Imaginantia

思ったことを書きます

日記 0613

はい。今日は進捗をしました。これについては予定通りでいい感じです。予定通りすぎて面白くないですね。

あと予定通りちょびっツを見ていました。言いたいことがあったとしてもその存在について言及してしまうと色々と漏れ出てしまう可能性なので言及することができないなぁということを思いました。一般に私はそれによって何も言えなくなることが多いです。

根本的に漏れ出てしまうモノが存在していること自体を私は隠す傾向にあるんですが、恐らくこの傾向自体もそのモノから生まれた副作用なので、その傾向の存在自体を明言化することが出来ない段階にありました。見ての通りめっちゃ婉曲な感じの言い方になっているわけです。

所詮人は人なのでそんなところで無駄な制約掛ける必要はないんだけどなとは思いますけど。いつからの癖かしら。

インディーゲーム系が好きなのは元々ですがこの気質には合致してるんですよね。アレは結構概念抽出の側面が強いので、モノではなく概念としてゲームを消化できるのです。だから所持ゲーム数がいっぱい溜まっていくんです。物語ではなく、概念の数だけ。

まぁ、何も言わないと何も無くなってしまうので、折角なので個展を作ることになったら「私が影響を受けたモノ」を知っている人で且つ「私と視点が同じ人」だけがわかる形で置きたいなと思っています。

 

そういえば物語については割と私の持った「現実」がそこそこ強いというのがありました…けどそれは最も公開しない情報でしょうね。言語じゃないから共感の枠組みに乗らないし。乗せないし。

いろんなものの影響の存在を受け入れなくてはと思う私は結構最近強く居るんですが、でもその前に「溜め込んだものを全部吐き出す」ことをしたいと思う所もあり。

まぁ、総じて個展を作るのはとても都合がいいのです。


最近、小さなことをちまちま思うことがあります。音楽、というのは本当に私にはどうやら向いてないらしいです。

ぱちぱち鳴らして、たのしい!っていうのはわからなくもないんです。いや、わかるんです。でも「それを作り出した自己を受容できない」感じがあるんです。

この話どっかに書いた気がするんだけどなぁ…根本的な「音楽制作」に対する忌避感がある。多分「音」は大丈夫。

昔、物事を結構「不思議な直感」で観ていた気がするんです。その時に、色んなものに対して「私向きではない」という解釈を結構割り当てていたんだと思います。それが延々と続いていて。

まぁそれが直感的解釈で、論理的解釈としては「作った音楽には自己が出るので、自己の表示を避ける私の傾向がこれを避ける」というものがあるんですけど。

その点それをある程度緩和してくれていたと思っていたのがクだったんですよね。少なくともそれまでは聴くことすら避けていたので。

 

でもまぁおかげで聴く側の経験は持ったかもしれないけど作る側の経験は当然無くて、それについては何も変わらないようです。

具体的なメロディみたいなものを作り出してしまった瞬間、概念が具象に落ちるという、なんか、こう。まぁ具象が作れないということか。

理想が理想である為に、それから遠いモノを棄却してしまうとか。そうね。それだけならいいんだけどねー。

「そこに芯が無いから」というのは昔考えていた話ではありますが、じゃあどう置くか、概念を結晶化して具象として解釈させるか、は結局わからない話なのでした。

「可能性を失う」みたいなことが頭の片隅に出てくることが多い気がする。

 

まぁやるべきことは「自分から作らない」つまり実物のちゃんとした解析をやる、ことだと思います。なのでそんな深刻ではないんですけど。


こう、「専門家じゃないので新たな視点があるかもしれない」みたいな言い方する人、いるじゃないですか。

どう考えても阿呆なんですけど、でもそれを阿呆と言って片付けるのはおかしいじゃないですか。というか勿体ない。

「専門家で且つ新たな視点を持つ人」になったら一番強いですよね。存在すれば。で、もし存在するならこの話を片付けていいんですよ。

でもそれが存在するかわからないんだったら、可能性は棄却できないじゃないですか。しちゃいけないじゃないですか。

で、「新たな視点が生み出したモノ」があったとして、それを専門家と呼ばれる人が理解できない可能性ってあるんですよね。

私はこれをプログラミング領域で山程見ています。大昔から知られている概念を再発明した、って言って、その概念の専門の人はそんなこと常識だから何も言わないんだけど。 「発見した人」は人伝に概念を伝えていって、多くの実用を経て「時代」程になりました。Promiseのことです。

「理解」というのは当然「今生み出した人」が見ている理解で、それは逆に専門家より少ないかもしれません。でも、少ないからこそ、愚かに世界を前に進めることができるんですね。

世界にはいろんなレベルの人間がいます。「わかってしまう」とわかってしまうが故に世界を先に進められなくて。そういうのはどこからくる「不幸」なんでしょうね。

 

何が言いたいかというと、「正当じゃない立場」が価値を持つことがあるということで。まぁ価値を証明した時に初めて価値になるんですけど…。

私は結局未だに「本当の私の立ち位置」を示すものを作っていない気がするので。まだ私自身を認識できないんですけど。

いつかちゃんと「在るべき処」に居られたらいいなぁ。あるのかなぁ。


ところで一般に、「二回考えると行動が元に戻る」ことってあると思うんです。

某さんの某を観測したものの、それについて発言するのはよくないのかもなと思って何も言ってない現状にあったりするんですけど。

それって当然観測していなかったことと外側からは区別できないんですよね。それを使って私は情報を出さないようにしているつもりなんですけど。

だからもし、観測していないことが「観測された」結果今に至っているのだとしたら、それは私の意図外なわけです (仮定の話です)。なので情報を公開するべきである点はあるわけです。

