Imaginantia

思ったことを書きます

雑記 視点について考える

最近もまた元気な画像生成AI分野を見て色々考えてしまったので適当に吐き出そうと思います。

考えないのが一番いいと思うんですが、私にはなかなかできないらしい。

話題そのものについては私は答えを持っているので別にいいんですが、どちらかというとそれを取り巻く人間について考えます。

 

前に書いたこととして「AIとアルゴリズムの区別が難しい」という話があります。それはブラックボックスとして捉えるべきものだから。

即ち「これまで人はコンピュータの支援を受けていたにもかかわらず、何故この化け物を受け入れられないのか」という問があります。

開発側にとっては「これらは区別できないもの」だが、利用者側にとっては「これは違うものだ」という感覚が生じています。

対し、現在話題になっている Adobe Firefly については一般に受け入れられているという結果になっているようです。

これについてもやはり「何故他のAIはダメで、これは受け入れられるのか」という問があります。

同様にこれも、開発者にとってはそれらの間に区別はなく、利用者にとっては違う気持ちのようです。

この差はどこから出てくるのか。

 

事実として、これらの「異なるもの」は、たしかに違うものです。それは誰だって同意します。これはりんごを2つ買ったとしても同じものではないという意味です。

それはどんな尺度でも言えます。確かに画像生成AIの仕組みは既存のアルゴリズムとは一線を画すものですし、Adobe Firefly は他の子達とはデータセットが「違う」のでしょう。

だけど、敢えてそれでも開発者は区別をしないのです。何故ならそこには視点があるからです。

物を区別するためには視点が必要ですから。

 

開発者 (タイプの人間) の視点は基本的に厳格で、客観的なものです。だから「コンピュータによって画像を生成している」という客観的観点において、あれらは区別できません。

同様に、「インターネット上にある大量の画像を食わせて学習している」という客観的観点において、あれらは区別できません。

この観測そのものも、客観的なはずです。即ち、誰でも「この視点に於いては、確かに区別はできない」ということは認めるところでしょう。

だから問題となっているのは「この視点そのもの」についてのはずです。この視点は正当か。

 

逆に利用者側として「これらは異なるものである」と主張する視点ももちろんあります。

確かに「自分の絵が利用されているかもしれないシステムと、そうでないシステム」という違いがあります。

確かに「データセットの出処がはっきりしているシステムと、そうでないシステム」という違いがあります。

なお、この視点は客観的ではありません。何故なら、そこに「絵が利用されているかどうか」「データセットの出処が本当に公表通りなのか」を知る方法がないからです。

だから、この視点を開発者側が採用することはできないでしょう。

 

で、根本的な分断はきっとここにあると思います (これは私の意見)。

主観的視点者の言うところでは「クリエイターを守る姿勢が大切」みたいな話もありますが、これもまた主観的なものであることは客観的に言えるでしょう。

そして主観を基準とする者に対しては、実は外から出来ることって無いのです。つまりこれは「無敵」です。間違いが存在しない。

それで良い、という意見も (実際に) 数多く見ますが、開発側の人間はきっとそれが悲しいことだと思っていることでしょう。

主観的評価の危うさを知っているからこそ開発側は客観的評価を重視するのです。

 

なかなか「右クリック禁止」は面白い話題だなと思います。

本当に無知なら右クリック禁止という発想は出てきません。これは昔のインターネットを知っているから出てくる言葉だと思います。

例えば右クリックを禁止にすると、確かに手動でのダウンロードは少し面倒になります。なるほどこれに効果があるという意見もあるでしょう。

しかし、「右クリック禁止に意味がある」とインターネット上で公言することは、「自分はインターネットの仕組みをわかっていない」と言っているのと同じ、という意見もまたあります。何故ならブラウザで閲覧している時点でダウンロードは完了しているのですから。

対して「それ自体に効果がなくとも、そう明言することで姿勢を明示化することに意味がある」という発言もありました。これは確かに言い分としては通りますが、この文法の危うさもまたあります。

