今日は進捗をしました。順調だと思います。スケジュール上は順調でもなんでもないんですが、それを見越した脳内スケジュールの上で順調です。
あまり書くことがないね。もはや後は走るだけみたいな感じなので、特に日記に意味はない期間かもしれません。まぁのんびり書きます。
この前と続いて大きな仕組みを概ね作り終わったところなので、明日は小さな隙間を埋めていく作業になります。それっぽいね。
隙間を埋めて、仕組みと仕組みをつないで、後はいろいろ塗っていったら…完成です。完成が見えているってすごいですね。
って思ったけど私は基本的に「完成を視てから作り始める」派なのでした。今回は複数人作業なので完成が見えていない時期が長かったわけですが、それは代わりに色んな道を選べるということでもあります。
そしてそれを今回ほぼ最大限活用して最高の道を選択して歩いている現在だと思います。道が確定すればその先は見えてくるものですね。
だから、これでいいんだと思います。そしてこれがよかったんだと思います。
完成したときに、またいろいろ書きたいですね。完成しなかったら、それはそれで書くことがありますが。
どっちかの世界線における文章しか読めないのはちょっと寂しいですね。
おまけ。
いろいろ書こうと思ったことがあったけど整理したら消えてしまった。残りの上澄みに残っているところから引き出します。「評価」の話。
「ある領域」を創り出す人間、司る人間、っているじゃないですか。複数人居てもいいんです。ただ「その場所に居る」という人間。
概ねそういう人は多くの周りの支持を得て、その立場に実在しているんだと思います。で。
その状態であるということは、その領域に当人を縛っているんですよね。つまりー…なんていうか。「ある領域」に対して「人」が対応し、そしてそこで終わる。
系統樹みたいなものです。どんどん木が生えていって、そのそれぞれの節には「人」が居るんです。立場を名乗る人間が。
そうするとその領域に関わる人間たちはその立場の下に居ることになる。それは間違いないんです。始まりは。
だからきっと其の人間は下を評価することにになる。そしてこの工程は正当です。何故なら、下だから。
だけどね。
そうやって見ているうちに、評価をすり抜ける存在が出てくるんだと思うんです。視えないモノが。評価できないものが。
そしてそれはいつのまにか隣で新たな枝を生やしているんですね。新しい領域の誕生が。
そうして其の人間は唯の節の一つとなる。歴史になって、現在ではなくなる。それでも立場は残る。
そんな状況のときに、人は動けるんですよね。そう。
立場を無くして新たな枝の下に就く。そうして生きていくことができる。それは単に選択です。
つまり立場は人に結びつくのではなく領域に結びつくものであって。私達という「個」としては、歴史的立場に接続しないことができるんです。
そうしない人間も居ます。それは選択です。
だけど少なくとも私は、常に下に居ながら糸を掻い潜るように先へ進んでいたいと思うんです。同じことを考えている人はいると思う。
枝が伸びた先を視るという願いの為に、枝を伸ばす為に、栄養だけを届けて節にならない。そうありたい。
節になることと節にならないこと、どっちを願うことが傲慢なのかな。きっとどっちもその側面は持っているんだろうけど。
傲慢と考えることが傲慢なのかな。
そうやって何も言わなくなっていくんだと思いますけど。立場を持つ人間は。
私はこういう残念なお話を続けていきたい気持ちがあります。なにせ生きてはいられるでしょうし。
「評価する人間」に対して考察するのは「何」なんでしょうね。
世界に遍く在る「逆張り」の歴史はまさにその系譜だと思うので、文化的には自然なんですよね。巨視的にはね。
でも刹那的には異常なんでしょう。それは「嫌われる」んでしょう。その時代には。
さて、そうすると問題はここで。違う時代であるから評価されないのか「良くない」から評価されないのかって区別できないんですよ。
だからずっとここを評価者に問いたくて。つまり「あなたは個か、節か」ということを。いや。それ以上に、「自身が個か節かを自認しているか」ということを。
個の感情として良いものを評価しているなら、何かを見つけられる可能性があるんですよね。
そうじゃないなら、それはそれで一貫していて良いのです。時代に名前を付ける工程です。
だけどこれを区別していないのは不思議なんです。
大抵、前者だと思うんですよ。評価者は評価者で、ちゃんと「新しいものを見つけようとしている」と思うんです。そう願っているんですよ、私は。
だけどそれに当てはまらない発言って、やっぱり観測できてしまうもので。
例えば「これはこうするともっと良い」っていう発言、軽率に出来ないはずなんですよ。
何故なら敢えてそうしなかった可能性があるから。そこに在る意思を自身が読めていない可能性があるから。
だから、そういう点を一個一個確認して、意思の通っていない境界を知って初めてその作品を視ることができるようになるんですよね。
そのプロセスは自身のみでは絶対に行えないはずでー…。作者が居れば良いけどそれを逆手に取ることもできてー…。ね。
そしてこの現実を把握した上で作品を作ることもできて。そう。そうやって逆の逆の逆を見に行くことができるんです。よね。
まぁ、でも「言わなきゃいけない」んですよね。どうしたって。それが立場だから。
だから、その文章にはその在り方が滲み出る。個の人間は自身の理解を伝え、節の人間は自身の解釈を伝える。
不理解なのかどうかは、作者しかわからない。
困った構造です。この救いのない状況。
そういう「時代を創る側」は楽しそうだと思うけれど、私はなんだかみんなに幸せになってほしいと願うようになったようです。
だからこうやって、評価を、解釈を待たない作品、芸術でないモノを創っているんだと思います。
とはいえ、私は名前を知らないけどね。
…こうやってぐだぐだ書いている時点で純粋な願いではないのかもしれませんけどね。
さて。昔からずっとこんな文章を書いていますね。段々変わってきているというのは前に書いた通りです。
すごいぼかして書いているようにも見えるけど、ここでは特に具体的なものはありません。いつも存在しないものを語っています。
いえ。具体の具体的存在は知らなくても、その具体が存在する可能性はあるから。ね。
まぁいいや。おしまい。
先の通り明日はのんびり小さめの作業をやります。いつもと何も変わりません。
あ。そういえば昨日の夜はMoMoっていう漫画を読んでいました。衝動で (表紙が綺麗だったので)。そういえば銀髪の話を書こうと思っていたんだった。
まぁまたの機会はあることでしょう。今日もいい髪を見れましたから。
では。おやすみなさい。