Imaginantia

思ったことを書きます

日記 0530

今日は実作業はほぼしていません。世界に想いを馳せつつテクスチャの改良とぶいちゃ!でちょっと遊びに行ったりワールド巡りしたりしたら終わりました。

あ、あとテトリスやりました。1時間半くらい。テトリス、「ちゃんと入る」と手が勝手に動いた状態で頭で色々考えられて便利なんですよね。

これに限らず、「考え事に集中したいが目に入ると邪魔なので目の働きを消し去りたい」みたいなケースありそうな気がしています。歩き回るとかもそれの一環なのかもしれませんね。

とはいえ Tetris Effect はめちゃくちゃ「エモ」に寄ったゲームなのでいいステージを探すのにちょっと時間を掛けましたが。これからは考え事するときにロータス・ガーデン遊べば捗りそう。ほんとかしら。

明日は某があるのでまぁ。あと現実をやる作業と、見えていない世界をもうちょっと在らせる作業が待っています。5月中に終わるかしら。終わるといいんだけど。


ところでどうやってワールドってつくるんですか?

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このワールドは ここ です。ここの作者、最近ちょっとついったーで話題に上がったように「1週間で1ワールド作る」ようにしているらしいです。つまりここは1週間で出来たワールドということになります。

正気か?

 

正気ではありません

とはいえ、まぁモデル自体があると考えれば出来ないわけではないとは思います。フルスクラッチ脳なのでワールド制作するときには無から始めることにしか頭がないがちです。

まぁワールドが実際にフルスクラッチかどうかなんて本質ではなくて、そこにある体験が重要なのは確かです。一応ギミックちょっとあったりもするんですよねこの人のワールド。一応ね。ただやっぱり「文字が世界から浮いてる」とか「汎用的な操作提示方法」みたいなのを見ると「体験デザイン」的な部分では別にそこまでやってなさそう、です。

で。問題は私がこれをやるにはどうすればいいのかという話で。

まず今一応ワールド制作に準じたことをやっているはずなんですが、Unityを開いて閉じる生活になっているわけです。ワールド制作に一番大事なのは「何がしたいのか」だと思うんです、創作一般ですけど。

今の時点で「したいこと」はたしかに存在しているんですが、にも拘らずその先があるような気がしてならないんです。今日その片鱗をやっと探せた気がするし、そのように「考えると何か出てくる」んですよね。

だから1週間で制作を始めてしまうことすら勿体ない感じさえして。…練習なんだと言えばそれまでですが。いやでも。いや人に依るか。うん。まぁ。

 

特に作業量がどうとかいう面じゃなくて、ディティール。「そこに在る物」をそこに在ると認知する能力。が、やっぱり必要だと思っちゃって。この人のワールドに「船」のあるとこがあるんですが、湖の近くにカーテンがあるんですよ。無から生み出していたらこれはできないなと思って。

つまり船→船乗り→休憩→水浴び→区分け→カーテンなわけですが (これはその場にある色々から読み取れます) この階層を潜ることがディティーなはずなんですよ。良い物を作る為には潜れるべきではあるんです。

まぁ、1段潜るということは1つ選択をするということでもあって、それは他に存在していたかもしれない最適を見逃すかもしれない、みたいな恐怖感で私は選択ができずにいるんです。多分。

潜ってないからこそ、その最適に至る可能性が存在する。してしまう。そういう甘えなんですよね。

だけどそれじゃあやっぱりダメなんです。今回は特に。

だからちゃんと潜ってあげたいんです。その選択をする為に、天啓を延々と待っています。

 

そういう観点から考えると、「参考資料」というのは「選択を与える道具」なんですね。つまり選択を導かなくて良い。それはそうなんですけど。

無の近くには何も見えないから、その状態ではやっぱり潜りようがなくて。近くを見る手段。

私は参考資料を見ない理由はやっぱり無いんですよね。今日も「反省」無く手癖のみで柄を描いていたわけですが。

まぁ今回については、見えているものがあったからいいのかもしれない。…でもその後はちょっと困っていたな。

柄を描いても馴染まないときにどうすればいいのか、みたいなことを思ったんです。でも結局手で線を書き足して終わりました。うーん。

今考えてみると「目的の情報が得られるかどうかが定かでない」ことに起因するのかもしれませんね。手を動かして終わる作業は作業期間がわかるものです。

どうにも情報収集に掛かるコストが有限であるべきだと思ってる節があるかもしれない。ブラウザ眺めてる時間に対する忌避感みたいな。しらんけど。

デザインとかだと特にそうなりがちなんだけど、知識系は大丈夫なんですよね。どうやら。その辺なんなんだろう。知識は知識なはずなんだけどな。選択の余地があるからかしら。

 

あ、そういえば。これ を持っているんですが読んでないことを今日の19時に思い出していたらしいです。あ。

あれか。こういうのを読んだときに知識じゃなくて資料だと思っているからダメなのか。

ちゃんと構造分析して知識にすればまともな引き出しになってくれるかしら。絵が描けないのもその辺でしょうかね。憶えられない…ことは無いと思うんだけど。

考えてみればこういう本は完全に資料集だと扱っているしそう言ってきた気がする。それがおかしいのかもしれない。

ディティールに関する情報を自分に蓄えることを考えてみましょう。うん。


とはーいえー。今作ってる世界についてはよくわからないんですけどね。建物があるということはその場所が使われたということ。じゃあ何に使われたんだろうね。

これについていろいろ考えを膨らませているうちに面白い問題提起が出てきたので寝る前にそれの考察をしてみようとは思ってます。はい。

世界は何で出来ていると思う?」って。

この問いかけは「答えの存在を暗示」しているのでちょっと安心して話を聞けるんです。これは唐突に頭に湧いた言葉なんですけど。ポリゴンか、原子か、はたまた何か…。世界表現の為の物体と、世界そのものの物体。いろいろ。

あとおまけで「現実世界と仮想世界は区別できるのか」という問を思いつきました。現状の話ね。

これは明らかに Yes で、例えば現実世界の計算負荷はやばすぎるからなわけですが、その帰結を以てしてこの問題を問うことに意味がありそうだと思うんです。つまり、その「区別できるとされている点」は本当に必須なのか。それが無視できるということなら、区別できない可能性もあるんじゃないか。

つまり私達がどこまで仮想の存在に落ちているかという問です。仮想世界で出来ることのみが認知できる存在として実在を全うするのであれば、三次元空間から四次元方向が見えないように、現実の「凄さ」は無視されてしまうのではないか。

例えば全ての物体が同期するだけの世界。でも足りないと思うのなら、それは。これは多分「仮想世界独特の表現」及び「仮想世界の存在価値」につながる話だと思います。

誰かが言っていたように今のこの仮想世界は人で成り立っているものでした。ふと思うと頭の中のワールド案に結構人が存在しないことが多いのでちょっとそこから考え直したらいいかもしれません。

みんなでのんびり居る情景を考えながら寝ようと思います。

おわり。