今日も進捗の日でした。一応好調です。
— phi16 (@phi16_) 2020年6月23日
これは水中を作ってみたという意味なんですが、それまで Cull Back の板ポリだった海がだいぶ重み出てきて嬉しい感じになりました。
Udonでちょっとvelocityいじるのも入れてみたので結構よさげな体感になってくれそうです。まだいじるところはある。
某所でのんびりしていたら light shaft ほしいな~~~~~って思っちゃったので多分入れます。明日。
あととても嬉しいことがありました。この前の私が投稿した動画を観てくださった海外の方がどうやら気に入ってくださったらしくて。DMで感情を伝えてくれました。ありがたい限りです。
見合うように頑張っていきたいですね。動画というのは切り取られた媒体で、実態は世界そのもので…。
「コンセプトから想像できるもの」って、結構恐ろしいところ、あります。まぁ、それは別の話…。
明日は前述の海をいじるのと、あとちょこちょこ小さいものを弄る感じになりそうかしら。あと小さいなにかと…あ、そういえばVket4が未だにそのままなんでした。ごめんなさい。
大きく進捗はせずに色々溜まっているのをどうにかする日にしようかな…なかなか次にどれに手をつけようか決まらないんですよね。大きなモノが多くて…
大きいというのはタスクが分割されてない、つまり手をつける前にやることがあるということでもあって。穏やかな時間が必要なタイプ。
実質的なおやすみの日ということで。予定。
さて。今日は久々にいろいろ考えるお話を書いてみようと思います。
「不完全な作品」について。または、ちょっと言及したような「コンセプトの方が強い作品」。
全ての作品は何らかの意味で不完全性を内包しています。例えばVRは現実ほどの情報を持ちません。または、宗教画は本物の神を映し出しません。そういうレベルの話です。
不毛に見える視点とも思えますが、これは必要なものです。これを礎として文脈を広げていく必要があるのです。それは即ち、「だからこそ」を探るという姿勢です。
VRは現実にない風景を。宗教画は描き手の解釈を。絵は極端なパースを。映画は時間と空間を切り取って、ゲームは世界そのものを切り取ります。その先を見るために。
でも、全ての作品がその向きにあるわけではありません。媒体の豊かさそのものを広げるような作品がいろいろあると思います。
VRChatに沢山あるワールドはそれぞれの作者が願った空間が具現化したものです。それは別にVRという媒体の先が見たいという欲求ではありません。それがとてもいいことです。
そしてそれらは不完全性を内包しています。とは言え先程の不完全性はここでは問題になりません。「VRChatのワールド」という前提があるからです。これが、文脈の力。
代わりに、VRChatのワールドとしての不完全性が見えるようになります。それは Z-Fighting とかの小さな問題じゃなくて。「意図が伝わりにくい世界」、かな。
つまりどれだけ願いが具現化できているかの強度が、ちゃんと見えるんです。やりたかったことの強さに応じてその影響も変動します。
例えば――なんだろう。仮に、Stair Hall の世界が有限だったとするじゃないですか。つまり Collider が動かず、どこかしらの境界より先に進めないケース。
それって、きっと、とても残念に思うと思うんです。見える先に世界はあるのに、そこに私は進めない。きっと作者は無限に続く世界を願ったであろうにも関わらず。
または、例えば Vacuous Parkの観覧車が乗れないとか。Silver and You の銀髪が美しい反射を持たないとか。きっとそう願うはずなのに。
持ってしまった願いを叶えて、完全にしたい。コンセプトに見合う世界でありたい。VR空間であるからには、動画よりも強い風景を魅せたい。
PVが凄そうなゲームじゃなくて、本体が等しく、またはそれ以上の凄さを持つゲームであるべき、という話ですね。それは「凄さ」の方向性とかもありますが、少なくとも切り取られたモノよりも上位互換であってほしいと思いたいです。
私はそれを全部やれているわけではなくて、例えば Just a canvasで描いた絵は他の人にも見れてほしいと願うと思います。それが出来なかったのは、技術的制約。私側か、VRChat側か、というのは体験者にとっては一切関係ないことで、結局は「具現化した願いの不足感」につながるわけです。
だから私はそれをどうにか解釈できる状況を作ろうとしていて、それがPickupすら同期しないことに繋がっているんです。同期してしまうと、不完全な絵が他の人の目に映ってしまうから。あの世界で最も強い願いは「キャンバスに絵を描くこと」だったから、私にとってはこれを選択する優位性があったのです。また、世界自体を完全な白をベースにすることで、或る種の神聖さを持たせて「複数人が騒ぐ空間ではない」ことを示しているところがあると思います。
これは例えば Just graffiti! と対照的で、こっちは「落書きをする」という願いで以て世界を成しているわけです。その願いの下では他者との相互作用は必要なものでしょうし、自然に生まれる世界観が存在し、完全な絵の同期なんかよりは雰囲気の形成が重要です。だからここは完全に非常に近いと思います。
