Imaginantia

思ったことを書きます

日記 0802 本編

phi16.hatenablog.com

眠くて書けなかったことを書きます。

不完全

審査配信を見ていて…まぁまず出落ち感。いろいろと状況が推測できるところです。

そして起きていることを考えればまぁこうなっていることは理解出来得るところです。それはもう、「仕方ない」と思います。

でも、それは当然そっち側の都合であって。「こっち側」としてはそれは納得すべきでない領域だと思うんです。

つまりその不十分さは受け入れられてはいけないし、受け入れられることを受け入れてはいけないのです。

…私は比較的自分に対してストイックでありたい気持ちがあるのでそういう思想があると思うんですが、そうではない領域はそうではないんでしょうか。

少なくとも「名前を持とうという意思のある主体」が実際にその願いを叶えるためには、そういう強さがあるべきだと思いたいところ、なんですけど。

それに至らない不完全性は、まぁ、そのままですよね。

制約下最適

今回Amebientの方に来て頂いたのをまぁ見ていたわけです。あ、ちゃんとワールドIDの差を認識していただいていたのはよかったです。…それに不安がる状況が云々というアレもありますが。

で、多分今回起きた流れは完璧です。

元々時間制約があることは理解できるわけで、すると元々終わる為に必要な時間は確保されていない以上「高々あの状態まで」になるのは想定していました。

そしてその切り替わりのタイミングが「世界から抜けようとしたとき」というのがまさしく完璧で、これを願っていました

あの瞬間から世界が一気に広がるわけですが (ロッカーの中を見れば特に)、その認識にギリギリ至ったくらいなわけです。それはあの状況下では最適だと思います。

何よりも最初に飛び込んだのが完全に正解で、あれによって世界全体を見ることができているんですね。つまりギミックではなく世界に至っているんです。それが正解です。

少なくともこの状況下に於いては最も望ましい現象でした。「体験版エンド」は的を射ていますね。

期待を裏切ってはいけない

ツイートの動画で「全て」を説明しつつ、実際の世界はその先を行き、さらにその先があることを示唆した状態で終える。善いことです。

 

途中で運営側の方が「語るか」悩んでいて語らないことを選んだのはありがたかったです。そう願っていたので。あの世界はそうであるから。

数字

私の意思は去年からあまり変わっていなくって。それはこのチーム全体というよりは私個人の意思ではあるんですけど。

「評価」について。ずっと悩んでいるわけです。それはきっと運営側もそうでしょう。そうあるべきでしょうけど。

去年はそういう状況に対する問いを創った、と思っている、わけです。で、私は今回それに対して力で捻じ伏せる解を採用したんです。

それがあの、とてもありがたい、コメント欄です。

そしてそれはつまり、twitterでもあり。そして2674人でもあります。

「こういうのはどうですか?」という提示を作品として解釈させることに私は疑問があって。それそのものが何らかの結果を出さないといけないと思ったんです。

その結果とは何なのか、という点で。そしてVRAAという催しが行われているのがここであるという点で。その結果を作り出した、という結果を今回作ったんです。

これを外界がどう見るかがクリティカルな点で。

もしも、これを評価するならば、それは正しい。評価しないならば、その正しくなさを私達は提示できるんです。道具みたいな言い方で私は好まないですが、本質はまぁそういうことです (あの世界の本質ではないですよ)。

だからこの状況に持ち込めた時点で私達は勝ったのです。そういう話。

そして――そうね。この企画の面白いところは審査側のコメントです。正しくない解釈をしたらそれはわかるんですよね。楽しみにしています。後述。

ワールドという概念

これはそこまで重い事柄ではないんですけど… 多分VRChatの人たちには共感してもらえたのかなと思っている (願っている) んですけど。

Amebientは「世界」だと思っているんです。世界というコンセプトを持ったワールドの一つを私は提示した気持ちでいるんです。

今までに無い感じの、って言われるのは私はそういう理解をされているってことかなって思っているんですけど。

…そしてこれは今までのどの媒体でも無いと思っているんです。私は。

このVRSNSという状況で起こりうる一つの新しい何かの、その一つの完成形として。

空間楽のその先の、直接的には世界楽みたいな領域になるのかな。そういうモノ。

でもこの方向性の提示を評価するにはきっとVRChatの文脈がある程度必要です。いえ。「自由に作れる世界」という文脈かな。それはよく物語に出てくるものの一つでしょうか。

