Imaginantia

思ったことを書きます

語彙と数学

随分昔に思ったこと。

数学は概念を整理及び整備する。そこにはよく知られていないにも関わらず普遍的な概念がたくさんある。それはもはや思考に関する語彙になる。

整備された空間でお話を展開するのは、何も無いままに手探りで進むよりもよっぽど簡単。だから人は概念を学ぶべきなのです。と思うのです。

そういう世界がわからないのは、文字が読めないか、概念をわかっていないかだと思います。どっちもよくありますが、どっちもやっていくうちに読める/わかる気がします。

 

例えば半順序集合。これはものを「比べる」ときの方法を提供しますが、常に比べられるとは限らないことが意味として含まれています。

数学は基本的に否定ではなく構成をするので「比べられない」という言い方はしません。代わりに「何なら比べられる」という考え方です。

一部のものは比較できるけど、常に比較できるとは言えない。それは普遍的な状況です。

 

例えば商集合。これは「等しさ」の解釈を上書きする方法です。即ち違うものを同じものだと見做すための概念です。

そのために必要とされる条件が、同値関係に課せられる制約なわけです。それを守っていなければ同じだと見做すという行為は正当化されません。

小さいことを忘れて必要な部分だけを見ること、そしてその時に十分注意深くあるべきであること。これも普遍的です。

 

私は同型の概念が好きです。これは違うけど同じにみえるもの、を記述します。そうすると同じ情報を持つ限り自由に世界の行き来ができるようになります。

しかし当然それには強い制約が課せられます。即ち行って戻ってこれなければならないことを。

でも、さらに弱い概念として随伴があります。これは多少情報が削れていたとしても、本質的に削れていないのならば許容するという概念です。

モノの等しさというのは一切自明な事柄ではなく、目的に応じた測りがあるべきなのです。違いを無視して良いなら同一視を許して良いのです。

 

「主張」という概念にも対応して命題があるわけですが、主張が成り立つことと主張そのものは「意味」と「文法」ほどに区別される概念です。

そしてその意味づけにもまた種類がある。例えば「何故成り立つのかを極限まで追求しなければならない」世界。

これはとても制約が強いわけだけど、その制約によって私達はどうすればいいのかを知ることができるのです。何故なら、何のために、どうやって考えてきたのかを伝えてくれるので。

現世ではよく「何故ルールが存在するのか」「何のために制約があるのか」を忘れられているものですが、それはある意味で当然の帰結なのです。始まりの段階で無視してきたことですから。

「命題は正しいか、正しくない。」というのは情報を落としすぎなのですよ。誰もが証拠を求めるこの時代、もう少し証明に興味を持ってほしいものです。

そういえば「質問に『はい』か『いいえ』だけを返さない」っていうのを思った。つまり共にその返答の根拠を示すべきと。もちろんそれが不要な場合もあるわけだけど。

何かを与えた分、何かが帰ってくるものなのです。良いことであれ、悪いことであれ。

 

そういう概念の捻り方を、解釈の自由さを知ってやっと、頭の負荷を減らしつつ厳密な議論が出来ると思うんですよ。

そうしないと自然言語に翻弄されるだけなのです。いつの間にか違うものが同じものにすり替わっている。誰かの都合で。

正しく願いを表現してください。よろしくおねがいします。