今日は楽しかったですね。元気です。
某所の「上にスピーカーがある様子」、なんだかものすごい納得感があった。こう、こうだよなっていう感覚があった。
いろんなところの音響系、指向性が強かったり減衰が強かったりみんな個性的だと思うんですが、私が一番好きなのは間違いなく彼処でした。
まぁテーマがずるいって話は…しましたね。反響するので音を広げちゃって良いというのもあるし。
何にせよ良い空間が見れて嬉しいです。うまくいったら本番も行きたいな。
そういえば坊主さんのアレを見てコレを思い出した。
某、狐狗狸さん出来るじゃんって思って描いたはいいものの怖くなってやめた
— phi16 (@phi16_) 2019年7月17日
まぁそれはおいといて。
これぶいちゃで思わず言っちゃったからここに書くけど。
まず符号は通信路に合わせて設計される。morse codeがあの形態を取っているのは「時間軸に対して二値を送れる通信路」が存在していたから。
そして符号の性質は通信路の性質によって決まる。情報欠損を防ぐためには文字だけではなく空白の長さが重要なのです。そのはずだったのです。
もはや文字として送れる世界には、その符号の存在価値はない。
では何があるか?
つまり、アレは「常識として読み取れる情報量を含んだ媒体による効率の高い情報交換方法を捨てて行われる非合理な符号化によって読み手に過剰な負荷を掛ける行為」以上に何があるのだろうか?批判じゃないですよ。
まぁjacwyfはそれに対して正解には近いんじゃないかしら。キャンバスという通信路で制約された世界だから情報通信にはある程度見かけとしては非合理的な行動を取らざるを得ない、というのは納得できる話です。
とは言え英字で良いのだけど。morse codeは必然的に英字の文脈 (どころか現世での符号化の歴史の文脈) を引き継いでしまうのでそこまで広げちゃっていいのだろうか。
あ、そういえばmorse codeは通信路に流れるときは二値ですけどあの表現は二値じゃないですからね…。空白を入れて三値です。長さを適切に測る場合は別。
…まぁ。考えることは色々出来ますから。
この願いは、一般には「何かを材料にするときにはそれに詳しくなければならない」という言葉で知られていると思います。そうありたいものです。
良い解を。
こんなんだからめんどくさい人になってしまうんですよね。わかります。
昔からよく思っているのは私達の使う10進数も日付に現れる数字もその他全てなんでも、結局は人類の生きてきた文脈に過ぎないということです。
これが私が誕生日に固執しない理由だと思います。誰かの都合で365日と決定された結果に従うことは自由なんでしょうか。まぁそれが自由なんですけど。
「桁」という概念は10進数に依存しています。文字として表記したときにある数字が現れる、とかも勿論そう。10は必然的にそれだけで「人」を指し示します。
まぁそうでない領域もあるわけですけど、その多くは別の文脈に依存してますよね。「2」っていうね。
はて。無文脈への道は長いです。
そういえばこれは所謂四元素とか五行とか六根とか云々にも通ずる話で…。ああいうのは「数を定めたい」という邪念ですよね。いえ、それは愚かな人の営みとして純粋ではあるんですが。
ちなみにこういうコトを抜かなければ無文脈にならない、というわけではないと思うんです。単純に全て再構築すればそれは文脈に依存せずに済むのですから。
なんであれ大事なのはこういうのは「私が」「私に対して」課しているだけなので他の人に対しては無害でありたいと思っているということです。
所詮一側面ですから。
そういえば、やっぱりその点でもあのワールドは好きだったんです。いえ、それが自然であるからこそ、ですけど。
ねます。またあした。おやすみなさい。