これは多分反省文に近いものです。ちょっと経ってしまいましたが、Musical Treasure Hunt (以下MTH) 関連の話です。
前にちょっと文章を書きました。少し引用します。
「ハートライトを振って参加して!」というのはいい言葉ですよね。「力を集めて!」とかだと「私たちには何かが出来る」ということを暗示する (ので、それに相応する因果を拾ってこないといけない) わけですが、「参加」だともう純粋に楽しく振っていることだけで成り立ちます。
別に間違ったことを言っているつもりはありませんが、これはこの MTH という「特殊な状況」で成り立っている、という大前提があったのだな、ということを思ったのでした。
全く同じ言葉が、Musical Treasure HuntーSpectral Remix (以下SR) に登場します。しかし、SRでは成り立っていない、ように感じたのです。つまり前述の私の引用だけでは、その十分性を示せていないということになります。
MTHとSRで同じ言葉が使われていることを、例えばもしかしたら私が助長したかもしれないと勝手に責任を感じるのは大変傲慢な話かと思いますが、少なくとも自分の書いた文章の意味の不正確さについては責任があるので、それについて書こうと思います。
MTHでは「精霊さんの音に対して」「キティちゃん達がある程度セッションすることができた」タイミングで、キティちゃんから「おねがい!みんなも一緒に、ハートライトを振って参加して!」と呼びかけられます。どこかに書いた気もしますが、「突然観客に何かを要請する」というのは純粋な鑑賞態度であったところをインタラクティブ環境に呼び戻す行為になるので、ある意味、冷めます。しかし、MTHではうまく「呼び戻しすぎないように」なっています。
- 何かをすべきである、という意識を与えている。
- 精霊さんとなかなか対話できなかった状況 (苦しさ)。そこから精霊さんが少しずつ参加してきて、いけるかも…!という希望が出てきた状況。
- そんな緊張の中で「おねがい!」と、強く要望される。
- 何をすべきかを、明確に回答する。
- ハートライトを振るとしても、言葉だけでは振り方はわからない。
- だけど、必死な声と、リズムの希薄な音の下では、リズムを気にせず「全力で振る」ことが自然にできるんじゃないかと思う。
- この行為が間違っていないことを、吸い込まれていく音符が示しています。
これにより、観客は自然にロールを獲得し、鑑賞的態度から離れることなく流れについていくことができます。またこの緊張過程からの劇的な緩和が入ることで、観客を自然に鑑賞的態度に戻すこともできています。
これがもしも「参加して!」ではなく「力を集めて!」だったとしましょう。するとハートライトを振って出てきた音符は「力」だということになりますが、それは「ただ手を振っただけで出てきたもの」なので「音符として出現したこと」とも合わないし、軽微な自身の労力と緊張状況に対する効力が釣り合う実感が持てません。つまり観客に「何かができる」という実感を持たせるには弱い、ということになります。対照的に「参加して!」だと、音符が出ているだけで「参加している」ことは明らか (音符がこれまでにない挙動をする為) なので、そこに違和は発生しません。
そういうことを、元々書いていたのでした。
SRでは「欠片たちが沸き立って」「精霊さんが一緒にセッションしようと言った」タイミングで、キティちゃんから「みんなも一緒に、ハートライトを振って参加して!」と言われます。構造だけ見ると似通っているように見えますが、状況はかなり異なっています。
- 緊張状態ではない。
- 欠片たちは落ち着き、精霊さんとも仲が良い。
- リズムが段々と強調されている。
- 適当に振るだけでは、空間と協調できない。
- 「セッションに参加」するように言われている。
- つまり「セッションに参加する方法」がある。
緊張状態ではないので、観客の興味は比較的自由です。実際空間には興味を惹くものがたくさんあって、話を聞いていないこともあるでしょう。それを許容している空間だと思います。つまり鑑賞的態度からは最初から少し離れている状況です。
その中で、言われた通り「セッションに参加」しようとする人達がいます。観客は比較的能動的に動けているので、そこにインタラクションが入ってくるというのはそこまで不自然には感じないでしょう。ただMTHのように「全力で振る」のは音の感じから違うでしょうから、リズムに合わせようとすると思います。特に指示があるわけではないので、観客は能動的に合わせるリズムを選択しようとします。しかし、合わせるべきリズムがないのではないかと思います。
例えばここは「激しい空間」ではないので、「一拍ごとに前に振る」のでは音の細やかさに合わないでしょう。「二拍ごとに前に振る」あたりが自然とできる範疇かもしれません。しかしキック音は不規則に鳴るので私達の動きとは合いません。キティちゃんと精霊さんたちの掛け合いに合わせようと思っても「掛け合いが始まるタイミング」が不規則ですし、アクションとリアクションが異なっているので合わせることができません。合わせずに自由に振ってよいということなのかもしれませんが、そうするときっと「セッションに参加」しているのとは違うような気がします。
つまり観客は「セッションに参加する方法がある」はず (キティちゃんが言ってることだから) なのに、「セッションに参加できない」状況になります。私はなりました。元々鑑賞自由度の高い空間だったので好きに周りを眺めたり空間の音を聴いていることはできて、暇になったりはしないんですけどね。
結局引用した文章とのズレがどこにあるかというと、「楽しく振っていることだけ」で「参加」できる、とは限らなかった、ということだと思います。勿論「同じ言葉」としてもコンテキストによって意味合いが違ってくる (今回は「参加」の目的意識が違う) ものなわけで、そのまま当てはめられるわけではないのは明らかですが。
さて、以上とりあえず弁明をしました。結局私は何を書けばよかったんでしょうね。作品が成り立っていることに関して丁寧に一個ずつ要点を挙げていくことはできると思いますが、そういうものたちは互いに複雑な連関があるもので、テキストで表現できる気はあんまりしません。いえ、昔の批評家はそういうものをちゃんとやっていたのかもしれませんが。
まぁ言葉というのは結局"そういうもの"で、うまく読み取ってくれる人が居ることを願うことしかできないのだという気がします。
この文章の言葉選びはとても悩みました。
終わり。