「非日常を求めていた」ことに対して、バーチャルでは本質的に「日常を求めてしまう」のではないかと思うのです。
それで良いんだと思います。
その点、サンリオピューロランドはなかなか面白いところにある気がしていて。そういう夢への執拗な渇望はあまり感じなくて、わりと俗世と地続きな印象があります。
「おもしろいならやる」みたいな感じなのかな。ちょっと言語化はできてないですが、なんだか世界の落ち着きを感じます。私は。
そんなこんなで納得したような感覚になった私ですが、ふらっと立ち寄ったお店でゴミ箱を見つけました。
ゴミ箱のミニチュアのゴミ箱かった!!! めちゃうれし pic.twitter.com/TONOmyXewq
— phi16 (@phi16_) 2022年5月6日
パーク内にあるゴミ箱の装飾を模した、家庭用ゴミ箱です。NEW ITEM (新商品?) らしいです。
これ、文字が一切入ってないんですよ (底面にはロゴあるけど)。キャライラストとかも無く、ただ純粋なゴミ箱なんです。
それが商品として立派に (いっぱいあったんです) 売られているということは、この「このデザインのゴミ箱がディズニーランドで利用されていたという事実 (=自ずと生まれてしまった構造) 」にも価値があると認識されている、ということだと思いました。
だからかなんだかバーチャル的な感覚があったのです。「在るから複製できる」とか、そういう感覚。
なんだかすごいうれしくなっちゃって。そういう観点が本当に意味あるかはさておき、私はすごいうれしかったので、それで良いと思います。
世間的な価値観そのものがだんだん変容しているのはそうなのかもしれないです。そうだったらおもしろいな。
なんかもうちょっと書くことあったような気がしますが、眠いし思い出せないのでとりあえず終わります。
少なくとも前から思っている「バーチャルにおける『良さ』の方向性は他分野と全く違う部分があるのでは?」という問題提起に対してちょこちょこ面白い案が出てきたのでよかったです。
だから、バーチャルにおける「アート」はまだいろんな分野が残ってる気がします。
いっぱいいろいろかんがえていきたいです。
おわり。