Imaginantia

思ったことを書きます

雑記 260705

最近 (ここ一週間?) たまに考えていることを書きます。すごい雑です。

  • いわゆる創作をやる人たちはどういう気持ちで物を作ってるんだろう
  • science 系の人と non-science の人でかなり話が通じないがちなのをしばしば観測する
  • どこまでが人のもので、どこからが自分のものか

この辺のやつなのですが、ついでに思うこととして:

  • 何かしら学習をやっていくと、あるタイミングで「境界」を越えることがある

というのを感じていて、これらが大体近い現象であるような感覚があります。

で、「帰納の世界と演繹の世界」が近い言語化ではないかと思いました。

これに沿って考えると:

  • (so-called な) 創作をやっている人たちは大抵が帰納の世界に居る人たち。
    • これまでの文化や自らが良いと思ったものを参照し、そこに自分のものを載せる。
  • non-science な分野の人は演繹不可能なものを題材にしているということになっていて、結果として帰納の世界に居る。
    • 結局「何故そうなっているか」を完全に明確にすることはできない。
  • 何かを引用することで物を作っているので、自分のものから人のものを完全に取り除くことは (本質的に) できない。
    • "本質的に" というのは、「伝えたいこと」そのものが引用で出来ているので、取り除けないことが (肯定的に) 認められるということ。
  • 実は、面白いものを安定的に出せる人は演繹の世界に片足を突っ込んでいて、でもそれに自覚がないことすらある、のではないか。
    • というか、世間で面白いって言われているものって、なんだかんだ演繹的な構造の組み立てがあるように思う。
    • それが伝えたいことに入っているケースと、伝える為に演繹をツールとして使っているケースがある。

私は演繹側の人だと自分で思っていて、それが何かを考えるのに便利だという感覚があるのでそうなっているわけですが、例えば帰納的っぽい人が「考える」ことに関して悩んでいるときに、演繹を推奨するのはなんだかポジショントークっぽい感覚があって悩ましい、という悩みがあります。

が、まぁ、どっちも使える分には便利なのではないかという気はするので、(行き過ぎるとベースが逆転するのかもしれませんが) ある程度は推奨してもいいのかもしれません。何で学ぶべきなのかは未だによくわかりませんが。

 

今更ですが私の思っている語の定義について:

  • 帰納というのは、局所的な情報から大域的な言明を出そうとすること、だと思います。で、これが常にうまくいく保証は当然ないんだけど、経験的にうまくいきがちだから、それを学習すると、帰納でなんとかしようとする人が居がち。
  • 演繹は、逆に「うまくいく保証がある」ように言明を出すことで、正確にはどこまでうまくいくか/うまくいかないかを自覚しながら物事について考えていく方法、だと私は思っています。

で、まぁ私の考え方は偏っているので、演繹のほうが広そうに書いてしまうのですが (実際そう思っているのですが)、これを詰めすぎると「帰納的言明を理解することができなくなる」という副作用があります。何故なら、元々うまくいく保証がない文章を、正しく読むことはできないため…。

私はとてもこれに困っています。困っているのかすらわからないけど、まぁ困っていると思うので、困っていることにします。詳細略。

例えば帰納的な考え方を演繹に埋め込むことは、できます。例えば「典型的にはこうである」ということを、「大域的に成り立つとしたら」という仮定として読み替えるという方法があります。また、「私はこうだと思う」と言うのならば、「この人の中では思っている」と言い換えればよくて、それは (主張自体が非常に弱いので) きっと成り立っていることだと言えるわけです。

帰納の中で演繹を動かすこともできるわけですが、そうだとしても結局最終的に帰納の中に居るので、そこから「真の答え」は出せないという感覚があります。なので、演繹の中で帰納を動かしたほうがいいのでは、と私は思います。が、多分これはもう一歩先があって、結局「考えている主体」が居るのだから何をやっても帰納にしかならない、という諦めがそこには有り得るのかもしれません。

しかし、それで言うと演繹にも似たような諦めがあって、「帰納が少しでも入った時点で帰納の世界からは出られない」って思います。これは「思っていることは絶対に伝わらない」と同じような意味です。

なんか、昔から (?) 私の文章に対して何か反発する印象を持つ方はこの辺に反発しているのかもしれないな、と勝手に思いました。思ってることは伝わると思っているし、人類はカスじゃないと思っているのかもしれません。そこに (言外の) 齟齬があるのでしたら、それは申し訳ないし、しょうがなくもあります。

とは言え、口では私はそう思っていると言うけどこうやって文章を (人向け…なのだろうか?どちらかというと自分用のメモなのだけど) 書いているあたり、これが無駄な行為だと思っているわけではありません。人類はカスだと思っているけれど、それを認めた上で、どうにかするということに価値があると思っています。盲目的な信頼をするのではなく、どうすればうまく伝えられるのかを細かく考えることに意味があると思っています。

