Imaginantia

思ったことを書きます

イメージ時代の終わり

「AI」が楽しく創作をしている今日この頃、それによっていろいろな反応が出ているのを見る現在です。

いろいろ思ったことをとりとめなく書きます。

なお、この文章に出てくるAIという単語は、最近話題のアレに類するものを指しています。

創造性

よく言うのが「AIが作った作品には意思が無い」というものですが、果たして人間に意思はあるのでしょうか。

即ち全ての情報は観測されなければ実在しない故に、その「意思」を測る (存在を確かめる) には成果として表れなければならない、という結論に至るのではないかと。

私は「観察者が好きに補完して想像してね」スタイルの作品が好きではないので、この「意思の明示化」には概ね賛成する立場ですが、同時にこれは多くの既存の作品を潰す方向性だとも思います。

そんなにも絵の意図が実在するものでしょうか?

逆に、AIの生成した絵には意図はないと誰もが言えるものでしょうか?

全ての立場に関してニュートラルであるという立場であるためには、基本的には前情報を多く持っていてはいけません。今回のケースにおいては「作者が人間かAIかという情報」は、ニュートラルな立場に於いては知ってはいけないものです。

その状況で「この絵は意思があるかないか」を以て「評価」することは、現在とても危険なのではないか、という考えは一般的認識だと私は思っています。

当然偏った立場の人間が宣うのはまぁ自由ですが、私はそうありたくないので、このニュートラルな立場を取ります。

 

ところで面白いこと (良いとも悪いとも言ってません) を言ってるらしい文書があったのでちょっと見ました。

元々昔から (1961?) "Creativity" をどう扱うかについてのモデルとして "Rhode's 4-P model" というものがあるらしいのですね。"Product" (最終出力), "Person" (作成者), "Process" (過程), "Press" (環境) の4つ。

こいつは最初から「テキストベースの画像生成システムからHuman creativityをどう識別するか」という視点で文章を書いていて、例えば「生成画像は完璧とはいえないものの時間の問題なので、ProductそのものではHuman creativityを測れないだろう」「良いpromptを書く能力は評価に値する」「コミュニティも大事」みたいな感じのことを書いてます。要は「最終出力以外の部分においては、Creativityが存在する」という主張。

…まぁそうね。そうだと思う。

で、見ての通り、これは「画像生成システムを利用した絵の話」なので、一般的な創作物の話ではないです。あのツイートはミスリーディングじゃないかな。

 

さて、ところで一般的に「最終成果物ではなくそれ以外で評価する」というのはさほど認められる立場ではないと思っています。(この文章は上の論文の姿勢を否定してないですよ。)

だって作品は"それ"じゃないですか。それを「作品」と呼んでいるではないですか。

所謂「芸術」という領域はずっとこの「異常な評価軸」をやってきたのだと思っていますし、それでも続いてこれたのだと思いますが。

多くの人間がSNSを通して「評価」という行為に慣れている現在、もうちょっと状況は変わっていくような気がしています。

「良い絵だ」という建前としての評価が剥がれていくような。それこそNFTはもはや建前がなくなった世界だと思いますが。

 

「最終成果物では人間とAIの区別ができなくなる」という前提において、それではどうすればいいのか、という方向性は大きく2つだと思います。

1つは「諦める」。AIは確かに人工知能と名乗るに値する程度に賢くなった。はい。それでいいんじゃないでしょうか。私はこっちのほうが潔くて好きです。

わざわざHuman creativityを見出そうとするよりも、シンプルに「AIの吐いた絵も良いものである」という評価が素直であり、そして多くの人の直観ではないかと思います。

