Imaginantia

思ったことを書きます

私と創作2018

珍しく自分の話をします。まぁ自分だけの話でもないのかもしれない。

想いの無い創作

昔から一応私は「創作者」ではあったと思うのです。ただその在り様は一般的な創作者とはきっと違っていた、というのに気づいたのは最近です。

ゲームが好きなのだと思い込んでいる昔の私はプログラミングをやるという選択をしました。その結果とりあえず得た力で物を創っていたのが今までだと思います。 今となっては昔の私が本当にゲームが好きだったのかどうかはわかりません。どちらかというと同調圧力に近かった気もするんですよね。 物語性のあるゲームはあまりやらない方で、まぁ昔からパズル系というか、システマチックな部分が好きだった気はします。 それはそれでいいとおもうんですけどね。

その結果として、パズル系のゲームは今まで何個か作りました。でも他のことは出来ないのです。 私は絵も音楽も文章も創れないので。逆に言えば私は理解ができなかったんですよね。それは本当に必要なものなのか、と。

で、その根本的理由がわかったのが本当に最近なわけです。端的に言えば想いが込もっていないから、です。

シナリオもキャラクターも世界設定も私にとって不要であった、のは、私が想いを受け取っていないからでした。 もっと言えば昔の私には「何も刺さらなかった」。想いという重みを全て受け流してしまっていたのです。

なんで今私がそれを受けられるようになったのかはわかりませんが、一側面として「システマチックな側面の拡張」がありました。 システムがシステムとして機能するためにはそれ相応の文脈が必要で、そこには意味が伴わなければなりません。 UIを設計する上では世界設定の構築が必要だったのです。それが一つの始まりな気がします。

あとは考察系の作品でしょうか。私はSound Horizonが好きなんですがこれは何故か刺さったんですよね。すごいね。 そういう隠された意思、「重み」がまず存在するのだという前提。そしてその重みを読み解け得るという証明。 今となっては言葉に出すことが出来ますが、昔はこれがわからなかったです。

BraidもThe Witnessもそういうところがありますね。特にThe Witnessはそれを適切に言葉にして私に表現してくれた、という意味で人生を変えたゲームなのかもしれません。

意思の重みが存在する、というのは「漠然と」提示された世界設定とストーリーからしたら非自明なのです。 作者はそう思っていないでしょうけど。 本当に昔の私はストーリーというものを理解していなかったなと関心しますね。概念が無いと本当にわからないものです。

まぁ、これでやっと初めて「システム以外の部分を作る」モチベーションが産まれてくれたのです。

自己表現という恐怖

でも私は絵が描けません。音楽も作れません。物語も書けません。

練習をしてないからとかそういうことじゃないんです。練習するに至るその始まりが無いのです。 昔からそれをずっと思っていて。絵を練習しようと思ったことは何度もあったけど「描くものがない」のです。 練習用の題材とかそういう問題じゃなくて。意義が無いというか。

まぁつまり、「想いを理解」はしたけど「私に想いが無い」んですよね。当然です。

なんというか、そういう作品って作っても人に見せられないんですよ。何故か恥ずかしさがあるんです。 今思えばそれは感想を言われても困惑するからかもしれません。質問されても答えが出せないということでもあります。 「想いの無い作品」に想いを期待されても困るのです。その恥ずかしさは本質的なものなので、その羞恥を克服したところで解決にはなりません。

そのまま長いことその方向の努力をしてこなかったわけですが、そこで出てきてしまったのがVRChatなのです。

今まで色んなゲームを遊んできて、「自キャラ」というものがなかなかしっくりこないことが殆どでした。 特にリアル系のキャラを作るゲームは本当にダメです。選択肢が無い方が嬉しいくらいです。 そんな中、本当に好き勝手に創れる機会。そして私がずっと燻ってた絵を描くモチベーション。 今こそ動くべきだと思って、デザインを描き始めたのです。

最初に描いた絵はもちろん残念なものになります。でもそれでよかった。それでよくなったのは、そこに初めて想いが在ったからでした。 私の想いを表現する、というある意味で「正しい創作」を初めて行えた出来事だったのです。

