今日はとてもいい日でした。memexのライブ、現実、らくとさんの謎のアレ、テクスチャ改変からのデ陣と続いてSpaceXの打ち上げまで見れました。もう優勝ですね。
いろんなことを考えたのでいろんなことを書きたいと思うわけですが、なかなかこの時間になるともう疲れで情報が残っていません。毎回そんなものなんですけど。
でも、だから「日記として記録する」という行為はとてもよいなと思います。もちろん今日喋ったことよりも考えていたことよりも情報は欠落するけど、なかったことにはならないのはいいなって。
音声媒体の難しいところはそれですね。書き込みは簡単ですが読み込みに時間が掛かるのです。
さて。
まぁ音に関する議論はきっと私が書くことではありません。いろんな人が三周くらいして得た結論を私が書いてもしょうがなさです。
でもとりあえず私は「存在」については書きたいと思いました。解釈について常に話している私達なので。解釈不一致について解釈している私なので。
解釈自体の解釈もまたいろいろあって、どちらかというと意味として捉えがちな私ですが、まぁ今回は存在についての話として。
VRChatの人たちが日常的にやっていることが、「互いの世界の見えない違いを認識すること」だと思うんですよ。ローカルと呼ばれる形容詞で。
それを前提に捉えた主体が今「解釈不一致」という言を見たとして、その先が、やっぱり見たかったなと思うんです。
常に解釈の一致しない私達がコミュニケートしているというのは「良い話」なんですよね。
インスタンス毎の解釈差を生み出す機構として「人」「物」があるとおもうんですが、共にVRChatではそういう点ではありふれたものになってしまっています。特に最近は人が見えなくなることが多くて困ります。
なので「世界」レベルでの解釈差の機構がほしいと、ちょっと前に思っていたり。その安易な解釈として「違う世界で魅せる」などあると思いますけど。もっとなにか。それ以上のなにかがね。
世界は解釈で出来ているからに、解釈を背負うのは結構重いですよね。特に解釈の解釈を背負っているように見えてしまった。私は。
多分これは個の解釈をありふれたものにしているからかも。
周りの人がね。「解釈できる」格好をしているのをよくみているので。ほんと。
そして私は「解釈が一致していない状態での会話」をよくしていると思うので。お互いの世界を一致させるんじゃなくて橋渡しするための。
そういう世界だと、思っているんです。ここは。
…とはいえ「それを前提とする」ことを前提とするための布石、とすればわからないことはないです。私はこれを日常だと思っていますが、まぁそうではない領域もあるのかもしれません。
終わらなかったモノもあるみたいですし。次を見てみたいですね。是非。
意味領域を丸ごと背負う予定は私は無いけれど、それくらいの何かでありたいとは思います。
でも世界はもう一日じゃ変わらない。
でもそのきっかけの出現は一瞬で。
それを生み出す期間はまた長くて。
…理解の速度が最終的な世界の変化速度だから、世界の理解速度を上げるというのもまた一側面としてはありなのかもですね。私はしませんけど。
とはいえ世界の変化は人類の理解に直接依存するわけで、それはつまり「世界が解釈する」ことでうまく誘導できるんですね。きっかけからは直接出てこなくても。
つまり宣伝は重要だという話です。
それでも、と思う私は居ますけど。
まぁ願うのは未だ自由。
もうちょっと願っていたいです。おやすみなさい。
追記。
こういう文章はきっと「日記」としてでしか世に出得ないんだと思います。識っている人はわざわざ書かない。識らない人は元々書けない。中途半端で識った気分になっている状況でしかきっと書けない。
そんな気分になるには記事は重いしtwitterは軽い。私くらいの微妙な立ち位置だから書けるんだろうなとちょっと思いました。だからこれは私の日記なんです。