願いの話を書きます。
様々な媒体において世界創造が成されてきた現代ですが、それらはその「媒体」としての認知が殆どだと思います。
物語が描く世界はあくまで「物語世界」です。その領域を超えることはありません。だからこそ娯楽として解釈されてきたのだと思います。
その状況を少し変えかけたのがきっとゲームで、ゲームという媒体は「プレイヤーが実在する」為に世界の壁は少しだけ薄い。
ただ、その壁の薄さをわかっているゲーム、というのは逆説的に壁を強く顕在化させる効果を持ってしまいます。
一番「境界の無い世界媒体」というのは、世界構造に依存しないもの。つまり表現対象が哲学である場合など。ということになります。
でもこれは世界を描かない。
結局の所、何をやっても切り離された世界を観測するのが限度だったと思うのです。
しかし、この状況を変える可能性が存在しています。私達の世界を変えてしまうことです。
即ち現実世界で物語を展開する。
それが出来れば苦労はしません。ですが、きっとこれはこれで、多くの人達がやってきたことでしょう。
寧ろこれが正史です。人は発生し、出来事を体験し、ある時終わる。そういうことになっています。
でもこの世界は…そんなに多くの物語を語りません。いえ。それは比較してこそ、ではあるのですけれども。
多くの人たちが現世を幸福だと享受する中、それ以上の世界を見てきた人はもっと強い願いに至ることができます。
「物語性が強く現れた状態で、現実世界を展開する。」
プレイスタイルに依っては実世界でも近いことは出来るんですが、そんなに簡単なことではありません。何よりもリスクがあります。
これを容易に行える媒体が、今、実在しています。
そうやって動いているこの世界には、「能動的に描く存在」は居ません。
だから全体が、存在しない描き手の意図を汲むように、流されていくことで世界を形成しています。
それが、それこそが「実在性」であり、「現実世界」で在れる根底です。
私達は全てが主体性を持った媒介であり、「つながる」ことだけで以て構造を成しています。そこにそれ以上は要らないのです。
この異常な主体性を伴った媒体が、この形態のまま、進んでいくことを私は祈っています。
祈っていました。
この場所に、「描き手であった者」が来たとき、多くの者が行ったことは「描くこと」でした。
造られた世界であることを前提として展開する。それはそのまま、これまでの媒体と同じ道筋であり、手を出しやすい領域です。
だからこそ弱い。
美しい絵画は鏡の情報量に勝てないのです。
無意識に張ってしまう壁の無い人が、今まで何か作ってきた人ではない人の方が、「良いモノ」を作れることがあるのです。
本当に必要なものは、唯「在らせる」ことだと思うのです。事実にするということ。
コンセプトではなく、そのモノそれ自体を。
こんな世界を描くというのではなく、その世界をこの場に展開する。
それが、この「媒体」でちゃんとしたものを作るための根底ではないかと思っています。
私達に必要なのは「設定」ではなく、「そういうことになっている」という事実です。
入り口のない家が、逆説的に世界を強くすることもあるのです。何故なら、入り口は必須ではないのですから。
この「事実にする」という能力は、「描く」能力とは少し離れているところにあります。
当然具象領域では強くつながっていますが、抽象では、即ち思想としては全くの別物です。
根本として「描くと主体性が失われる」という点があります。だから自分の「強い願い」は現れてはいけない。
無意識に導かれるように、世界そのものに流される形で「事実を作っていく」必要があるということです。
その無意識に自己を差し込むことで自身の望む世界に向かわせる、のです。
そうやって出来た世界が、きっと居心地の良い世界と呼ばれるのです。
造り手にはわからないかもしれない。でも世界に棲む者にとっては、わかってしまうことなのではないでしょうか。無意識下だとしても。
その意識の差はとても強大で、とても怖いもの、です。だから「この世界に無意識に棲まう者」でならなければいけないと常々思っています。
まぁ、これを意識してしまうとダメなんですけどね。でもそれを含めて、こういう構造をしているように感じます。
結局のところ、「これまでこの世界で創ってきた人たち」が何であろうと一番強いという話です。
これからどうなるか、わかるものではありませんけれども。
誰かが自身の手で「造られた世界」を創ることは否定しないけれども。
「造られた世界」を創らせることは、しないでほしい気がしています。生がもったいない。
みんなで「創りたい世界」にしていってほしいものです。
この世界が良い方向に広がっていきますように。
そして善い物語が生まれますように。