でも、「この結果を私が防ぐべきなのか」ということを考えると、きっと私はそんな力を持っていないし持つべきではない気がするので、私の行動の影響は本質的に無いような気がするんです。

だったら、何よりも私自身が無として居られる、「何も言及しない」という行動に戻ってきてもおかしくない、という結論に至っているんです。

 

こんなことをしょっちゅうやっている気がするんですけど、あまり言語化したことが無いですね。

特に言語化するとその行為そのものがこの因果に巻き取られちゃうので言語化できないことが多いんです。

今回は「こういう話を書きたいと思っていた」という副作用に頼る形で書いています。ということを書くべきではないのかもしれないし、そう考えると何も書かないべきなのかもしれない。

いえ。日記はこういう話を正しくないとはいえ書くことができるので、ありがたいんです。だからきっとこれでいいんです。日記が存在することが明らかでない限りは。

  • あることをしようとする
  • でも影響を与えたくないので、しないようにする
  • でもしようとしたことは伝えたい
  • でも伝えるべきではない気がするので、伝えないことにする
  • でもこの葛藤があることは知られたい
  • でも知られることは巡って色んなものを公開してしまう可能性があるので、何も言わない
  • こんなことを考えているということを書きたい
  • でも本当にそうなのかは他者には区別できないので、書く意味がない
  • でもそれについて考察している現在を書く価値はあるかもしれない
  • でもこれくらい他の人もやっているかもなので、私が書くことじゃない
  • でもそうだとしたらもっと話が出ていてもおかしくないので、思う以上に書く意味はある
  • でも根本的にそれで何かが変わるとは思えないから、結果的に私が何か書く意味はなかったんじゃないか

延々と続きますね。同じことやってる人、いるとおもう。

「逆を張る」ってそういうことだとは思うんです。ちがうのかな。

 

芸術とかも似たような傾向あるじゃないですか。

  • わかりやすい作品を見る
  • ならばとわかりにくい作品を作る
  • ならばとわかりにくい作品の文脈をベースにしたわかりやすい作品を作る
  • ならばと以下略
  • そうやって続いてきた文脈をぶち壊すような作品を作る
  • これによって出来た文脈を壊す作品を作る
  • 文脈を壊すという文脈を壊す作品を作る

超限順序数じゃないんだから。でもこうやって世界は続いていくんだと思いますよ。

問題は「ある作品」が出てきたときにそれがどこにいるのか考えてしまうことで。

「知っている人」は文脈を知った上で評価し、知らない人は文脈の存在を知らぬままに評価する。

でも、作品自体は「文脈の存在を知らぬままに評価する人を対象に描いている」可能性がある。するとどっちが正当な観察者たりうるのか。

…という問は、私が前にやりたかったことでした。

「モノを観る」って、本当に難しいと思うんです。

だから私は「そこに可能性が残ったモノ」について語りたくなくて。だから明白なお話ができる厳密な世界を漂っているのかもしれません。

その可能性について話すことに価値があるという話をする人はあと3回回ってきてください。 当然私よりも話が深い可能性はあるわけですが、それは本質じゃないですよね。 結局自分の中でどれだけ回るかであるなら、そこに追加領域を仮定して手を伸ばすのは価値のある行為です。どんな領域でさえ。 その仮定を覆したい気持ちはありますが、主観世界はそんなに多くないので難しいような気がします。どうなんでしょ。

 

…そういう面で「語っている人」が居たとき、「それは本当に全てを識った人」なのか「本質には至ってない人」なのかってわからないんですよね。

だから「何かの話ができる人」って…特異なんです。すごいでもおかしいでもなく。単純に違うんですよね。生き様が。

…こんな話、別にどんな時期にでもできるのでしょうから、もっと若いころにやったという人が居るのかもしれません。

でもその発言をした時点で「やった過去がこの言及と一致していない可能性」を考慮していないですね。

いえ、それを含めて、その曖昧性を込みで、というのなら…それはどっちが指摘するべきなのでしょうね。

「質問者は回答者が出しうる全ての回答を想定して質問を構成するべき」なのか、「回答者は質問者の問が持つ真の意味を完全に推察して回答を構成すべき」なのか。

どっちも頑張るのが一番でしょうけど。疲れますしね。

 

まぁ、多分事実に一番近いのは「こういうことをする人はそう多くないけれど、その希少性は価値ではない」なのでしょうね。モノじゃないし。

というかこんな話をしていたらほぼ確実にlogicの話を通ると思うんですけど、別にそんなにlogicやっている人を見ないのでそういうことなのだろうな。

同じ概念がlogic外に存在すれば別だけど、それは苦労がすごいことになりそうで。いや、というよりもあまりにも検索下手と言えそうかしら。

存在しないモノについて考えても無駄か。いや無駄ではないが。未だ決まってはいないので。

 

哲学がこういう概念を含有していた時代を見てみたかった、と思う節はあり、しかし今の分離された状態が優れていると思う節もあり。まぁそれは冗談だけど。

人類、ほんとどこまで考えてるんでしょうね。私はよくわかりません。

よくわからないので、私は思いつく次を思いつくべきだと思って過ごしているだけです。


言語化されないであろう話を珍しく書きました。いい機会ですね。日記をそういう機会にしたいとは思ってはいました。

さて。

今日はちょっと現世に存在する日です。なのでごちゃごちゃやって。あとは昨日と変わらずちょびっツ見ながらゆっくりやっていく感じで。

おやすみ。