 

で、実際のところ、面白い創作物ってすごく演繹的に作られてるなって思います。だからわかってる人の作品を見るとわかってるな~って思うし、それを読める。

だけどそういう点って意外と語られないから、naive に帰納で (= 努力とやらで) 成長しようという人が発生しがちな印象があります。

でも別にそれを私が語れるわけではない。だから全部これは私の想像で、私の帰納です。誰かにそのままわかってもらえるものではない。

(そういえば、自然言語で書いた時点で私は完全に伝わるものだとは思っていないし、それを演繹的に読むには各読み手の頭の中で全てを再構成するしかないと思っているから、するする読んだ結果として「変なこと言ってる人が居るなあ」って思うのは当たり前なのですよね。実際再構成してほしくて書いているわけなのだけど、そこが根本的に伝わっていないのかもしれない。これは数学書を読むときの癖か?)

が、たまに思う具体例の話をすることくらいはできるのかもしれない。

 

結局「どうわかってもらうか」というところの話をしているつもりです。

ただ、「わかってもらう」必要のあるコンテンツ自体がそんなに多いわけでもない。動画は何も考えなくても勝手に流れていく。理解できなくても次ページを開くことはできる。だから、創作と呼ばれるものをやっている人の殆どは実際「本当にわかってもらっているのか」を検証しているわけではないし、それで困っていない。強いて言うなら、良い評判が多いなら、わかってもらえているのかもしれない。でもそれは違う点が評価されているだけなのかもしれない。何もわからない。

これを真に評価させるものを、私はゲームって言ったりパズルって言ったりしていることが多いです。これは逆なんだけど、ただそれが唯一でもあるという感覚がある。

で、最近思っていることは、(ゲームらしくあるものは、ゲームになってしまいがちなのだけど) パズルはどんなジャンルでもできる。というか、各ジャンルで行われている「演繹的な組み立て」はみんなパズルを作っているような感覚がある。パズルを解いているとも言う。

毎回具体例が無くて申し訳ない。考えているときは具体例から始まっているはずなんだけど *1、文章にしよ~と思っているときにはその情報が抜け落ちていて、なんかガワの文字列だけが残っている。

 

なんだろうな。「本物」の話とかも書いておくか。

ワールドに草を置いたりすることが典型的にあるわけだけど、その草というものは別に「草」である必然性はきっとなくて、要求は「在ることが自然にみえること」「空間にディティールや彩りを加えること」あたり。その条件を満たすものとして「草」が選択される。これは丁度前のブログ で書いた E と X の話です。

つまり私たちの考える "virtual 草" とは、「そこにあるディティール感」のことであって、いわゆる現実世界にある「草」を想起しているわけではない。

もっと言えば、現実の街中とかにある草も、そこそこ「そこにあるディティール感」のためにあって、例えば生命である必然性はあんまりない。フェイクグリーンってそれで、つまり「草らしき」という都合の良い抽象を持つ具体物が錬成されているわけで、それってすごく virtual だなって思う。私は好きよ。機能もある。

ただ、それは (生命を持った個体という意味での) 草ではないから、なんだか勿体ないような感覚がある。ぶいちゃの草はほぼ全てがフェイクグリーンであると言って差し支えないと思う。でもそう言ったらなんだか反発があるような気もするし、「だったら本物の草って何」って言われそうな気もする。それに対する返答は当然あるわけだけど (そこに根付き、環境との相互作用によって成長した結果として存在している、草)、もしもそうだとしても逆に機能的でないから、使えない (メンテ頻度を減らすためにはフェイクグリーンのほうが適しているだろうみたいな意味)。

でもこれって因果が逆のはずで。「表現したいもの」が「それらしき」であるのならば、そこに機能は伴って表現されるべきで。例えば植物の成長を「表現」したいのであれば、環境との相互作用無しに「ただスケールするアニメーションを流す」のは、違うじゃん。

これくらいならちゃんとやってることは多い。水を掛けたり、種を植えることがトリガーとなって成長が始まる、みたいなことが典型的には行われていて。それは真の在り様からはだいぶ捨象されたものだと思うから、「真の植物か?」と言われるとかなり NO なんだけど、でも「水をかけたら成長するもの」であることは事実で真実だから、それを否定できる人は居ない。

そういうのが、「本物」である、ということだと思う。…何ていうかな。ある観点の下でちゃんと振る舞っている必要があれば、その観点の中での本物になる。

 

チェーホフの銃 とかはかなり似たような話だと私は思う。それがそこに「在る」ためには使われなければならない、という話をしている。逆に言えば、その「使われ度」が「在る度」そのものになる。この言い方で言うと、ダック・タイピング の話に聞こえるし、まぁこれは別視点で言い換えたものなのかもしれない。