そして、これは世界から逆向きに解釈され得るものです。即ち、世界を観て、世界観を理解し、願いを識る。荒っぽい世界であることで落書きをする心情を生み出し、白一色の世界であることで落ち着いてキャンバスと向かう姿勢を与える。そうやって本当の願いが叶うんです。つまり、人に体験してもらうという。だから人に願いを理解してもらうための見た目は大事なわけです。
Just a canvas は「不完全性を見えにくくした世界」です。媒体に依ってそういう「不完全性を生みがちな願い」というのは往々にしてあるもので、それを回避するというのも具現化の強度を上げる1つの方法でもあります。でも願ってしまうんだからしょうがないですよね。
そういう「しんどい願い」を避けずに真っ向から戦いに行っているのが tiwaさん とかだと思っていて、それはもうその時点で強いんですね。私はそういう世界観を生むこと自体を避けているので…。本当に素晴らしいです。これになりたい。
例えばこのツイート自体はVR空間として完全でないというのは本人も言及しているところでありますが、「twitterに投稿された絵」としての完全性は明らかです。まぁそう、表現力の低い媒体の方が完全にしやすいのは明らかです。でも願いとはまた違う軸のお話ですよね。CGが常識になった時代から、抽象度の高い物体の完全性は容易に確保できるようになりました。…球はまだかも。
その原因は「絶対に完全にならない怖さ」なんだとは思います。でも全ての世界は完全ではないんですよね…最初に言ったように。
そういう願いを叶えるのに一番最初にやらなきゃいけないのは、きっと不完全性を受け入れることなんでしょう。もちろん、願いそのものにつながらない不完全性を。
私は未だにちゃんと向き合ったことがない気がします。
さて、これが「善い道」です。で、まぁ、気になるのは「善くない道」の方です。正確に言うと、「善くない道を歩いているように見えなくもない作品」。これはつまり…「願いが読みきれない作品」でしょうか。
それは世界の情報不足でもあり。作者の技術不足でもあり。媒体の文脈不足でもあり。鑑賞者が「この作品は願いを叶えられている」と判断できない作品。そういう、「不完全な作品」。
これは例を出すのが難しいね… 現代アートとかは全てがそれに近いと思うんですけど。あと「解かれるべき謎が解けずに終わってしまった物語」とかかしら。まぁ「途中までしか出来てないように見えるもの」全般。
これの難しいところは、それ自体が作者の意図なのか区別できないことなんですよ。それ自体がartisticであるからにアートの観点からは認められ得るものだとは思うんですけど。
ボスを倒しに行くゲームを作って、その道中の成長そのものが「願い」だとして、じゃあボスに出会った時点でエンディングになって終わっちゃったらびっくりするじゃないですか。
つまりあれですね。作者の願いに「作者の願いが受け手の願いと一致しない」という願いが含まれているケースですね。それはそれで認められるべき存在なんです。でもそれを認めるのはとても難しい。
一致させられるならさせればいいんですよね…。まぁ受け手の願いを読み取りきれない作品は多く在ると思いますが。
説明をしないという願いとかね。技術をめっちゃ高めないといけないんですよね。
「敢えて」って、文脈がないと通じないんですよね。
まぁ、だから、私はそういう逆の逆の逆を張るみたいなのをやめて、素直なものを作ろうかなって思ったんです。そういう作品を見るのはとても好きなんですけどね。
この方向性の納得行く答えも見てみたいなぁ。そういえば「強制的に物語に巻き込む」って、その一つの解なんでしょうね。
当分は素直につくっていきまーす。半年くらいはそのつもりでいきたいね。
久々の長々したお話は楽しいですね。って思ったところで、私は1年前に同じような話をしたことを思い出してしまいました。
ここで書いたことはとても詳細な部分でしたが、結局言いたいことは同じ、ましてや書こうとしたきっかけも同じですね。てへ。
昔よりは解像度…というか世界への許容度が上がったようでなによりです。まぁそれは色んな世界を見ることが出来たからではありましょう。
愚直に完全性を目指して頑張って行こうと思います。
おやすみ。
書かないで置こうと思ったんですが日記なので書こうと思いました。きっかけのことです。
北側にある寝室に在った窓は西側じゃなくて北側だった。ガスコンロ2口ではなくIH4口だった。この段階で「この空間は雰囲気である」という解釈と「この違いが意味を持つ」解釈が混在していました。
雰囲気であることで十分願いが叶っている、という推測上の事実。でもそれを現実にしたらより鮮明であり。または敢えて違うことでそこから世界を発展できるという可能性もあった。
後者の解釈を肯定する機会は私の体験上では結局無かったから、きっと前者なんだと解釈しているけど。そういう無を証明するみたいなのはしんどいきもち。
挿絵と空間の本質的な違いを提供するものはきっとそのうちどこかで見られそうな気もする…