最近はまたなんか色々話題があってだるいので文章だけ置いておこうと思います。
プログラミングとは
世界のユーザ、プログラミングを理解していないのではないか? JPユーザのほうがよっぽど理解してるような気がするんだが
— phi16 (@phi16_) 2025年5月26日
とりあえずこれだけは言いたい。「あなたは既にプログラミングをしている」。
直接言えや、という気持ちも自分にはありますが、コンテキストを全部追ってられないし""そういうものじゃない""*1のでまぁここでいいでしょう。
プログラミングというのは「手を動かす手段」を指すのではなく、「自身の意図を何らかの形でコンピューターが動作可能な形で表現すること」です。コードだろうがノードだろうがトリガーだろうがやってることは変わりません。
コードは難しいと言う気持ちもわかりますが、「意図を表現する」ことの難しさは変わりません。つまり、「自分が慣れ親しんだ手法を使ってその難しさに立ち向かっている」だけです。
では、何故人々はコードを書くのでしょう?
これは他の手法よりも大規模開発に向いているからです。
- プログラムを気軽に閲覧可能 (専用ソフトウェアが不要)。
- 差分検知が容易。前の状態に戻すことが容易。
- エディタが十分に発達している。
根本的には「人間がテキストを扱うのが (他よりも) 得意」というところに起因すると思います。正確に言うと、テキストを扱いたいという需要が多い為、それを行うための基盤が十分揃っているという点です。
そして実は「ソフトウェアに依存しない表現である」というのがとても大事で。たとえそのソフトウェア (Unity でも .NET でも) がなくなっても、書いたプログラム自体は残るのです。それが動かないとしても。そしてエディタのバグに悩まされないし、エディタ上で暗黙に設定されてるパラメータに悩まされることもない。
かつ、(これは悲しい側面でもあるんですが) 同じ言語を使っている人が多いというのはそれだけ問題への対処法が知られているということでもあります。「こんな辺境で何か創作をやっている」ことに関係なく、業務でプログラミングをしている人、趣味でいわゆるゲーム制作をしている人、様々な人々と同じ言葉を喋ることができます。
この利点を捨てて独自形式に拘るのは私はよくわかんないです。
いえ、勿論、大規模じゃなければ別にいいんですよ?動けば動く。結局、困ることが無ければコード以外の手段で一切問題はありません。
だけど大規模な制作になるにつれてその大規模性が問題になっていくもので。それを不十分なツールで対応しようとすると無限に時間が溶けます。そう。適切な手段を取らないと、時間が掛かるのです。
制作に長年掛けたという事実自体は最終的な成果物の出来と一切関係ありません。「頑張ったことを褒めてほしい」人はそれでいいですけど。
大規模制作に耐えうるプログラム表現形態は残念ながら現在はテキストが最有力で、他手段では一切太刀打ち出来ていないと私は思っています。これは現状最適というだけなので将来的に変わる可能性は全然あります*2。でも今、何かそういう制作をやろうとして選ぶものではない。
別に「自分は自分の好きに作っていたい」でもいいですよ。いいですけど、その選択をした責任は自分にあるんじゃないんですか。
…というか、しょーもない非本質システム*3を学習する意欲はあるのに普遍的構造記述の手段を学ばないのは、シンプルに何故?そんなに囚われたいのか?
報酬のこと
前節のことは「良いものを作りたいのだろう」という強い仮定に基づいて書かれていますが、現実それが成り立っているかというと微妙なところな雰囲気があります。
まぁ、頑張ったことを褒められたいですよね。それ自体は否定されるものでは勿論ありません。ただエンジニア的でないというだけで*4。別にエンジニア的であることが良いわけでもないし。
でも、世間一般において「頑張った → なら → 褒められる」という構図があるわけではありません。つまり報酬を得たいなら、「報酬を得る手法」を用いなければいけないのです。
今から書こうとしているのは前節よりももっと普遍的な話です。
私は「報酬」みたいな話をしたときにお金の話にされてしまうのがすごく嫌いです。「そうは言っても~」みたいなことを返してくる人も居るんですが、それはあなたの文化圏と見識が狭いだけです。
ええと。
まぁそれはいいとして。
例えば…頑張って何らかのツールを作ったとしましょう。作っただけでは…自分が使うことしかできません。他人から何か報酬が得られることは、勿論ありません。それはそうですよね?この時点で「ツールそのものへの頑張り」と「他人から得られる報酬」には直接の相関がないことがわかりますね。
…でも、頑張りに対する報酬は既にあるんですよ。「ツール作成の達成」です。ある種の自己満足です。人やモノによってその重みは違うから、自分が便利になって大満足という人も居るし、人に使ってもらえて初めて満足できることもある。
こういう見えない報酬は無視して良いものではありません。ツールがあって。それによって人々が煩わしさから開放されて。結果的に制作へのハードルが下がったりクオリティが上がったりする。それ (= 界隈の活発化) 自体が報酬だと思う人も居る。クオリティが上がった結果良いものが増えて、それ (良いものそのものではなく、世界に良いものが増えること自体) を報酬だと思う人も居る。
特に技術者はそういう傾向が強いはずで。というか、そういう傾向の人じゃないと技術者にはなれない気がしていて。これは悲しい話ですけど。
何故なら、典型的な継続的金銭報酬はその時間労働への対価として払われることが多いわけですが、技術を持つ人間は、持たない人間よりも速く、目的を達成することができます。もっと言えば、技術が向上すればするほど、時間は掛からなくなっていきます*5。
ということは技術を向上させる行為は自らの労働への対価を減少させる行為になります。すごい話ですね?
