主語/目的語を大きくすることで主張を強めるテク。感覚、特にVR感覚について思うことを書きます。
この話は私の感覚で書いているものなので、あまり真に受けるものではありません。この一文が全てを表しているかもしれない。
あと私の文章を読んで何かをやって何かになっても私は一切保証しません。よろしくおねがいします。
感覚
人は複数種類の「感覚」と呼ばれるモノを持っているわけですが、さてこれは何なのでしたっけ。 視覚聴覚触覚嗅覚味覚、どれも対応する何らかのセンサーに反応した結果何らかの因果によって生まれたモノであるというのは一般認識で間違ってないと思います。
問題はこの因果です。センサーで受け取った値は直接feedbackに流す (これが「反射」だと思います) だけではなく私達の頭が解釈をして感覚として受け入れられていきます。
全ての感覚には頭の働きが不可欠だと思うのです。視覚の基となる細胞群の数はそこまで多くなく、それを解釈して高解像度かつ連続的に見せかける頭の働きが現実をきれいに見せているのだ、とか見た覚えがあります。
そして頭の働きというのは学習によって変化するものです。これまでの経験によって感覚は変化していき、また学習を自主的に行うことである程度の制御ができます。
つまり、人が「そうであれ」と願うとき、その感覚は十分存在しうるのです。多分ね。
概念上の感覚
私はプログラムを書いたりする人間なわけですが、よく書く言語に依って「空間の重さ」みたいなものを感じることがあります。 特に型システムの強さに対応していることが多くて、JavaScriptだと「紙の上に立っている感じ」、Haskellだと「純粋な鉄」みたいなイメージがあります (実際には全然違いますけど、言語化するとそれに近いかなぁ、というくらいです)。
これは実際にコードを書くときにも現われていて、前者だといつ倒れるかわからないけど倒れても痛くないと思いながら歩いていて、後者は信頼できる壁と共に居るけど押しつぶされないとも限らない。それを感じつつ触りつつ、コードを書く上で気をつけるべき場所みたいなのを感じ取っている気がするのです。罠を作っちゃったらあとで埋めなきゃなとか。埋めなくても勝手に消えるからいいかとか。
これは割と「感覚」に近いものだと思うんですよね。いやむしろ、所謂五感と区別する必要が無いのです。そう感じているのですから。
あとUnityのScene Viewを操作しているときとBlenderの3D Viewを操作しているときは大分体感が違います。前者は「もちもちクッション」みたいで後者は「木で出来た椅子」みたいな。Blenderのほうが持ち上げやすいんですよね。多分クリックしてからの反応速度とかが関係していると思いますが。その体感の差によって操作方法の違いみたいなのを思い出したりしています。多分。
テトリスを遊んでいるときでもこれらとは違えど「概念上の感覚」みたいなものはあって。あれはやっている間は視界とは別の「視界」が存在していて、そこでは2,3手先が視えている気がするのです。何らかの目的を達成する上で発達・新たに形成された感覚、みたいなものもきっと他にも色々あるはずです。
このような「今までの経験」や「目的を達成する為の学習」によって得てきた感覚は、いろんな人にあることだと思います。
VR感覚とは何なのか
さて、VR感覚として呼ばれるものは、実際に皮膚などの感覚器官というセンサーに入力が入っていないにも関わらず感覚だけが存在したと感じる現象、だと思います。
これが経験や学習だというのは半分正しく半分違うような気はします。「実際には持ってない器官だから」というのは一切参考にならない意見だというのは前述の話から明らかですが、まぁ経験したものでも学習したものでもないのは確かです。ただ知ってはいるんです。
人は、自分ではないモノに与えられたactionに対するreactionを想像することができます。これは実際にそれを体験したからではなく、頭の中にaction-reactionの「モデル」があるからだと思います。 ここでモデルというのは実際の物体をある側面で以て理想化し、把握したことにすることとします。このモデルを信用するという前提の上で、そのモノはそのreactionを返すはず、返すべきなのです。
ではこの対象が自分と同一視されればどうなるか。猫耳がついていなくても、猫耳がついている存在に行ったactionに対するreactionが頭の中に構築でき、自分がそれと同一視され、それに対応する反応が生じるのが自然であると自分が解釈したらどうなるか。
多分そういうことだと思います。「自分の頭にある自然な法則に則った結果起こるべき現象」を体感で以てシミュレートしてしまうのではないでしょうか。 これがVR感覚の基本的成分で、後は先程の経験と学習による強化が幾らか寄与している部分があると思います。
ちなみにこの「頭にある自然な法則」というのはおそらく催眠とかその辺の分野のメカニズムと多分共通で、アレは「他人が提供する法則」でふわふわの「自分の頭にある法則」を書き換えることで体感を書き換えるものなのかなと思っています。よく知りませんけど。
共感覚みたいなもの
別文脈の話として、感覚と感覚が「つながる」話があったりします。
私は別に科学的に詳しい人というわけでもないわけですが、これも「対応を学習した結果」起きる現象としてはそうおかしくないと思うのです。 特に幼少期とかは同じ玩具で遊んでいることが多くて字と色が結びつきそうなものじゃないですか。
それどころの話ではないのは百も承知なんですが見えてしまうものは見えてしまうのでしょうがないじゃないですか。
共感覚に対応するのはどうかは知りませんが、感覚と感覚がくっついているという観点からモノを考えるとまぁ解釈がもうちょっと出てきますね。 『視覚と聴覚で以て「触られた」時に起きる感覚を受容しているのなら、それは「触られた」という反応が起きたと考えるのが正しく、結果「触られた」ことにするのが正しい』わけです。 過学習みたいなもんですね。
あとまぁ類似して、例えば視覚で「0.5秒後に殴られる」ことが分かったとするのなら予め「痛み」を発生させておくことで反射速度を向上させる、生存本能みたいな方面の話もありそうな気がします。気がするだけですが。 「止まったエスカレータ」とかそんな感じがしますね。現在乗っている物体で以て移動速度を過学習してしまったが故、止まったエスカレータに乗ると実際とは異なった感覚が発生するのです。
他者
さてはて。まぁいろいろ書きはしたんですが実際のところそれはどうでもよくて。
こういう話で一番重要というか、最初に考慮しなきゃいけないのは「感覚を持っていると訴えているのは他人である」という点かなと思います。
別に自分が感覚を持っていてもそうでなくてもいいんですが、結局その話を共有する相手は絶対に感覚を共有していない他人なのです。
人はブラックボックスですが人の感覚は特にブラックボックスです。事実確認が困難である以上何を言ってもそれは真実になりうるし、嘘になりうるのです。
だからこういう話で「素直な調査」を行ってもきっと真の情報は得られないのではないでしょうか。いやむしろ真の情報が得られる方法が存在したら凄いんですけど。嘘発見器ですね。
個人差があるとかそれ以前にまず個人なのですね。うん。
逆に言えば、自分の持つ感覚というのは自分だけのものです。他人に迷惑を掛けたりすることは基本的にありません。
だから自分の感覚を自由に書き換えても別にいいと思うんですね。「自分の中で完結できる願いは叶えて良い」。
ただまぁちゃんと戻ってくるためにセーフティは掛けといたほうがいいと思いますが。感覚を持った自己を観察している自己みたいな。
いろいろともっと自由でいいとは思いますが。あくまで個人は個人なのは良くも悪くも忘れないでおきたいものですね。