1つは、効果がないことを実行することの是非。もう1つは、姿勢が明示化されていると判断することの是非です。

 

効果が無いことをやっても問題ない、ということは実のところあまりありません。「それをやっているという事実」がまた情報であるからです。先程挙げたように、これをただ堂々と言うということは「インターネットの仕組みがわかっていない」即ち「情報弱者である」ことの宣言だと言えます (これは偏見ではなく事実なはずです)。要は狙われやすくなるということです (これは傾向に基づく憶測)。

この構造はいわゆるインターネットビジネスのありがちな形態なんだと思いますが、私は別に詳しくないのでこれ以上は書きません。

もう1つの「姿勢が明示化されていることの判断」即ち「姿勢を信頼するか」という話題についても根本的には同じです。要はこれは「そう言っているから信じる」という意味です。

本当にどうしようもない話ではありますが、どれだけ「ここから学習しました」と言ったところで、こっそり別のデータが入っている可能性があることを否定できないのです。客観的には

実際 Adobe Firefly のデータセットについては「規約上クリーンになるはず」なだけで「実際にクリーンかどうか」は別の話のようで、つまりAIの現物そのものはクリーン性を持っていません。それでも良い、と判断されているのは「それでも規約があるから」ということだと思います (ただの責任転嫁のための規約だと思いますけど)。

 

要は、主観性に基づく判断は、それそのものの正しさを証明しないのです。どころか逆に立場を弱める行為になるという認識さえ存在します。

だけど主観だけを見ているとそれに気づけない。

そういえば逆に、主観派の人間が「客観派の人間は (人々の主観に関する) 視野が狭い」という旨の発言をしているのを見かけました。まぁ半分ぐらいそれは事実でしょうけど、半分くらいは「敢えて主観を無視している」ことでしょう。そういう発想が無いこともまた視野の狭さ…と言えるかもしれませんがこういうのっていくらでも続くんですよね。

 

主観的に「良いもの」を求めている人たちの問いに対し、客観派はどうしても求められている以上のものを出さざるを得ません。何故なら客観的にそれを良しとしたいからです。

そしてそれは往々にして不可能となります。悪魔の証明みたいな話です。だから諦める気持ちにもなる。

さらには本当に欲しかったものはそんな重いものではなく「ただ一言」だった。みたいな状況になっている現在です。

それはまぁ、主観派を見限りたくもなりますわね。しらんけど。

 

だけどそういう主観派がSNS上で主流であるということもまた言えるのかなと思います。これは所謂「教育の失敗」の範疇でもありそうですが、根本的には人類ってそういうものかなとも思います。

だからそういう視点を持たなければならないのですね。客観的に主観を読み取らなければならないのです。

これがなかなか難しく、試行錯誤やるにも地雷を踏んだら終わりみたいな点もあり、永遠にこの状況は変わらないようにも思えます。

まぁ、社会って難しいということですね。

 

そういえば個人的に思ってることとして、「物事に詳しくなるといろんなものを同一視できるようになり、意見の違いに寛容になる」ことがある気がしています。理解の幅が広がるということです。

逆に言えば意見の対立が存在しているその時点でお互いに詳しくないということ。喋るのは楽ですが学習はそこそこ面倒ですからね。でもやっぱり喋っている時点で「自分の不理解を晒している」自覚があってもいいんじゃないかなと思いました (私の意見)。

だから私はあんまりこういう文章書きたくないわけですけど、まぁ自らの敗北を遺すという意味で…。人に迷惑は掛けてないし。

 

客観性を求めすぎるエンジニアリングには私も困っている点があり、だからと言って主観に基づく判断が正しいものだとは思えません。

いい感じにいい塩梅を探っていきたいところです。もともとクリエイターってそういうものだとも思うんですけど。


 

ちなみに、この文章は「現状を観測して考えたこと」を人間に焦点を当てて書き連ねているだけで「私がどっち派である」「学習の是非」などは一切書いていません。

人類が文章をあまり読めないことはそこそこ知っているのでそれくらいはいいんですけど…。