それを軸にして何度も描き直せばだんだんおかしな点は無くなっていき、デザインとして使える程度のものにはなってくれました。 そこから3Dモデルを建てて創ったのが最初のLaineという名前のモデルです。スチームパンク感好きなんですよね。 その頃は全然スチームパンク感を表現出来なかったけど、これが練習のはじまりになってくれるわけです。これを待っていたのです。

やっと「想いを持つ」ことができるようになったのです。

今まで私が作ってきた物たちは「創作」というよりも「実験的作品」だったわけです。やっと初めて創作者になれました。 ゲームを創るのは難しいですね。

のらきゃっと

そして出てくるのが、のらきゃっとですよ。完全に喰われましたね。なんでだろうね。 デザインが刺さったのだと自分で思っていたけど、今思えば「刺さるデザインがのらきゃっとであると再定義させられた」ような気がしてきました。 銀髪めっちゃ好きなんですけど昔そこまで好きだったっけ。ゴシック系は昔から好きだったけど。

どうしようもなく魅力的なキャラクター、度々提供されるちょっとした世界設定、そして時間と共に様々な変化があるというストーリー性。 欲していた…と言えるのかはわからないけど、そこには私が学ぶべきものたちがありました。書いていて思っただけですが。

そして重要なのはもちろんファン層、ねずみさんの存在です。のらきゃっとの重みを受け取って「想いを返す」人たち。 それを見て惹かれていたのは、きっと私もそれをやりたかったからです。 どうしてものらきゃっとそのものが重みを持ちすぎていて私には耐えきれないということが数多くあるわけですが、それでも返そうとするねずみさんたちの姿を見て、私も見習わなければならないと思う次第です。

10月にはのらきゃっと合同誌の為に絵を描きました。12月末にはちょっと物語を書いたりもしました。 ちゃんと想うことがあれば自分の実力相応に出力が出てくるものですね、まったく。 ついでに今VRChatで使っている6月頃に創ったモデル、Carnaは銀髪+ねずみ耳 (自分の中では) です。ちょっとした出力ではありますが全然足りませんね。

昔は「想いを持たない」ことを気にしていたのに、今では「想いを持ちすぎた」ことを気にする程になってしまいました。 これを私は返し切れるのでしょうか。返さねばなりませんね。 必要なのは純粋な鍛錬、そして表現力の向上です。昔の漠然と何もできなかったときとは違うから出来ることはあるはずです。

来年こそ本気出す。

同人作家の生き様

そんな私の経験は、所謂同人作家さん達が最初に得たものだと思うのです。 感受性の高い人達が、ある作品で重みを受け取ってしまった、というのが始まりなのだと思うわけです。

だから、私は本当に始まりに辿り着いただけなのですね。

のらきゃっとが最高だと思うのは私の始まりがのらきゃっとだから、というだけなのかもしれない。まぁ比べるものでもない。私にとって最高なのは変わりありません。

私がちょっと違うのは、技術がある程度先走っているという点です。活かさないわけにはいかないですね。 だから表現を探っていきたいのです。最終的にそれは本みたいな形態ではないだろうし、何になるのかはよくわかりません。

実験したいことはいっぱりあります。時間は…作れる程度にはあると思う。頑張っていきます。

余談: 設定の存在意義

ちょっと私の話からは外れるのですが、設定は何の為にあるのかという話。 ストーリーを辿ることが最終的出力であるとするなら、付随している「使われなかった設定」には何の意味があるのかという話。

存在は、観測されなければ存在しない。即ち、設定は使われないのなら無いのと同じです。じゃあなんだろうか。

最終的にのらきゃっとを見て気づいたのは、「設定は在るだけで意味がある」ということでした。 物語を創るのはのらきゃっとサイドだけではなく、ねずみさんたちも、です。設定を使うのは私達でもいい。 考えてみれば物語は作っても読まれなければ意味は無いわけで、もうその時点から対話は始まっていたのですね。 でも対話によって創られているということが本質的であるという点に於いて、のらきゃっとが特異であるのはきっと事実だと思うのです。

伏線のような形式で使われることもあるわけですが、共通するのは「未来の創作で使われる」という点です。 時間を跨って人が人 (当人かも) に伝えていく創作。重きを重ねて創られた想いは輝いていくことでしょうね。