もう1つは、言及された通りに「意思・過程・環境を作品に含める」ことです。それは「説明文あっての作品にする」ということです。

私はこれを「自ら敗北を選ぶ行為」だと思っているので、あまり好きではないです。何故ならわざわざ説明文なんて書かなくても良い絵はたくさんあるのですから。

自らを敢えて「AIと区別しようとする」行為はほぼエゴだと思うのでまぁ勝手ですが、それによって作品が残念になるのは寂しいです。

ちなみにNFTは全部コレだと思います。

内挿の広大さ

これは唯の問題提起ですが。

「AIができるのは内挿だけ」、という言明をよく見ます。何かと何かを組み合わせるのは得意だけど、新たな何かは生み出せない。

ただ、ところで、「創作というのは昔から作られてきたいろいろなものを組み合わせていくこと」という言明もよくみます、よね。

そこで考えるのは。「確かにAIは内挿しかできないとは言うが、もしもそれでみんなが満足するのならそれで十分なのではないか?」と。

例えば組み合わせるだけでもびっくりするようなものが生まれていることはまぁ見ての通りですし。

何よりも「一切知らないもの」は私達も「理解できない」ものになります。それは結局求めているものではきっとない。

人類はそこそこ歴史があるようなので、まぁ内挿によって作り出せる範囲もそこそこ広いはずです。

「あの感じ」と一言で言えるものはそんなに数多くないのかもしれませんが、でもちゃんと言葉にすれば作れるものが殆どではないでしょうか。

だから、その「内挿しかできない」という観点にはあまり意味はない気がするのです。

まぁ、この話には「内挿を行う空間自体から外れた領域にあるもの」が抜けてますが。外挿をするとかではなく、もっと空間そのものを変える方向が、まだ残っている領域です。

次の話もそれです。

イメージと構造

いいですね。いいですが、見ての通り、この絵はスチームパンクの絵として見ると破綻しかありません。

そのケーブルは何が通ってるんでしょう。そのパイプは。いえむしろそれは本当にパイプでしょうか?

世界観を組み立てる基礎となるものが「法則」ですが、現段階に於いてはAI生成の絵は特に「法則」に従う素振りがありません。

つまり延々とそれっぽさだけを吐き続けています。そしてその精度に関しては人間の能力を越えています。

この「それっぽさ」はそれはそれで評価されるべきものだと思いますが、それによってある種の「人の創造性」が否定されることになります。

「それっぽいだけの模倣作品」というジャンルはもはやAIで十分生み出せうる可能性があるわけです。

それは例えば、「歯車の意味合いを考えずに雑に配置したようなデザイン」を「AIでも作れそう」という観点で否定できうるということです。

 

人間の知性というのはいろんな領域から成り立ってると思いますが、そのうち「発想」と「印象」についてはその独自性を脅かされていると言えるのかなと思います。

そうすると残る領域が「構造」と「表現」です。

何故そこにそれがあるのか、どうやってそうなったのか、どうしてそう描いたのか、そうすると何が起きるのか。明確な法則を以て表現を行う為の「構造」に関する考察。

そしてその印象を何で描くか、どう描くか、描いたものをどう観測させるか。絵に限らない表現形態の模索。

どうせそのうちAIに奪われると思いますが、とりあえずまだ安泰らしいです。

私はそういうものに則った創作物が好きです。だからこれを推します。

 

ところでVRChatワールドの多くは、まぁ、「印象」で出来ていると思います。つまり奪われうる余地があるということです。

ただの「綺麗なテクスチャ」を描く能力はもう代替可能になってしまいました。それっぽいデザインを起こす能力も。

残るのは「何故その風景を作るか」という意思と、その結果として生まれる「空間そのものに備わる一貫した法則」です。

それっぽい世界はもうぽちぽちで作れるわけなので、それっぽいだけではない世界、即ち「それ」が「それ」である根拠を伴った世界が、「気軽に作れない領域」として残るわけです。

個人的にはさっさと気軽に生えてほしいんですが (みんなそう思ってるのでは?)、まぁ、とりあえず「そういうちゃんとした世界」がこれから明確な価値を持つようになったらいいな、と思っています (これはずっと言ってます)。

ちなみに別に根拠を論理的に明示せよという話ではありません。私はただ「自らの意思による一貫した行動」というものが良いものであると思っているというだけです。

それはもちろん、「ただ見たかったから作った」「ただこの印象が欲しかった」ことによる行動を全面的に称賛します。

否定したいのは、「こういう場所にはだいたいこういうものがあるだろうから」「とりあえずやってみたらそうなったから」「みんなそうやってるから」「誰かが言ったから」という曖昧な動機です。

