Imaginantia

思ったことを書きます

雑記 数学をやるということ

書きたくなったので書きます。

予め書きますと、この文章は「数学のために数学をやる人」についてではなく、「何かをする過程で数学が出てくる人」についての話です。

数学とは

「何かをやるにあたって数学が出てくる」、というのは至る所である話だと思います。

が、この観点は「数学の在り様」についての認識が少しずれていると感じます。

言葉にするのが難しいですが、数学とは「自然言語では表しにくい物事について考える為の言語である」と私は考えます。

略すと、数学は言語です。

つまり、「何かをやるにあたって数学が出てくる」のではなく、「何かをやるということを丁寧に言語化する」という行為そのものが数学なのです。

過去に人類が作ってきた言語体系を使うことで、0から言語化を試みることなく、複雑なものをうまく展開することができるようになる、というのが数学の恩恵です。

当たり前ですが、「できてえらい」とかそんな話はここには一切ありません。

 

自然言語は根本的に「伝えるための言語」であると思います。しかし数学は「考えるための言語」として設計されているように私は感じます。

この目的の差はそのまま「伝われば良い = 曖昧性を許容する」「道筋を立てて記述する = 厳密性の要請」という性質の違いにつながっています。

あまりそれに慣れていない、という理由で「よくわからない」という気持ちになるのはわかりますが、本質的にそこにあるのは「思考するということ」そのものです。

極論、既存の理論に乗らなくても数学はできます。「間違いなく客観的に理解できる思考過程の記述」ができていればそれは数学をしているということです。

これは「できれば」の話であり、現実的にはそれがとてもむずかしいことが知られています。だからなんだかんだ既存の理論に乗ったほうが楽なのです。

概念の手触り

さて、私たちは「空間」にいます。そうですね。この空間って何でしょうか?その性質を自然言語で説明しきれるものでしょうか。

であればそこに数学が生えます。例えば空間には「位置」の概念がありますが、では「位置をどうやって記述するか?」「位置と位置の関係性はどうか?」「空間と位置の関係性はどうか?」という問が自然に生まれます。

位置は3つの実数で指定でき、位置と位置の距離の計算方法を定め、位置の集まりとして空間を構成することができます。そうすると「空間」が現出します。

つまり、自然言語による曖昧なニュアンスを用いた思考の伝達ではなく、明確に手で触れられるものとしての「空間」を手に入れることができるのです。

この感覚はとても大事です。

 

数学で扱う対象は、定義によって確定します。逆に言えば、定義されてない領域はありません。

空間を「位置の集まり」として定義したら、そこには「色」や「重力」「人の存在」「安心感」などは一切ありません。代わりに「ここからここまでの距離」とか「右に幾らか曲がって前に幾らか進む」ということができます。

複雑な世界から「思考に必要な成分だけを抽出した要素」を作り上げることで、余計なことを考えないことができます。これが抽象化と呼ばれるものです。

私たちはこれを実感しているはずです。地図アプリケーションには地面の色は表示されず、ある場所からある場所へたどり着くために必要な道が「ただの線」で描かれます。

しかし例えば「これでは渋滞情報などがわからないはず」という意見がありうると思います。更に言えば「建物がどこにあるか」「どこが歩けるのか」みたいなものも、ただの「位置の集まり」では記述に不十分です。

そういうときは、目的に合わせて概念を組み替えるのです。これは当然です。必要な成分だけを抽出するわけなので、必要なものはちゃんと数学の世界に持っていかなくてはなりません。

逆に、実は道筋を算出するにあたっては「位置」は必要なかったりします。本当に必要なのは「位置と位置の間の関係性」だけで、それは例えば鉄道の路線図 (一直線に並んでる!) がそうですよね。

 

複雑な事柄から、本当に必要な成分を抽出し、数学という言語を用いて書き表す。そうすると「よくわからなかったものが、手で触れるようになる」はずです。

「手で触れる」というのは私の感覚的な表現ですが、これは「1というのは1であり、それ以外の何物でもない。1に1を足すと2になることがわかる。1に何を掛けても変わらないこともわかる。」みたいな気持ちです。要はそれが何であるかを完璧に知っているという感覚です。