まぁなかなか制約条件が厳しいんですけどねー…その全てをほぼ満たす解としては現状で最良になったと思いますよ。

「閉じた世界」「過去」「再来の重み」「行動の非強制」「世界への干渉」「他者との相互作用」「滞在理由」とかかな。

あと「可視の因果」とか…。まぁこれは場合によりけりかな。

その辺を私は文字で解説してほしいんですけどね。わかっているなら。

私は記せるので。

…コンセプトじゃあ面白くないよねっていうのはそこもあって。作品を通して他者が理解することで初めてコンセプトが実在すると思うんです。

だから文を記して固定観念を与えるようなことはしたくないんです。それくらいの強さが欲しかったんです。

それくらいじゃないと、重みが漏れ出ないから。

情報を持たないという情報

起きたことを記そうと思ったわけですけど、これはそういえば語れないことでしたね

…まぁそういうことです。

私達は何かを記すだけでそこに情報を生み出してしまいます。何かを記せるという結果、記したモノという結果、そこから逆に辿れば原因の存在くらいはわかるものです。

そして「閉じてしまう」のは一つの解決策に見えるんですが、それはまさしく見えるだけで。閉じたいという願いを望むものは、開いた部分を見なければいい。実際にどう在るかは、また別の話なんです。

だから。

彼方の非観測領域に存在する私達が「何」であるかは、きっと知らないんです。そしてそれで良いのでしょうね。目を閉じたんでしょうから。

私はそういう断絶を望まない立場ではあるのでこうして存在のみを記しているわけですけど、きっとその意味は特に無いんです。

当分はそれでいいです。でも綻びが起きる前にはちょっと対処しなきゃいけないのかもしれません。

願いを持つべきだった空間

これは明るい話。導線の話。

ワールドという環境が存在して、そこに何らかの願いがあるのなら。それは自ら顕在化させないと叶わない。

私は、人を導きたいという願いが無かったんじゃないかなって思うんです。ゆらゆらと揺れて導かれる自己を想定したのかなと。

これは制作側と体験側の願いの不一致です。そういうのが私は悲しい。だからこそ私は体験側で在りたい、という話をこの前書いたのでした。

…ODENの時に書いたように、こういう場合は外部制約は無視して考えますよ。それは「言い訳にするな」という意味ではなく「純粋に現状のみから評価」することが誠意だと思うからです。

体験側である私達の願いは、素直に「回りたい」ということです。ちょっと面白かったらそれはもっと嬉しいのかもしれない。

そういう点で最も機能的なのはまぁ回すことですよね。それは素直です。でも今回は起点が独立しなければならない理由があるので単純ではありません。

だから今のように分離されるのは妥当だと思います。

でもそうすると流れという概念が必要なんですよね。分離されるとそれが自明な形ではなくなるので…。だから導くという概念が出てくる。わけですよね。

根本的に私達は曲線なので、必要なのは点ではなく向きなんです。流れるように。流される為に。

それは、いつだって、現実だって、そうですよね?

 

