こんにちは。最近なんとなく言いたくなってメモしておいたことについて書きます。
「物事に正解はない」
ってよく言いますけど、私はそれは言葉に操られているだけな気がします。悪く言うと思考放棄?
事実として、確かに「(あなたの考える)『物事』に正解はない」のだと思います。だけどだからと言ってそこで止まっては勿体ない。
ここからは2つの方針があって。「正解がないままでどうにかする」のと、「物事を書き換える」というものがあります。
よく居る人間は前者を選択していて (何故なら後者の手段を認識していない為)、結果として人々の認識世界は「閉じる」傾向にあるように見えます。
いわゆる「合理的」という言葉がありますけど、例えば「早起きすることが合理的なので → 早起きをすべきだ」みたいな言明は、言葉に操られているだけに私は見えます。
早起きしないことでそこに利点があって、それは私達人間の「よくわからない性質」に伴っているもので、それを無視する行為は合理的ではありません。
つまり本当に合理的な選択というのは、現時点だけでなく未来過去あらゆる状況を鑑みて決定されるものです。そこには不確定要素も当然含まれます。
これもよく言う話ですが、例えば「健全な環境を作ったら人々は健全になるか?」と言ったらそんなことはなく、「別の方法で掻い潜る」か「別のところに行き、人々は居なくなる」か、みたいなところになるでしょう。
それは「人」を合理的選択に取り込まなかったからで、即ちその選択は結局合理的ではないだろう、と私は思います。
中途半端に「キレイ」な人間がそういうことをやろうとする傾向が往々にしてあって (逆に真っ黒な人間がやろうとするという話も聞きますが)、なので私は「キレイ」にならないように、そしてキレイな人間を「気をつけて」見るようにしています。
脱線しました。つまりは「人を計算に入れずに決定しようとする人々」即ち「正解にたどり着けないからといって粗雑な決断を下す人々」がいて、そして私はそこで努力を怠ること自体を否定はしませんが、努力を怠っていないと主張する人には否定的になります。
あなたは頑張っているのかもしれないけど、最初から間違っていたらそれはどうしようもないので。
そして、私は「物事に正解があるようにする」即ち「正解が生まれるように問題を縮め、それを積み重ねていく」というのが善い解決だと思っています。
「正解がない」のは観点が無いのが原因なので。前にどこかで書いた気がします。
ただそのためには「言葉」に惑わされないようにする訓練が、技術が必要で。なかなか簡単にはできません。
でも、できていない状況を反省し、できるべきであるという信念で在るだけでも人々は「善」に近づいていくような気がします。
「嘘」について
よく「嘘」という言葉の意味合いに、科学系の人間とそれ以外の人間で齟齬が生じるという話を見かけます。
私は前者側の人間の意味合いで嘘という言葉を使っており、意味は「事実と異なる命題を述べること」です。
ちなみに後者の人間の言う嘘というのは上に加えて「人を騙す意図がある」あたりでしょうか。
ただ科学的コンテキストにおいては「騙す」という行為は存在しなくて (どんな意図があろうとなかろうと客観性が全てなので)、結局は同じ意味合いになります。
では「間違い」という言葉を使わないのはなんでだろう、と考えましたが、普通に使いますね。だからどっちも同じ意味の言葉として認識していて、片方に一般と齟齬があるというだけなのかもしれません。
ちなみにこの意味の違いのせいで喧嘩になるみたいな話題も見ますが、それは根本的に「相手が同じ意味で言葉を使ってないかもしれない」という思慮がないという話なので、この言葉自体とは関係ないような気が私はします。
更に言うと、こういうときってお互いが悪いとよく言われる気がするんですが、こういう「自分の思考外に関する思慮」がないのは大体非科学的コンテキストの人間という傾向がある気がします。経験則ですが。
ところで科学的コンテキストだと、頻繁に「前提を置く」ということが行われます。真偽はさておき「これが正しかったとする。」というやり方です。
その中で言葉を喋っていると「正しい」という言葉が揺れます。それは「事実と合致する」という意味ではなく、「今のところ話の筋が通っている」という意味です。
特に「事実」という言葉は、なんか簡単に手元にあるように人々はきっと感じているのでしょうけど、そうでないことを科学的コンテキストの人間は知っています。
だから軽々しく「事実と合致する」という意味で「正しい」なんて言いません。事実がわからないから。
つまり「正しさ」とは「整合性」であり、「嘘」とは「不整合」のことなのです。
なので、私は例えば事実と異なることであっても、相手の言ってることに矛盾が無いと思えばそれを受け入れます。そこに「嘘」はない。相手が何を思っていたとしても。
逆に、もしもそれが事実であっても、何らかの自分の認識と整合しないのであれば、それを指摘します。そして精査し、何らかの結論を出してから、話を戻します。
出す結論には「今言ったことが間違い」「私の認識が間違い」というものの他に、「これからの話には影響が出ないので放って置く」というものがあります。これもまた合理的な選択。
空想上の世界の話をするときに「気になる部分」というのはこういう経験によってだいぶ異なってくるんだろうなと思います。
まぁ (論理をちゃんと通ってない) 科学的コンテキストの人間は実際硬いこと言うケースは多いと思いますし。
最終的にどこに着地させたいかによって「合理性」が異なってくるという点もあります。「面白ければいい」のなら、別にどれだけ破綻していても非難されません。本当にそれで面白いなら。
