女児服の話ではないよ。それについてはまぁそのうち書きます。
…色々丁寧に書こうかと思ったんですけどまぁやめておこうと思った。ので断片だけ。
あ、ぶいちゃ関連とは一切関係ないのです。これは依代近辺の話。
- 「終点に近い人間」はおおよそ「どうしようもない」のは一般的な認識だと思う。そしてそれは終点の曖昧化を意味する。何故なら境界は機能的なものであり、実質的な終わりは容易に観測できるものではない。端的に言えば、機能的終焉の前に実質的終焉に到達しているだろう、ということ。
- 特に何かを創る人間にとっては直観的な話で、つくれなくなったらおしまいです。それは本当におしまいなのだとおもう。特に現代において「人は重なっている」ので、観測上観えるレイヤーとしては終わりはある意味で明らかなのです。他のレイヤーが継続していたとしても。
- では、創ること以外ではどうか。一つ思うのは「知性」。それは即ち「正当な反応」のこと。ただ、それを考えると一般的な人間は正当な反応が出来なさすぎる。それはlocalな範囲でもそうだし、globalな範囲でもそうだというのは最近騒がしい話です。人は本当に意思疎通がとれていない。相手の言っている意味をわからないし、自分の発している言葉の意味もわかっていない。そしてそれで済まそうとしている。
- 私は嘘をつくのが嫌いです。だからそういう人を否定したい。結果として、「正当な反応がとれない人は、既に終わっている」ように視えてしまうのです。生きた人間がまず少ない。
- まぁ、「始まってない」のかもしれません。それならば救いはある話です。だけど、なんとなく、諦めた人が多いようにみえるのです。嘘をつかないことを諦めたり。可能性の追求を諦めたり。そういうのは、どうにかなるんでしょうか。よくわかりません。
- 生きた人間の濃度はやっぱりtwitterは高いなと思いました。それは要請が強いということでもあるんでしょう。これも普遍的な現象ですね。
- 嘘はバレなければいいわけですが、バレる可能性についてはちゃんと考えないといけないですよね。ねぇ?表層的な理解しかしていないというのはそういうことだと思うんですよ、人類。
加えて。
- 物語を多く見てきた人間は、いろんな状況に対する共感能力が向上するような気がしています。しかし、それはさらに進むと「共感しない能力」になるような気がしました。何故なら、わかってしまうので。
- 因果という概念をわかってない人間は本当に多いのだろうと思った。願いと区別できない人類が。自分の世界を閉じる人が。
- あと「異常者への共感」が出来ない人類も多いですよね。いえ、それをきっと健常者と呼ぶのでしょうけど。異常者っていうのは永続的な話ではなく、ね。
- 敬意とか誠意というものを人類は本当に忘れてしまったのだろうか。
- それも含めて真剣にやれよと思う。区別しないことも。誠意無きを表すことも。それを全て自覚の上で行うならば。
- 可能性検討の全てはエゴでしかないだろ。
- 誰かの異常行動を許す存在はまぁ一部の責を負っているとは思うけど、許容者ではないんだと思う。これもよく言われる誤謬の一つか。
- 私は物理存在に依存する気はない。
全人類、もう少しまともになってほしい。こんな呪いを吐かせないでほしい。
始まって終わる。予測可能な範疇であるならば、それをそのまま「得る」べきだろう。それを「得ようとしない」ということは、責任の放棄そのものだと。
与えたものはどんな形であれ。
良い物語を。