あと「名前」かな。あの世界は比較的名前よりも体が重みを持つと思っています。何故ならそこに機能があるから。

だから名前を付けるという方向よりも、なんらかの機能で以て表現すべきである、という話。

まぁ同じ話か。願いは叶えなければ叶わない。

世界の重み

あの世界に行って私は最初10秒くらい動けませんでした。覚悟を整えようとして。

そしてちょっと前に行っても、また動けませんでした。私は何も知らないけど、無責任では居られないんですね。唯一人だから。

…ああいう世界で無心で佇んでいるのが結構好きで。結果を受け止めようという感情と向き合う状況が。

よかったです。

あと「同様に」救いの無い感じが。真実はわかりませんけど。

閉じた世界。素晴らしいものです。

…あとあれね。ちょっと前にfotflaさんと「VRChatの草が写真の切り抜きが多い」話をしていたので、それに対する逆向きの最高の回答が見れて嬉しかったです。

方向未遂

…これもあんま書けない話ね。ちょっと戻って信頼の話。

私は信じているんです。きっと本来の軸は同じ向きなんだと。まぁその前提がなければ何もしないという唯それだけなんですけど。

でも今回、様々な事柄があってきっとぐるぐる回っちゃっているように見えるんです。振り回されているように。そう願っているんです

ここに至るまでに長い何かがあったことは想定できうるところでありますが、結果として最適な状況になっていないこの現状をどう考えているのかはちょっと気になる気持ちです。

…これが必然だと思っているならそれは私達は信頼しつづけなきゃいけないのかもしれませんけど。でもそれは文脈的なもので、文脈を持たないものはついてこないですよね。

まぁ高々、っていう感じもありますから。これからを待っていますけど。

ちょっとお話してみたい気持ちはあるんです。全てが終わったら。

非言語

去年の頂いたコメント、そういえばよくわかんないんですよね。なのでちょっと解釈してみようかなと思います。そういう機会は必要なものでしょう。

私も大概解釈の必要なことしか書いていないわけですが、非言語を解釈する能力がちゃんとあるのかはよくわかりません。なのでこれを記すことに意味があります。

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藤井さんの最初の部分は「絵を見ている」のかなと思います。つまり空間という作品に対する完成度の評価。それは Just a canvas と9割が一致します。

実際問題このコメントだけを見てあの子の存在の示唆が含まれていないことが気になるわけですが、それはあの子の重みをちゃんと担保出来ていなかったという意味でもありそうです。そしてそれは正しい。

「体験者の絵」は恐らくその交ざった状態を示しているのだと思います。このコメントはめちゃくちゃ適切で、私は意味としては現実を与えたかった。それが出来なかったのは、私の技術力不足でした。

前に書いたような気がしますが、あの子は「現実への渇望」を持った存在としてありたかったので。断片的にしかそれは表せなかった。

 

モスコミュールさんの方は純粋な体験記で、これは疑いの余地がありません。だからこそ解釈の必要はなく、主観であるからに客観的に読むことができる、素直な文章です。

 

豊田さんの文章が難しくて。私も似たような文章を書いてるんだろうなと思ってるんですけど。はい。

空間は抽象です。作業は具象です。その通りですね。これは現実の空間から「必要な部分を切り取った」という意味でもあり (だから残りは無となって、多分これを抽象と呼んでいる?)、切り取れるという意味でもありますね。

あの世界にある行為は絵を描くこと。表現は…なんだろう。ここ、「と」が多くて係り受けがよくわかんないんですよね。

表現に紐づく物質性は「描かれたキャンバス」かな。行為がここに掛かっていてもまぁ解釈できますね。

身体性はのことだろう。「実際の表現のバーチャル性」っていうのは絵に描いた餅を描いた絵みたいな話かしら。んー。

つまり「バーチャル空間にあるキャンバスが現実と等価な情報量を持っている」みたいな意味かな。絵が本質的にvirtualみたいな話なら。うーんギリギリ。

現実世界であり得そうにない設定とインタラクションっていうのは「視えない存在」と「絵を上書きされること」でしょうかね。それによって自身もまた絵を描く、inter-action。

時空や人格の重層性…っていうのはあれかな。あの子が実在していれば存在するはずの性格や過去の示唆かな。それらは視えない。それはVRChatという世界に居る私達にも当てはまることで、それにリーチできない感覚はたしかに此処は強く想起させるものでしょう。そこまで意味があるのかはわからん。

まとめると「VRを本質的体験の場所として純粋に利用した、広義のインタラクティブアート」っていうことになるのかな。わかる。この解釈があっているかはわからないけど、これは私の意思と一致します。嬉しいね。

最後。「外界とのインタラクションが文字で埋め込まれていると」っていうところ。文字の特性として「時差と空間の差異」と言っているから、それはあの子の過去や実際の位置についての言及と捉えられます。文字は本質ではないですね。