なんか世の中の人間は好き勝手に数字に意味を与えたりするのが好きらしいですが、まぁ当然それは勝手として、数学という言語においては何の関係もありません。神秘性とかもありません。数字は数であり、それだけです。

e^{i\pi} = -1 が美しいとかいう意見もまぁ否定するものではありませんが、これは単純に定義に基づいた唯の事実であって、そしてその定義は「言語として記述するのに今のところ最も便利な方法」が選ばれてるだけです。(例えば \pi ではなく \tau = 2\pi を使ったほうが綺麗では?という話もよくある)

この公式いろいろ持て囃されてたらしいですが、使う人はめちゃくちゃ使いますし (オイラーの公式の形で)、その時には何の感情もありません。ただ計算するとそうなるというだけの話です。

「そうは言ってもまぁ面白いじゃん」みたいなこと言う人がいるかもしれませんが、それは数学の純然たる面白さを知らないのではないかな。

 

「手で触れるようになること」と抽象化はちょっとどこか相反しているのでは?とここで思った人は正しいです。

抽象化によって、それが何であるかを知らなくなるという現象はよく発生します。何故なら、それを知らなくても、思考に必要な要素が揃っているから

「りんごが4つある」と言われたら、そこには瑞々しい果実としての林檎があるのではなく、「りんごと呼べるもの」が4つある、というだけです。それは即ち、「1個目のりんごと2個目のりんごの違いはどこか?」みたいな問が発生しないということです。

…もちろん補足的に「1個目のりんごは緑色で、2個目のりんごは赤い」と言われたら色々追加で言えることもあるでしょう。だけどそれがなければ「4つのりんごは違うけど、同じ」になるのです。

「りんごが4つある」なら、例えば「そこから2個を選ぶ」くらいのことはできそうですね。

 

更に言えばこれは「1とは何か?という問は発生しない」ということです。何故なら、1そのものが何であるか知らなくても、私たちは足し算ができます。掛け算ができます。何をやるにも困りません。だからいいのです。困らなければ

「数学とは何か?」「証明とは何か?」を数学によって明らかにしようとすると、この問にも答えなければならなくなります。でもそんなに怖いものではありません。結局1の正体を知ったところで、私達がやるのはどうせ足し算ばかりです。

 

まとめると、物事を「必要な分だけ」抽象化することで、何ができるのかを明確にでき、見通しがよくなる (= 手触りがわかるようになる)。というのが良いんだ、という話です。

付随して言うと、「数学の概念を理解している」というのはそのまま「手触りがわかる」(= それが何ができ、どんな性質を持っているのかがわかる) という意味だとおもいます。私は。

実際の困難

で、じゃあどうやって数学ができるようになるのか、という話なんですが。概ね「教科書を読み、問題を解く」しか無い、というところになりそうです。

何故教科書を読むかというと、そこには「言語化したい概念」と「それを数学で言語化する方法」がたくさん載っているからです (そういう気持ちで読むべきです)。

何故問題を解くかというと、「自分で言語化することができるようになったことを確かめるため」です。わかってるなら解けるじゃないですか。当たり前ですよね。

解けてないならわかってないのです。まずそれを受け入れなければなりません。それでいいのです。わかってないことをわかるということが大事なのです。そうすれば改善の余地がある。

 

…という話自体はいいんですが、正直、数学の教科書というのは本当に読みにくいです。何故かというと数学をやってる人間は数学をベースにした頭になっているので、そうじゃない人間に読める文章を書くのが難しいからだと思います。私もそう。

もちろん読める人にはめっちゃわかりやすく書いてたりするんですよ。本当に。

数学の本の難しいところは「必要な前提知識の量」では一切なく、「文章読解する能力の要請」の方だと思います。マジで。

よく言うじゃないですか、1日に2ページ進めば良い方って。まぁこれは「一文に込められた情報量がデカすぎる」という話もありますが…。

逆に言えばこれくらいの気持ちで大丈夫です。むしろちゃんと咀嚼しきらないと次に進めないので「手触りがわかるまで」読むべきなんだと思います。(まぁ一番手触りを実感するのは問題解いてるときな気もしますね)