何の話でしたっけ。
ああそう、私は「間違っていることを言うこと」自体には強い抵抗は無いけど (そうなら何も喋れなくなりませんか?)、「言ってることが整合すること」は気に掛けたい、ということが言いたかったのでした。
そして逆に…観測可能な事実 (= 私の認識の一部) と異なることを気軽に発言するような人は、丁寧に疑いながら聞きます。
私みたいな人間が希少というわけでもないので、そういう人たちは「そういう層」をターゲットにしてないというだけなのだと思いますが、まぁ、そういうものを見ると悲しくなりますね。
「考え方」を知らない人
意外と…ものを考えるって難しいです。これを実感したことない人いますか?わかりませんが。
なので「ものを考える方法」それ自体が学問になっています。そうですよね。それくらい複雑なものです。
そう考えてみると、逆に言えば「ものを考える方法を知らない人が居る」ということなんですけど。
じゃあ「ものの考え方を知らない人が、ものを考えられるのか?」って。
できないよね。
ちなみにこれは文字通りの意味で、「学問をやってないとものを考えられない」という主張ではありません。
でも実際、大体の人は「考え方」を知らないはずなのです。世界は回っておりますが。
それは単に「ちゃんと考えて結論を出さなくても物事はそれなりに回る」というだけで、別にそれはそれで良いことだとは思いますが。
私が気になったのは、「『自分の考え方が間違っているのかもしれない』という懸念を持ったことがある人がどれだけ居るのだろう」、です。
考え方をうっかりすると容易に間違った結論を出すことを私はよく知っています (ので、数式を使って精査するわけです) が、まぁ、人ってそうじゃないよね。
いや、これはなんというか、今更の気づきの話なんです。
人々は「考え方」を知らないので、「正しい考え」を聞いてもその正しさを理解できないのですね。
そうだね。そうだわ。
人に優しくするって難しいですね。
でもこれによって前よりももうちょっとだけ優しくなれるようになったかもしれません。
「おもしろいもの」
ここまでは言語と認知の話だったんですが、あとはコンテンツの話題が2つありました。
- 面白くないものを世に出さないという倫理
- 「人間が面白い」というのはよくわかってる
あんまり丁寧に書いてもしょうがないのでたらたら書きます。
私は好き勝手やっている (= どこにも属していない) 人間なので、自分が面白いと思ったものしか作っていません。
というか作る気になりません。
が、まぁ仕事で何か、という話になったときは当然それ以外をやる必要にもなるんでしょう。
私はそういうときは原則「面白いということにする」即ち「自分の興味を広げる」ことで対応していますが、それだけで済むわけでもないでしょう。
で、そういうときに「面白くないのでやらない」と主張できるべきだったりするのかなあ、って思ったのでした。
世の中を「面白くなくさせる」方法というのは世の技術者は無限に持っているはずで、まぁ頼まれてやる人も居るのかもしれません。
が、それを止めるのもある種の技術者倫理なのではないかと。「面白くない」と。
「面白い」という言葉は多義なのでご想像にお任せしますが。どれであれ意味が通るように読めれば良いので。
まぁ小さな「面白い」コンテンツが誰でも「面白い」かというとそんなわけはないので、「面白いコンテンツが増えるように」という話題ではないんですが。
でも「面白くないコンテンツが増えないように」というのは、世の中的には大事なことな気が、少しだけしました。
そして、まぁそれと一切関係ないんですが、人間は…面白いです。ほっとくと無限にコンテンツが湧いてくるし。
でも逆に言うとそういうものは「人間」に依存したコンテンツで、そしてその分野それ自体は枯れた領域だと思っています。確かに普遍的に面白いんだけどね。
だから「新しいコンテンツ」を求めてる人に対して「人間」を出してくるのは何か違うのではないか、って思った。
創作というのは人間が持つ何かを抽出し濃縮してできた結晶のことで、その綺麗になった結晶を見たくてコンテンツを追い求めている、ような気がする。私は。
人が「人でない姿をして顕現する」というのが好きなのかな。いや、人じゃなくてもいい。概念が顕現するのでもいい。
寧ろ人じゃない…その「何か」そのものが最終的に立っていると嬉しいのかな。
まぁこれは私が「人間」が苦手という話と絡んでいるので一般的な人がどう考えているかは知りませんけれども。
面白いものがみたいですね。
おわり
なんだか最近「言葉が苦手」なタイプ (ダブルミーニング) の人をよく見かけます。前に書いたブログもそうだったし。
こういうのを年齢とか経験とかで雑にくくるのは好きじゃないんですが、昔から周りに居る人にはあんまりそういうことないから不思議だなぁと思ったのでした。
そうすると界隈の違いでしかないのか、と思ったりして。即ち「そういう人たちではそういう言葉が平常である」のかもしれなくて。自分が間違っているのかもしれない。
まぁ自分が間違っているのかもしれないと私はよく考えるけど、相手はそういうことがあんまりないように見えるので、こういうときって大抵ずれてるのは向こうなような気がするんですけど、不安にはなりますね。
どうしたらいいのかは未だによくわかっておりません。最近は「話を始めない」のが良さそうな気がしています。つまりまず創れってことですね。
それは本当にそう。
自然言語は引き続き使いものにならないと思うので、それ以外でどうにか物事を語れるように努力します。
では。