これは前から思っていたことであり、感想文でもあります。
ここでは「媒体」という語を「創作されたコンセプトがモノと成って表現された、他者が観測可能な情報」を指すものとして扱います。
それは画像、動画、そして360°動画もあり、"CUEのような携帯VR" *1 もあり、当然VRもあります。
その表現力の話です。
媒体差
まず、大前提として私が"信じている"ことは、「媒体毎に異なる表現を行った方が、"良い"ものができる」です。
これはこれまでにも何度も何度も書いたことですが、これは、たぶん、あたりまえです。
良いことを認識する軸は媒体によって異なるもので、それは体験の次元が異なることから従います。
画像には時間がなく、動画には視線がなく、360°動画には視差がありません。これらはそのままメリットでありデメリットとなります。
- 画像は細かいところをじっくり観てもらうことができるが、強制的に時間を消費させる (体験時間 (=記憶に残す期間) を保証する) ことができない
- 動画は1フレームが一瞬で過ぎ去っていくが、動画の長さ分だけ「覚えてもらう」ことができる
- 360°動画は自由に視線を動かすインタラクティブ体験としての性質が付与されているが、「裏側で起きている事象」を観測できない
- VRは「空間」として情報を認識でき、最も体験的であると言える気がするけれど、動作環境を誰でも用意できるわけではない
誰でも観れるわけではない、というのは実は本質的です。媒体 (media) としての性質が異なってくるということに加え、限られた人間が持つ能力を流用することで更に良いものが作れる可能性があるということでもあるからです。PCスペックの話です。
さて、そして、鑑賞者にとっての利点と欠点は、製作者にとっては反転されて顕現します。概ね。
- 画像の持つ情報量は比較的小さい。それはファイルサイズからもわかるし、時間軸方向が存在しないことからもわかる。
- 360°動画はどこを向いているかわからないから注視させることが自明ではない (見せたいものを見せることが難しい)。同じ方向を見るだけになるなら媒体の意味がないが、体験者にとって視線を回すのは億劫でもありそう。
- VRではカットとカメラワークが自然には使えない。私達は「居る」ので、世界は断絶しない。
動画を基準にした言い方ですが、要はVRのほうが大変なのです。…正確に言うと、ズルができなくなるのです。
画像はパースぐちゃぐちゃにしても良いし、動画はエフェクトいっぱい出しちゃっても良い。それが媒体の利点です。
VRでは「空間」を作らなければならないし、それらはリアルタイムで描画させなければならない。これは媒体の欠点です。
「媒体の欠点を如何に隠し、利点を押し出した表現をするか」が純粋な創作物の良さに繋がる、と思うわけです。
ここで「純粋でない」というのは、「文脈」や「説明文」についての私の視点を指していますが、今回の話では関係ありません。
FORGOTTEN MVについて
FORGOTTEN ' 360 ver. & VR ver. MV is
— MONDO GROSSO (@MONDOGROSSO_JP) 2022年2月5日
finally to experience!!
FORGOTTENの360°動画 & VR動画が公開になりました!
2D ver. https://t.co/flTQv0Q8Ug
360° ver.https://t.co/u1MX17DDHy
VR ver.
- STYLYhttps://t.co/zAGKqR65Zh
- VRchathttps://t.co/G4TQq8fyAY#MGBW #VR#VRMV pic.twitter.com/gXKIbbqjhh
私は一切関わってない (まぁ話はちょこちょこ聞いてはいたんだけど) ので好き勝手に言います。
まず、この3つの体験は、細かいところは違えど流れは同一です。つまり同じモノを、別の媒体として切り出している、というように見えます。
だけど、同じようには切り出せない。
- 動画ではプリレンダ *2 の力を使って描かれているシーンが多くあります。
- 全体的な物量感、長い部屋のシーンでの塵やパーティクル化、ものすごいケーブル、破壊されているシーンの欠けのパーティクル群…。
- 2D特有の表現として「カット」「カメラの揺らし」「文字と画像が出るオーバーレイ」 「リアル (多分?) の高解像度の動画」があります。
で、これをどのようにVR用に翻訳しているかという観点で見てみると:
- 最初の部分はまるごと差し替え、代わりに「体験の導入」としての性質を追加
- 2フレーム程度のカット間トランジションの代わりにゆるやかなフェードが導入
- 巨大建造物のライティングはほぼ別物、だけど動画よりも威圧感は増していると思う (カットされてないし)
- 巨大建造物に突っ込むところは視界の回転が無い (あると酔いそう)