 

けど本当につらいのはつらいので、やっぱりおすすめなのは「人と一緒に教科書を読む」になるんだと思います。わかる人がいればその人に聞けばいい。自分がわかるならわからない人に教えれば良い。まぁ教えるのが上手い人というのは幻想なので、結局は自分で理解する必要がありますが。

みんなで教科書の記述意味わからんって文句言ってもいいし。何にせよそうやって相談できる環境があるのが一番学習には大事だと思います。

大学時代にいろいろ自主ゼミできたのめちゃくちゃよかったなと度々実感しています。もちろん今でもやってもいいと思いますし (ぶいちゃは結構やりやすいですよね、集まりさえすれば)。

 

加えて、Twitterで適当にごたごた言うのもありだと思います。

間違ったこと発言に対してはめちゃくちゃ指摘を入れたい人というのが世の中にはいっぱい居るので、適当なことを書けば突っ込んでくれると思います。知らんけど。

普通に「これってこういうことなの?」という独り言を言うだけでもなんか知らない人 (私) が独り言で返すときもあります。見つけたら。まぁ直接リプライ送るほうが早いと思いますが。

ただ、本当にお願いしたいのは、本当に何か答えを求めているときは、明確に状況と疑問を書き記してほしいのです。そうじゃないと誰も答えられないので。ボケかな?っておもうので。

例えば「1+1 って 1 なんだ~」って発言があったとしても私は「まぁ max-plus algebra だったらそう書けるかもな…」とか思って自分で納得しちゃうので。「常に 1+1 = 2 なの?」って書いてあったら「常に」という枕詞がめちゃくちゃ強いので「ほんまか?」って身を乗り出したくなりますけど。(まぁ 1+1 = 2 はいつでも成り立つと思います)

私は「誰かが、わかってなかったことを理解できるようになる」という状況が昔から好きらしいので、何かあれば積極的につっつきたくなります。ちょっと積極的すぎる傾向があったので空中で飛ばしています。最近は私じゃない人がそれをやってる感じもあって眺めてるだけが多いかもしれん。

自分のことよりも他人のことの方が気になるんですよね。よくないです。今も私はやらなきゃいけないことがあるんだけどな!!

 

はい。

よろしくおねがいします。

おわり。


 

追記: そういえば数学の記法というのはいろいろといろいろがありますが、あれはちゃんと「読めれば (= 数学的な意味がわかれば) 良い」ので、そこまで厳密に合わせる必要はありません。ただ、「省略すること」は意味が違います。

例えば  r \otimes x \oplus y r \times x + y と書くことは私はあまり抵抗がありませんが (曖昧でなければ)、 \displaystyle \int_a^b f(x) \mathrm{d}x\displaystyle \int_a^b f(x) にしちゃう (\mathrm{d}x を抜く) のは意味が違う (微小項が無いと無限になっちゃう感じがする) のでダメです (曖昧性が無くても)。

そこまでやるなら  I[f(x)] くらい違う記号にした方が (= 省略という考え方ではなく、明確に新しく定義をした方が) いいです。そういうことは私は度々やります。

 

追記2: 「これって何に使うの?」みたいな質問に対しては、数学の話題に関しては、いろいろ応用例を示すというよりは「根本的にこういう概念だよ」という説明が適切なのではないかと思ったりします。

例えば「三角関数って何に使うの?」というのに具体的に答えたとしても強度が足りなくて、「円が座標系の上にあるとき、必ず三角関数も出てくる」くらいの気持ちの方が理解としては正しいとおもいます。

 

追記3: 「数学は論理的でがちがち」みたいな認識をする人いると思いますが、これは2つ間違っていて、「論理というのはもっとゆるやかな枠組み」「数学はなんだかんだ感覚が大事な学問」だと思っています。

「手触りが大事」というのは、手触りで触れるくらい (= 直観的に性質がわかるくらい) じゃないと今後困るということです。数学はぬるっと使われるものなので、息をするように式変形したりできないと複雑な問題に立ち向かえません。

もちろんそこまで行く前には「たくさん定義を見返して身に着ける」という段階があります。それでいいのです。