なんとかアートには余計な文章がつきものな感じがします。
それはそうしないとわかってもらえない、っていうことだとは思うんですけど。
でもそれは「鑑賞者に対する逆信頼」及び「言葉への甘え」、ですよね。
世の中の人間がたしかにちゃんと「観て」くれないからそうなるのでしょうけど、それによって「観る」ことをやめた人間もきっといるのです。
いえ、それはもちろんそれだけの人間だった、というだけではあるんですけど。
言葉はそれ自身が意味を持つと思われている媒体で、それ即ち作品が言葉で表現しきることができることを想定できます。
その場合、その作品の持つ意味は。いえ、その作品の「実在」が担う情報は何か。
表現が所詮表現であり、それによって渡る情報が主とするならば、その情報が文章化されたモノを以て作品は存在しうる。
強いて言えば「その情報が実在できる」ことを示すもの、ということにはなるんですが、それは本来文章から計算可能なのではないですか。
逆に言えば。
文章に「実在し得ない構造」を記した作品が存在しない限り、表現の実在に意味はないのではないですか。
まぁ、その「実在し得ない構造」を記した作品はそこそこあります。
既存の技術を元にして「その延長線上にあると思われる概念」を提示する作品。
そしてその多くは、実は延長線上にはないのです。
ただその差は、それによって、文章と作品の間の齟齬を生んでくれます。
文章が立派なコンセプトを宣うことと、その作品がコンセプトを実装していることは、一切関係がありません。
観る目として、私達は、その「実装の実在」を読まなくてはいけない、と思っています。
そうしないと、文章に喰われてしまうので。
その「喰われ方」として気になるのは『思わせる』という表現です。即ち解釈の自由度について。
私達は表現を解釈して意味を得ます。よって、作品が表現であるということは、意味を得ているのは自身なのです。思っているのはあなたです。
その自分勝手な行動を、作品に押し付ける表現が『思わせる』という語だと思います。作者が本当にそう思わせようとしていたのだとしても。
これは何かというと。
全ての作品に対して、あなたは好きな感情を『思わせられた』ことにできるのです。
即ち、そこに意味はない。
逆に言えば意味がないだけなので、善でも悪でもありません。ただそこにあるだけです。
そしてそれを受け入れるべきです。
よって。
自ずから「思わせ」を受信し発信する行為は。文章によって「思わせ」を伝播させようとする作品も。同等に、「無」だと思うのです。
ここで、これに対抗するべく行うべき行為は、思わせでないことを示すことです。
即ち意味の実在を検証するのです。自らのみが受信する (= 送信された確証がない) 状態ではないことを示すのです。
そうして初めて「評価」という概念が生まれて。いえ、生まれてほしい。
世界には概ね「適切な評価」という概念は実在しませんが、私は、そこにある構造をただ読むという意味での評価が実在してほしい、です。
最もわかりやすいのは、「それが何で出来ているか」、ですよね。
それで測れないからこそ面白いというのは本当にそうなんですけどね。
まず、多くの存在は「構造を読む」ことを諦めていると思うので、文脈を繋げる前に、解釈を与える前に、その表現の解体からはじめてほしいと思うのです。
そうすることで「解体の困難さ」という本質的な課題に立ち向かえる気がするのです。
ねぇ。
エンジニアリングに成りきれない、アートに則ったことにしたい、世界の人々。
付随して。
私は「感情を伝える文章」が以上の理由で苦手です。
その情報は感情にはならなかったのです。何故謳うのかわからないし。構造も見えなかった。
自明に自己の内部で再構成する文章は存在していますが、それは所詮シミュレーションの上の話で。"本物"ではないんですよね。
理解出来ても届いてないのです、きっと。
で。
その点に於いて、「曲」は面白い媒体で、自身の感情を正しく生成しうると思えるのです。少なくとも私には。
詩が入るとダメ、というよりは、音が良いとちゃんと伝わる。まぁ、その伝わりは所詮私の自我が生成した身勝手な感情ではあるんですが。
だからこそ、自分のものになる。
操作された感情であることは疑いようもないんですが、でも、それを退ける強さはどうやら私には無いみたいです。
もう少しわかってきたらわかるのかもしれないけど。
アートとはそういうものであってほしいなぁ、と、私は思っています。