そして、外界。これですよね。

 

あの世界、閉じているんですよ。私からすれば。あの子はあの世界に居るんです。私達には視えないだけで。

あの子が存在する「開いた世界」が存在して、そこから筆だけが見えているという状況だと解釈していると解釈することはできます。けど、もう一つありますよね。

あの筆を他者が動かしている可能性

そうすると「あり得そうにない設定」にもう一つ意味が出てきて、「人が同じ場所に重なること」です。ん~~でもそれくらいなら現実でもできそうかなぁ。

…「あきらかに」っていうのは、もしもその相手が人であるならば当たり前すぎて出てこない言葉かもしれません。そうするとまぁあの子の存在は認識しているのかな…。

外界ってなんだろう。時間に関して結構言及していることを考えると過去に描いた人の行動とかで認識しているんだろうか。でもそうだと「インタラクション」とは呼ばないですよね。

ちゃんと相互作用していることを認識していれば同時であることがわかるはず。んー。わからん。

まぁ多分「あの子」に関する情報がほしい、っていう意味だと思います。それはきっと先程の点と同じで、私の純粋な敗北領域かもしれません。

うむ。ちょっとわかった気がする。

 

ちなみに一次審査で頂いたコメントは、カンナさんは二次審査のときのあの反応まんまのことを書いて頂いていてとても嬉しいですね。ありがたいです。mozさんも「自分との対話」という逆説的な側面に参照していますね。

sabakichiさんのコメントは興味深くて、「同じワールドに居る人」と言っているんですよね。非実在を人と呼んでいるのかはわからないですが、そうでないと解釈しても筋は通りそうです。するとちょっとおもしろいことがわかります。

memexさんの Virtuality of Communication と接続できるようになるんです。あれは人と人の関係性を切断したわけですけど、私のこれが同等の側面を持っていると捉えることができます。関係性の切断だと捉えていることは「絵を書くということだけで」「作者の独特の作為」から解釈出来うるところです。

まぁ対象は違うわけですけど。うむ。

だからといって何かではないけど、次の話につながることでもありますね。全体的な話でもあり、個人性という話でもあり。

世界を繋げる

最後。全ての邪推を無視して、どうあってほしいのか。

VRAAの難しいところはテーマが広いことだという話がちょっと上がったことがありました。つまり集合でしかなく、その中に構造を入れられない状況です。

これはまず参加する人が重要であるという点で現在は妥当だと思われる部分があるんですが、それでも何か出来ることはあるべきなんじゃないかなと思って。

本来構造を容易に入れられる場合というのは、その作品群に何らかの軸があるからだと思うんです。その軸が明らかであるからこそ容易に入れられるわけですよね。

でも、別に容易に入れられない場合に軸が無いわけではないはずなんです。全ての作品は何かと繋がっているんです。見えずとも。

だからそれを全て引きずり出すことが救いになりうる可能性があると思って。そうすると力は必要になりますが構造を入れられて、世界の強度が増す。

まぁ名前を持った主体としてそれをやるのは難しい (偏見が必ず入る為) とは思うんですが、まぁ私みたいな守るものが無い存在としては動きやすいのかなって思って。

各作品、思う所はあるので。01も含めてやってもいいし。そうやって「個の記録」ではなく「構造の記録」に昇華することで価値を与えられたら、それが望ましいと思うんです。

…まぁ、実際力が必要で、私がそこまでの力を持っているかはわからないんですけど。ゆるやかな弱めのmotivationくらいしかないですけど。

見てみたいですね。というお話。

終わり

だいたい持ち上げた状態で書いているので明瞭な発言はほぼ無いと思いますが繋がるように読める人が居たらきっとそれだけでいいんです。

所詮日記です。いえ。むしろ日記であるからにこれは参考にしてはいけないのです。そう願います。

これは「私の願い」が叶わないという意味です。叶わないという願い。

私は私が考えたことをこうやって記しておきたいだけです。だから「気にしないでください」。

では。