Imaginantia

思ったことを書きます

雑記240714 ものごとを考える

人、「どうやって」考えてますか?

こう… 1+1 が 2 だということを考えるとかでもいい。何を買うか悩むとかそういうのでもいい。

確かに何か考えて答えを出すのだけど、その過程って、よくわからないです。私はわかっていません。

実のところそれは単なる電気信号によるニューラルネットが吐いた信号なのだろうけど、まぁそこはどうでもいいです。私達の認知するところではないから。

私は自分がどうやって考えているのかわかっていません。どうやって物を覚えているのかもわからないし、どうやって思い出しているかもわかりません。

 

何かこう、与えられた情報から結論を出さなきゃいけないときとか、知ってるはずのことを思い出さなきゃいけないときとか、あると思うんですけど。私は…なんかこう、ぐーっとするとぽんって感じで答えがでます。

なんなんでしょうね。私の「意識」は多分何もやってないです。無意識に問い合わせすると帰ってくるみたいな感じなのかな。

まぁイメージ的には大量の候補をひたすら当てはめて「それっぽい」と感じるものを探している、という状況なのだと思いますが、私の意識にはその具体的な「大量の候補」みたいなものは流れ込んで来ないので、なんか知らないけどそれっぽいのを思いついた、みたいな感覚になります。

例えば私が人に「ちょっと考えますね」とか言ったとき、だいたい私は「止まる」んですが、その時は意識的には何も考えてない気がします。一定時間が経つと答えが帰ってきて、動作が復帰します。たまに帰ってきません。

そんな感じなので、尚更、私は自分が「どう考えているか」がわかっていません。

 

当然そうやって出てきた「答え」は、意識下の私にとっては信憑性がありません。だけど、経験的には確かに何らかのまともな理由と意味合いがあってその答えになっていることがほとんどみたいなので、そこそこの確度はあります。

だから私はその答えが「本当に合っているかどうか」を検証します。つまり具体的なシチュエーションに当てはめたり、思い出そうとしているものの条件に当てはまるかを調べたりします。そうすると大体するっと筋が通っていることがわかって、口からその答えを出すことができるようになります。

…こう見てみるとやってることがかなり Alpha Go とかに近い気がしてきました。まぁいいや。

言いたいことはここからで、この「検証」というのは、私の「考える」機能を用いることができません。そうしたら堂々巡りになります。いやサブセットくらいは使っていいけど。

だから私には検証の為の枠組みが必要でした。その意味で、私は「論理」を「使っています」。

つまり論理体系という枠組みに物事をエンコードすることで、その考えが間違ったことを言ってないかどうかを判定します。

これは、できます。日常会話とかは難しいですが、「判断」とかには使えます。

ちなみに「どちらを優先すべきか」とかには答えてくれません。「こちらを優先するとどうなるか」は答えてくれます。

これができるようになったのはある種「必要性があったから」なのですが、まぁそれはいいとして。

 

ただ実際のところ多くのケースでは「完全にその方法に頼る」ということができません。何故なら、それにはとても時間が掛かるからです。

2人で話していたりするときはまぁ私が固まってても (頭の中で推論ステップと検証ステップを回していても) 許さるかもしれませんが、複数人だとどんどん話が進むので、ついていけなくなります。

というわけで、現実的にはその推論ステップ (ぐっとしてぽんって答えを出す機能) の精度を上げる必要がどうしても出てくるのだと思います。

とは言えこれは例えば数学をやってる人にとっても当然で。何らかの命題の真偽を考えようとするたびにこれまでの全定義をひっぱりだしてくるとなるとだいぶ途方に暮れてしまいます。

一度ひっぱってくるのは大事なんですが、それはそれだけで済ませるのではなく「それを使った精度の高い推論ができるようにする」という副作用を期待して行うことが多い気がします。

これを典型的に「直観が生える」と言います。言うみたいです。

本を読んでいる最初のうちはなかなか「生えてこない」んですが、慣れるといつの間にかそれが当たり前のようになってくる、ような感覚があります。その辺の人間が「自明」ってよく言うのは多分それのせいです。ごめんなさい。

実際「自明」に見えることを丁寧に説明するとめちゃくちゃステップが必要なことは多いんですが、当人内での推論ステップは一発 (というか何も考えてないまである) なので、説明することがなくなっちゃうんですよね。

まぁ、だから実は「正しいかどうか」を考えているのは答えを出した後、だったりするんですよね。言い訳のように根拠を探しています。

えー、ここまでの話は「人は物事を考えるときには直観を使っている」ということを長々と説明しているだけです。誰でも、そうだと思います。

 

そして問題があります。直観が正しいかどうかが、時代によって変わることがあるんですね。

即ち…直観というのは細かい論理検証をすっ飛ばして作り出した「正しそう」という感覚なので、前提が大きく違えばもちろん正しくなくなります。

特に見落としがちな前提というのが「時代」だと思います。だって自分という意識は何も変わってないもんね。

だから大抵「価値観をアップデート」みたいなことを言いますよね。正確には「一度培った直観を捨てる」という行為なのだと思います。

ただそれがなかなかできないという人の気持ちもわかります。だって…それって「人」そのものですよね。

そしてそうやって時代に取り残されていく。それはきっとそういう選択。

私は…もうちょっと時代を眺めていたいです。「絶対に本物の時代には乗れない」のだけど、できる限り直観を捨てられるような人でありたい。

そして直観を捨ててもちゃんと「人」であることを保つには、きっと論理が必要なんじゃないかなって思っています。

というか、私は論理の世界を基軸に「私」を組み立てていて*1、これはあんまり*2時代に依らない…と思っているから。だから安心して「私」で居られるような感覚があります。

みなさんはどうですか?

*1:銀髪好きは論理的か?というと、別にそんなことはないけど。そこを自覚する、というのが大事なのかな

*2:自分が採用している論理体系は自分が成長するに沿ってどんどん変わっていますけどね…