一般にはこの「不平等」を単位時間あたりの対価の量 (俗に言う給料) のコントロールで対応すべきとされていると思うんですが、多分"その辺"の技術者はそれを強く望んでいるわけではない気がします。
例えば時間を報酬にしているケース。もっと大きな ("やりがいのある"?) 仕事を報酬にしているケース。また、自身の技術的貢献が残っていくことを報酬にしているケース。または「良くないもの」が「良くなった」ことが報酬になっているケース。
なんだかんだ、自らの行動に対する報酬はどこかにあるのです。その重みが人によって違うだけで。
単純な話、有料よりも無料で公開したほうが使ってくれる人は増えます。「使ってくれる人が居る」ことが報酬になる人はそれで良いわけです。
でも世界はもうちょっと複雑で。
有料のアセットが出ている状態で同一機能のアセットが無料で公開された場合、人々は自然に無料側に流れていきます。つまり「無料で公開する」ということは「有償公開している人の報酬を減らす」行為なので、端的に言えば恨みを「買う」可能性があります*6。つまり無料公開によって実質報酬がマイナスになる可能性があります。
また、「有料アセットを購入する」ことには、唯そのアセットを得るということ以外にも「購入したこと」「所有していること」「それを使って何かを作り出せること」「同じものを購入した人と共感できること」などの報酬があります。具体的リターンが無かったとしても人を支援することは嬉しいし、極端な話で言えば「支払ったこと」それ自体さえ「ネタ」になりうるわけです。
いわゆる市場経済的な価格の平衡化が起きるのは「競合」がある場合だと思うので、アバターのようなアーティスト性が強い場においてはそれは期待できません。ツールのほうがそういうことが発生しやすいと思いますが、現状ではツールを作る人は限られている上、同一規格であるほうがユーザーとしてはありがたい為、「一度広がったツールが結局強い」ということが起きがちだと思います (これが独立した2界隈で同時期に起きると競合っぽくなりますね)。
これらは、つまるところ、「人との関わり方」と「他人から得る報酬量」に強い関連性があるということです。当たり前ですね。
極論を言うと、ツールがどれだけ残念だったとしても、デザインがどれだけ残念だったとしても、人が魅力的であるなら、それだけで購入するモチベーションが発生しうるということです。現代においてはそんなに変な話ではないと思います。
勿論――だからと言って雑にやっていいという話ではありません。それによって「人」としての評価が下がったら、当然報酬量も下がります。
これによって現代の人々は「観客に求められる姿で居ること」に報酬があることになります。なんとも微妙な話ですが。
なお、「これが良いことかどうか」は今回とは別の話です。
もうちょっと書いておくと「金を払う領域と払わない領域が変わっている」ということで、なんか典型的な販売スタイルがうまくいかなくなる代わりに異常に思える仕組みがうまくいったりしているの、こういうところからなのでは、とおもう
— phi16 (@phi16_) 2025年5月15日
まぁ、だから、「いいものをつくる」以外にいろんな手段が取れるわけですよ。それ自体は悪いことじゃないと思うんですよね。
「そういう手段を取らなきゃいけない」ことは悪い成分かもしれませんけど。
高度な技術的コンテンツをどれだけ頑張って作ったところで、それよりも人の「頑張り」が見えるパフォーマンスのほうが圧倒的に人々の共感を得やすいのです。それはそう、ですよね。
「頑張り」を見せただけで金銭的報酬が得られるわけでないのも、それはそうです。「行動に応じた対価」が得られるというだけですから。
欲しいものがあるなら、それに見合う行動を取らないといけない。
…例えば今文章では散々「人々」などと書いてきましたけど、実際にはそれが「個人」であることをちゃんと認識しないといけないわけですね。
そんな変な話ではないと思います。
終わり
もう一個書こうと思ってたことがあったんですがまぁこれでちょうど良い気がしたのでとりあえずはいいかと思いました。
ちなみに私がものを無料公開するのは、「(私の) 可能性を見てもらうことで (何かが出てくる) 可能性を増やしたいから」だと思います。面白いものが見たいから、その (新たな面白いものという) 可能性への (出てくるかもしれない) 可能性を、報酬に感じているような気がします。