Imaginantia

思ったことを書きます

日記 0331

今日はいろいろがあった日でした。

おかいものに行ったりしつつでおそとに出ていたんですが、こう、人類は生きてるんだなぁということを考えると悲しくなったりしてました。

もうちょっと具体的に言うとあれです。「ちゃんとしてる格好」をしている人たちを見るとそういう人たちは何を思っているんだろうみたいな気持ちになってました。

私は完全にダメな人間で、こう、「ちゃんとしてる」的なのめっちゃ嫌い…というかなんかこう、無理。無理です。

きっとその根本になんか理由があるような気がしますが、まだそこまで到達できてはいません。

人々はこう、それの持つ重みを受諾して身につけているんでしょうか。それともそういう語を聞いて唯従っているんでしょうか。はて…。

まぁそのときはだいぶなんか私がダメなんだろうなみたいな意識があったんですが、そういえば今日とある某に行ったときには逆の感想を持っていました。

即ち「正装で無くて良い場における、自身で選んだ美しい正装」。それはその個の現れ、ですよね。ね。

ゴスロリ系多くてありがたや成分ありましたが、それはさておき所謂正装的なものをお召しになられてる方が多く、それらに対しては純粋に素晴らしいなという気持ちです。ゴスロリもほぼ正装だしな。

結局は多分「個」が好きなんでしょう。個を失うことが何よりも怖いです。そして個を失っている人が怖いし、個を失っている人がそれに関して無自覚であることが怖いです。

「それがそうなのだ」という言をよく見かけますが、それは勝者の理屈であり、歪みそのものかと思います。まぁその歪みに無自覚であることこそがこの社会でもありますが…。

電車でこう、謎の物体 (プラスチックの板?) を頭につけた人間を観測するなどしましたが、アレはあれで個を持っているんですよね。異常者ですけど。きっと自分で選んでああなっているんだと思うから、そこに関しては何も選んでない人よりも「良い」ように思えました。

自身の苦手なものに対してはある程度敏感でありたいですね。それが逆に苦手意識を払拭する可能性も秘めてるわけでもあります。

 

そういえば今日はおひるごはん?にミスタードーナツに行ったんですが、なんとなく初めていつもと違うドーナツを頼んでみました。

これによって新事実が判明しました。私はドーナツが好きではないみたいです。たしかに揚げパンは別に好きじゃないです。

ポンデリングがおいしかっただけみたいです。なっとく。

あとレモンティーを頼んだときのレモンのアレを全部入れるとすっぱいということもわかりました。学びです。特にこの学びはtwitterかなんかで見た憶えがあるんですが、やっぱり自分で失敗しないとダメだなと思いました。

というわけで苦手意識が顕在化したり構造化されてない知識の実地検証による深化が行われたりといろいろ良いことがありました。

でもまぁ毎回こんなことやってたら人類は暇が無いのではと思うんですが、世の中の人間は比較的そうではなさそうですごいと思います。すごいです。

お店で何かに並ぶ度に「ここでは私には何を期待されるんだろう」ということを考えてしまいます。文字通りではあるが一般的な意味ではないな。要はpromptの形式が気になる。

いつからかflexibleな応答が出来るようになった憶えもありますが、毎回そこそこの精神力と頭を使っています。analog的に解くべきなのにdigitalにやってる感じがします。

人類はすごいです。やっぱり。

 

で、まぁ。

どっかに書いたっけ…って思ったけどなさそうだった。SHA15記念祭です。5ヶ月前から楽しみにしてました。もっと言うと8年前なのか…。

こういう「形式」に対して思うことは色々ありましたが なんだろ。うーん。ここはある程度特殊なような気はしちゃうんだけど、きっと特殊じゃないものなんてないんだろうな。

でも色々と面白いですよね。観客はどうやっても「限り在るこの時間」の為に来てるんですよね。つまりその終わりがあるということを了解の上で両者やっている。

どんなentertainmentもそうだと思います。なんらかの「文脈」無しには私達は楽しめない。でもその文脈の組み立て方とか、解釈とか、まぁ色々と変えようがある点はあって、それぞれがそれぞれ特色ある様子なのではないかとおもいます。

そういう点でね、「こっち側」のライブというものもそういう文脈性をもっと「頼る」べきなんだろう…いや、頼ることになるんだろうな、と思った。それはもしかしたら形態…もとい名前を変えてしまうほどかもしれないけれど。

いやこれも形式の話だな。まぁ中身について言うことはそんな無いんで…。言えることじゃないし。

でも少なくとも彼処はこう、私の好きなタイプの異常なことをめちゃくちゃやってくれるタイプなのでやっぱり変わらず好きです。「選択を与えるならば、その代償を払わなければならない」。見事ではないでしょうか。

あ、普通に曲は好きよ。でも特に文脈を引き継いでくるのが好き。「喰らう」よね。そしてそういうときにちゃんと「ずるいことをした対価」を払っているのが好き。

 

最近何故かそういう「平衡性」のことを考えることが多いですね。全ての行動にはそれに見合う代償を払わなければならない。それは義務とかじゃなくて、同時発生的なものです。

「無償で誰かを助ける」ということは、相手に「負い目を課す」という副作用があります。それを防ぐ為に「誰かが偶然情報を目にしたことにする」という選択をすると、それは「相手から見られる保証がない」という副作用を持ちます。それでもなお「情報を公開した」という行動そのものに対して「その情報を見たことで変化が起きた」という因果を繋げてしまう副作用があります。

そういう平衡性はものの性質を理解するのにとても役立つような気がします。ビームライトも面白かったですね、「人を照らす」為には「光が見えてしまう」わけですが、それを許容できるとして再解釈することで現行の文脈を形成するに至った、のかなと。この場合は「文脈性」そのものがまた代償になっていますが、別にこういうのは良い悪いではないですからね。代わりに発生するというもので。なんかいい言葉あるのかもしれない。まぁ「対価」か。

この点において「光の筋を見せる為のビームライト」というのは構造を持たない「ふよふよした概念」になっちゃう気がする…というかそういう印象がありました。なんでいいのかよくわからんかった。今日やっとわかりました。私の成長です。

文脈化されたものは具現化に選択肢がいろいろ出てくるのでバーチャル向きだなと思います。とても。まぁその場合はその具現を選んだことに対する制約がきっと発生するんでしょうけど。


 

今日もまたお外に出ます。本当はこんな夜まで起きてる予定じゃなかったんだけどまぁ大丈夫かな。

そうしたら「おわり」、ですね。長い時間だったような、短い時間だったような。長いな。長かったと思う。

いろいろまた予定をやっていく感じです。

では。おやすみなさい。

 

今日のゴーストクラブくん、どれもおきにいりです。