 

これまでの話を整理すると、「AIはそれっぽいものを作ることはできる」「人ができる大事なことは、そのそれっぽさを本物にすること」「そしてその選択に責任を持つこと」ということです。

アルゴリズムとAI

昔はアルゴリズムという語がそこそこ流行っていたと認識していましたが、最近の様子を見ると大凡忘れ去られているような雰囲気があります。

アルゴリズムというのは「一連の手続きに則った情報処理」であり、まぁ最近の某AI群もみんなそれです。が、この2つの語は観点が異なります。

「AI」というのは知性を示す語ですが、ここでの「知性」は「知のあるように振る舞うこと」だと思います。対照的に、「アルゴリズム」の示す内容は「知の振る舞いとは何で出来ているか」です。つまり外側からみたものと、内側からみたもの。

で、「外側からみたもの」には信頼を置くことができない (検証不能である) ことより、厳格な結果を求められるシステムよりは今回のような曖昧な世界に適合しやすい。

「内側からみたもの」はその明確な処理内容から、何らかの定まった結果を生み出す過程として利用しやすい。

何の話かというと。

度々「人工知能でこんな処理が楽になるように」とか言う人がいますが、概ね求めているものは後者に基づいたシステムであろうと思う、という話です。

まぁなんかこう。知性っていろいろあるよね、ということが一般の人間には難しいのかもしれません。何故なら人は「人」という1つの存在であるから。

でもそういう話にちゃんと指摘するような人が居たのはちょっとうれしくなりました。他人事ですが。

 

ちなみに実は「必ず求められた行動を実行できるか」という観点においてはこの2種は大差ありません。どっちもできません。

AIは言わずもがな「何をするかわからないから」ですが、アルゴリズムは「決められたことしかできない」「定められた行動が本当に求められたものかどうかは誰も保証しない」からです。

いつだってfail-safeが一番です。本当に。そういうことができるのもまた人間なのかもしれません。今のところ。

余談: 主張と反論と

よくtwitter等で誰かが「主張」を掲げ、それが拡散し、誰かから「反論」を頂く、という構造を観測するわけですが、なんか私はどっちも負けた気になるのでどっちもしないようにしています。

完全に何も言わないのが一番なんですが、なんかどうしても言いたくなって (つまり敗北した結果として) こういう文章を書いたりしています。そういうモチベーションで文章を書いています。

まともなことをこんなところで言ったところで意味なんて無いし、まともじゃないことを否定したってまた意味も無いです。大事なのはそういう主張群を読んで自分で解釈して取り込むことだと思います。

ただ自らの判断の精度を上げることだけに価値があります。

 

私は「どうしてそうなっちゃうんだろう」というような発言が好きではなく、その疑問に至った時点で理由をちゃんと仮説に基づいて提示しようとすべきだと考えます。

私は「もうこれしかない」などのような発言を見ると、本当にそれは正しいのか、「これ」以外が存在しないと言える根拠は実在するのか検証しようとします。

文献の要約を記すような発言はそれがちゃんと要約になっているのか確認すべきだし、文献を引用したような文章に含まれる単語が本当に文献にあるのか確認すべきです。

結局なんでこういうことをしなきゃいけないかというとみんなちゃんと文章を書いてないからです。私もそうだろうし。

信用できるのは自分の中にある何かだけです。

だからきっとこうやって文章を出力することは、それそのものにはきっと意味は無いのです。

だけど書いちゃう、っていうのは、ただの自分の弱さです。

おわりに

私は現在のムーブメントを楽しく眺めている立場です。いろいろと面白いことになっているのは事実だし、私の好む「構造の伴った世界」が相対的に評価されるようになると感じているからです。

それはそれとしてしょうもない発言をする人間が多くてさみしいですが。悪い癖よね、界隈の。いや人類の。

またまたすぐ新しい波が来ると思うので、それを楽しみにしています。

そうやって「イメージだけで評価をする時代」がだんだんと終わっていくのを眺めていこうとおもいます。

少なくとも人類は良い方向に向かっていると思っています。

おわり。