Imaginantia

思ったことを書きます

「創作」

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これは建設的な話じゃないと思うんですけど。でも考えてしまうよね。


文字でも絵でも音楽でも動画でもプログラムでもゲームでも 創作というものの根本的な「仕組み」はきっと同一である。

『想い』を『現す』

この2つの要素はどちらも重要で、前者が大域的、後者が局所的なのだ。

創作というのは本質的に「自分の想いを他人に伝える手段」である。なお他人は自身であり得る――特に時の違う自己は明らかに他人である。 それが直接にはできないことを誰もが知っているから、それを表現することになる。結果として生まれたその中間媒体が創作である。 それは自身の願いを詰めた結晶になるわけだが、その構成過程は次である。

  • 自身の願いを理解し、増幅させる。
  • その願いを凝縮させて具象化する。

前者が「エネルギー」や「衝動」を担い、後者がそこから来る外方向への「表現」を生み出す。これが所謂「入力」と「出力」である。 創作を良くするには、「エネルギーの量を増やす」か「エネルギーから表現への変換効率を増やす」という内的な方法と、「外部から見たときの評価を上げる」という外的な方法があることになる。

\mathrm{\underbrace{\xrightarrow{Input}Desire\xrightarrow{Transform}}_{Internal}Representation\underbrace{\xrightarrow{Output}}_{External}}

エネルギーを得るというのは「意思の重み」を実感するということであり、そして一種の未来予知でもある。自分が将来完成させるものを把握する能力である。自分の願いはなかなかわからないもので、自身がちゃんと願いに沿っているのかとか、それこそ「正しさ」や「方向性」はこれが保証してくれる。自分の願いに沿わない創作を違うと言ってくれるのが意思の重みである。

それに対して表現能力というものは現状把握であり、今から進むことのできる小さな道の選択肢を提供するものである。大まかな方向がわかったとしても具体的に「今」どう進めばいいのかわからなければ意味がない。そして今ある選択肢がわかったとしても向かいたい方向がわからなければ意味がない。この2つは相互干渉しながら長い道を作り上げていくのである。

前者を成長させるのは「願い」そのものであり、これは外部からの入力に依る他に、自身から湧き立つものにも依っている。何かを見て「良い」と思うその気持ちを得たとき、それを反芻し自身の中で再構築する過程を経ることでさらなる重さに、そして輝かしい純度になっていく。これもまた能力であり、人はこれを成長させられる。だけれども、具体的にこれだけを測ることはできないから見えにくい能力であるのは確かである。人は願わなければ。

後者を成長させるのは「学習」である。自分の居る場所というのは実は非自明な情報で、ましてや行ける方向は熟練者がすぐわかるものでもない。何度も同じ場面に当たることで位置精度を上げ、進める小さい道の長さを伸ばすことが「練習」である。これは最も外部から観測しやすい能力で、事実として瞬時的な評価は往々にしてこの能力を測ることで行われる。これは工業的にはまったくもって正しい――誰かが願いを与え、それを実現する存在としての創作者という職業にとって最も必要なのはこの表現能力である。だが、それ単体では重みが足りない。願うことは非自明なのである。

意思を纏い表現力の備わった者の創作は質が高く、強く重く響く。これが最初の目的である「他者に想いを伝える」ことの達成となるわけである。


さて、では「外部から見たときの評価を上げる」のは何か、といえば一つが宣伝、もう一つが「他者の願いを受け入れる」ことである。意思は表現しなければ無いことと同じように、表現も観測されなければ無いことと同じである。根本的に「出力の矢印の対象を増やす」ことはその創作の評価を上げることに直結する。そのものの質が高いということとは全く別ではあるが、創作を受信するのは他者であるからこれもまた創作の本質的な部分ではあるのである。

それに対して他者の願いを受け入れるというのは、他者が持った願いを自分の願いに紛れさせて組み込むということである。何故なら他者は自身の持った願いを最も理解しやすいから、願いを合致させることで必然的に想いが伝わり、創作の評価は上がる。これは純度が低くなる行為に他ならないが、結果として影響力を持つのは確かである。この方向性を突き進めるのが所謂「一般大衆向け」に創られたモノたちで、工業的・商業的にこの選択は正しいのである。これはentertainmentの方向性で、狭義の創作というのはartの方向性だと私は思っている。強い願いを見ていきたい。


そうすると人々の立場の違いによって作品の評価が二分するというのは納得できる話である。芯となっている創作者の意思を取り出せる人と、創作者の表現に呑まれて終わってしまう人。評価もまた難しいものである。