何度も書いたようなことをまた書きます。
express は、ex-「外に」press「押し出す」なので、「自らが持つモノを外に提示すること」です。
represent は、re-「再び」 present「示す」(prae-「既に」sum「ある」) と解釈して「あるものを (形を変えて) 提示しなおすこと」だと思っています。
まぁ語源なんてどうでもいいですが*1、要は2つ異なる単語があります。どちらも「表現する」と訳せます。
が、express は「誰かが、感情や考えを、言葉やモノで表現する」「言葉やモノが、意味を表現する」のに対し、represent は「モノがモノを表現する」という意味合いが強いと思います。
単語自体はどうでもよくて*2、要は「表現する」ときには「存在しないものと存在するものの対応」のケースと、「存在するものと存在するものの対応」のケースがあるということです。
expression という語は「数式」という意味合いを持っていますが (一般には formula)、これは「『計算方法』という存在しないもの*3」をテキストで表したもの、という意味なのかなと思います。
representation という語も数学で出てきますが、これは「ある数学的対象」があるときに、それと同じ構造を持つような「異なる数学的対象」があるときに使う言葉です。
で、本題ですが、私は express の方は「受け取り方に個人差があるもの」、represent は「客観的に解釈することが可能なもの*4」だと思っています。
即ち、何らかの「表現」を見たときに、公平な評価というのは expression を見るものではなく representation を見るものだと思っています。
つまり、文字通りそこに何があるかを。個人のフィルターを通した姿ではなく、そこに構築された関係性を。
そうじゃないとどんな作品も高評価にできるし低評価にもできます。それではきっと意味がない。いえ、まぁ統計処理をするなら別ですが。
ちなみにこの話は一切 expression による評価を否定していません。ただ公平ではないというだけです。個人が受け取ってしまったものはそれはそれでいいのです。
representation というのは広い話で、例えば「知っている人にしかわからない」みたいな話でも当然 representation に入ります。何故ならその知識をもとにすれば「在る」ことがわかるから。
「光を当てないことで閉塞感を表現」「カラフルな色使いで元気さを表現」「点在する光で導線を表現」するのも立派な representation だと思います。
だけど「これは平和を表しています」「この作品は行動を訴えています」というのは representation ではありません。それは祈りです。expression ではあるのかもしれません。
「未来について考えさせられます (自発)」みたいなのも概ねそうです。もしも本当にそれを represent しているというのなら、鑑賞時に未来について考えなければ鑑賞を終えることができないはずです。実際に例えば「部屋に入らされて、いくつか未来に関する選択肢があって、その結果を受け取る」ような構造の展示だとしたら、それは確かに「考えさせられている (使役受身)」かもしれませんが。
大事なことは、「何かを express している」と宣うことは、誰にでもできるということです。
そこにある壁の汚れは社会秩序が隅々まで浸透していないことを表しているかもしれません。道端に落ちている一円玉は金銭的価値というものが曖昧なまま社会が成り立っているということを表しているかもしれません。
そうかもしれないし、そうでないかもしれません。どっちでもいいのです。何故ならどっちだとしても、それを聞いた人の行動は変わらないだろうから。
だから言葉ではなく、ちゃんとモノが在ることが大事だと思うし、それを大事だと思うことが一般的であってほしい。
まぁ、reprensentation 自体は人の行動に何か訴えかけるわけではありません。作品はそんなに簡単に人の思想を直接操作できません。
だけど「良い representation」は、鑑賞自体に良い効果をもたらすだけでなく、その記憶を得た人間が次に作るものに何らかの影響を与えます。
そうやって育つもの (わざわざ expression なんかで評価しなくてもいい領域) が地に足の付いた文化なのかなと思っています。しらんけど。
なんか適当に書いているのであんまり一貫した文章になってない気がしますが、まぁ雑記なので適当に書きます。
例えば「ギアは力の伝達を represent するものである」わけですが、そうすると「では力の伝達は何を represent しているのか?」という問いが出てきます。
「回すため → モノをいろんな角度から見せるため」とか、「回すため → 時計として現在時刻を示すため」とか、まぁそれぞれ represent しているものがあると思います。
が、逆に「この力の伝達なきギアは何を represent しているのだろうか?」という問いが出てくることもあって。
例えば「かっこよさ」だと「まぁわかるけど噛み合ってないから逆にかっこ悪いよ」とか、「世界観」だと「力伝達しないのにこの形状を使う必要性がある世界ってこと???」みたいな感想になります。
つまり represent してなくない?という反論ができます。
まぁ「噛み合ってないからかっこ悪い」は個人の主観なところは確かにあって、大体の人は気にせず「かっこいい~」で済むんでしょうと思いますが。
でも「噛み合ってない」ことは誰でも検証可能な事実です。つまり「噛み合ってないことを represent してしまっている」のは確かなはずです。
意図しないものを表現しないこともまぁ1つ大事なところだとは思うので、ちゃんとやりたいね、という。
結局これはどこまで respect するか・考える余裕 (時間的にも、頭的にも) があるかという話だと思っていますが…。
延々と適当なことを言っていますが言葉よりはモノで語りたいですね、はい…。