- 長い部屋にある物体の量が大幅に減っているが、代わりに音に合わせてライトが明滅して影を投影している
- パーティクル化は輪郭化に
- 文字が出るところの長い廊下へは長い部屋から直接繋がって入る
- 文字は板ではなく迫ってくるように出す、立体的に複数出す
- 眼の中みたいなシーンはほぼ変わってないけど、動画には無い「出るシーン」が増えていて、ケーブルに自然に繋がっている
- (敢えて言うと2D版では終わりにFoVが変化する感じになってるけど、VR版はモデル自体が歪んでいる)
という感じ。だと思います。(変わっている部分自体は他にもたくさんあります)
特にフェードや空間的連結性は面白い部分で。一連の体験であるということは、一連の空間であるということで、離れていたカットたちを繋ぎ合わせる必要が出てくるのですね。
ただ、これは「繋がっていた空間をバラバラにして (カットにして) 動画化した」という観点で見る事もできます。
動画版が結局ずっと前に進む一本道であるというのは、VRには翻訳しやすい構造なわけで。つまりVRの欠点である「空間でなければならない」という性質を、もともと動画構造によって無かったことにしているわけです。
それはプレイヤーそのものが空間の中を進んでいる (これは椅子に座って移動させられているという意味です) ことにも通じている感じもありますね。
これはどうしようもない「VR用と2D用のMVを作らなければならない」という要件に関する必然的な解だと思います。そのうちこんなのばっかになりそう。しらんけど。
というわけで、まず演出の基軸には「一連の空間」というものがどうしようもなくあって、それを如何に各媒体に分配するかという話だったのではないか思うんですけど。
動画版には動画の利点を存分に活かしていろんなものが載っていて、「MVらしく」なっていると思うのですけど。
VR版にある「そういう構造」はきっとあんまりなくて。強いて言えば立体的であるくらいで。
背面が観れるのは今回は利点というよりもアーティファクトだと認識していて、何故なら見ることによって音との整合性が取れなくなるケースがある (拍に合っている演出が前方にしか存在しない) からで。
最後のズルは効果的ではありますが、欠点を補完するのではなく強い利点で覆い隠すような振る舞いだとは思うので、ちょっとさみしい。
あと360°動画版に関しては、制作工程的にどうしてもVR版をベースにすることにはなると思うわけですが、ただ比較対象は2D版になってしまうので、どうしようもなく不幸だなぁと思いました。
全ては「同一シーンを同一に展示する」ことに起因する問題だと思うので、まぁ…。こう、"良いリファレンス"として捉えるのが良いのかなと思います。
…全制約を同時に解くようなコンテンツが出てくることはあるんでしょうかね。はて。
個人的な感想
あと私の趣味としての感想をちまちま置いておきます。まぁ前項も当然趣味が幾らか入っているものではありますが。
私は「構造の入ったMV」が好きで。つまり「かっこいい映像」であることよりも「意味がちゃんと備わっていること」を好みとしています。
ただ、「意味が備わっている」というのは「製作者にはこんな深い考えがあった」という話ではなく、「閲覧者がその意味を理解できる」ということを指しています。
要は「意味は見出されなければ実在しない」という話です。唯見出す人が居れば良くて、それは私ではなくて良いです。
FORGOTTENのMVは全体的な流れはわかる気がするんですが、細かい動機がわからないことが多くて難しかったです。
特に動画だと時間も空間もばちばちに切れちゃうのでそういう因果的整理ができなくなるんですよね。VR版は「繋がって」いるので気にしなくて済んでいましたが。
あと主体と客体がわからない、っていうのはあるんだけど、今回のVR版はその辺の補助は無かったかなぁと思います。いろいろと仕方ないとは思うんですが。
細かいところを言ってもどうしようもないのでアレですが、まぁ、私はなんかもっと「変」(≒ MVらしくない) な作品が好きだという話です。
あれが「何処」なのかを最初の部分から推測すると、「入っていく」構造に見えます。ただ、最後は「出ていく」構図だと思うのでどこかで切り替わったんでしょうか。 あと文字が出るところはまぁ意味としては取れない。パーティクル化は"忘れていく"みたいな側面と思わなくもないけど直後にはっきりしたケーブルが出てくるので曖昧なんすよね。 こう。意味が確定しない印象。個人的な感想です。
何はともあれ関係者の皆様、本当にお疲れさまでした。これは素直な気持ちです。何故ならどう考えても大変なので。
私は私に関する批判的文章を読みたいタイプですが、あまりそういうことが無くて寂しい気持ちもあります。(某氏のあの発言は気になっていますけど。)
おもっていることをいうのがすきです。情報を隠すことで希少性という価値を出すのではなく、情報を出して純粋な良さという価値で動く世界になってほしいです。