だから…なんだろう。例えば手紙が机の上においてありました。その文章を私たちが読むことはできません。それだと手紙には実は何も書いてない可能性が残っている。だけど、例えば何かしらキャラクターがそれを読んで感動的になったりしているのを私たちが観測すると、その瞬間に「ああ、そこには何か感動的なことを想起させる文章が書いてあったんだな」って思える。それがどれだけ感動的であるかは、キャラクターの反応から察することだけができる。つまり文章を作り込むのではなく、キャラクターの反応を作り込むことで、間接的に(存在しない)文章の存在度を上げることができる。

もっと具体例の話をすると、計器は測るためにあるんだから、測っていなければそれは計器ではない。逆に言えば、ちゃんと計器が動いていさえすれば、今どんな状態であるのかを、実際にそれを具体的に表現する (= 見えないシーンの部分まで作り込む) ことなしに伝えることができるのだから、なんとコスパ良いことかと私は思うのだけど、何故か世間的にはこのコスパ感が逆転しているらしい。ちなみに逆転しているのは「コスパ感」であって「コスパ」ではないはず。テキストだけで人は十分感動できる。いろいろあった最後に暗転した黒画面の上に出てきたちょっとした白い文字で人は泣ける。

なんでこんな話になったんだっけ。

多分、「計器を動かす」よりも「実際に想像の世界を見せる」方が感動する人はまぁそこそこ居るし、それはそれでいいと思う。だけど作り手が「想像の世界を見る」ことだけを考えていると「計器が動く」ことで感動する人を取りこぼすし、多分そういう人って取りこぼしてることに気づいていない。

まぁ、万人に伝える必要があるわけではないけれど、言うて計器が動いて感動する人は結構多いと私は思っているので (まぁ私がそっち側だからではあるんだけど)、普通に勿体ないんじゃないかとは思う。思うだけ。

具体的な話だと、ちゃんとそうやって動いている証拠があることで細かい考察ができるようになって (= その数値を読解するというパズルを提供できるようになって)、感想とかが広がりを持ちやすくなったりはする。代わりに矛盾なき数値を出す必要は出てくる (作り手が、パズルを解く必要が出てくる)。でもそれだけの価値はあるし、それを楽しめるんじゃないのって。

という意味で、帰納の中にももう少し演繹的な成分を入れて物を作れるようになると、世界の厚みが増すんじゃないのって思うんですが、果たしてどうなんでしょう。パズルから逃げずに、そこを頑張るべきなんじゃないのって。

私が好きな媒体 (漫画とかアニメとかも含む) は先鋭的な領域だと間違いなくそういう発展を遂げているように見えるんだけど、まぁ naive な中でなんとかなってしまう媒体はあんまりそういう方向には自然に向かわないがちではあるのかもしれない。

もうちょっとそういうワールドが増えたら嬉しいな~とは思っています。そういうって、どういうんでしょうね。

 

これは別の話だけど、例えばケーブルを繋ぐと「繋がっていることになる」んだけど、それは現実の引用でしかないのでそれ単体での強度はない。それはフェイクグリーンです。真に「繋がっている」ことを示すためには、例えば片側での入力が明確にもう片側に伝達している必要があり、かつそれだけで良いので、例えば無線であっても port に LED があってちらちらしていて、それがお互いにちらちらしてそうだったりとか、究極的にはその有線のケーブルが切れたりした瞬間に通信ができなくなったら、それは「真の接続を表現しているものになる」でしょう。いや、例えば Timeline 的なものだと本当に「表現」になってしまうのだけど、ゲームとして、ケーブルがあり、それを切断する操作がユーザーに許されており、それを (任意に) やった瞬間に接続に失敗するのであれば、それは「真の接続」そのものになりうるのですね。それは表現ではなく、情報そのものになる。

一応言っておくと、現実の引用として在るのならばまず port があるはずで、そこにケーブルが嵌っているのは当然自然。ディティールでしかないのだけど、無いとおかしくなるのならば、それは当然置くべきではある。

無線も無線で例えばレーザー通信みたいなのもできるんだけど、そうすると間に物があったら通信できなくなるべきだし、それだと困るので人の来ない場所を通しているはず。そういう選択が「世界に意味をもたせるもの」になると思う。リアルだとここに選択はないのだけどね。

 

私はずっと同じことを言ってるだけで何も物を出していないので非常によくありません。そのうち出します。

最近息抜きに作っているワールドは少し「本物」を感じられたのでとても嬉しかったです。この嬉しさが伝わるといいなと思います。

おわり。

*1:補足: 具体例から、一般論を考え、それが妥当かを考え、それが具体例に落ちることを検証することで帰納を演繹に昇華する