— phi16 (@phi16_) 2021年2月21日
これは「同じ音源での音色のコントロールができるようになった」デモです。
あと「パターンを増やす機能」「パターンを消す機能」のデモにもなってますね。
どういうinterfaceにするかはそこそこ悩みました…。
「消す」という行為を、Kinoでは「上から下に線を引く」行為で表現しています。
これはSenselでの操作において、あんまり指を移動させたくないことから「指を大きく移動させることは大きな意思を持つ」から、というのが一つ。
もう一つは、パート操作では「パート名が一番上に表示されている」からそれを「掴む」ことは音に影響を与えなかったから、です。
その結果として「パートを消すためにはパート名を掴んで下まで引っ張る」という操作を与えることにしたのです。
それによって、「上から下に線を引く」という行為が「消去」という抽象を持つことになりました。なので、リズムパターンについてもこれを採用することにしました。
対して、「弱い消去」であるミュートはどうしようかな、と。ちょっと思ったりして。
結果としては「下から上にちょっと線を引く」感じになりました。類似性ですね。
どういう理由でこんなUIになったのか、についてはいつか長い記事を書きたいものですね。鍵盤だけでアレですから。
また、UIはアニメーションと密接な感じもあり…実装めんどくさってずっと思いながらやってるんですけど。何故その動きにしたのか、とかもね。書いてみたいわね。
…いつになるかはわからないけどね!ね。
今日は時間がいっぱいあったはずなのに…ってちょっと思ったけど、別に私にとっての日曜日はそんなに特別性があるわけじゃなかった。
まぁでもああいう地味な機能、意外と大変なんですよ。かなしいことにね。
実際もともと今日の…もとい今週の目標がそこだったのです。そしてこれに「音程変化」は含まれていません。たいへんだから。
だから、そんなもんだとはおもいました。し、満足はしています。
でも自由な演奏には程遠いのもまた事実ね…。
音程変化が出来ると一気に変わってくるのかなぁ、とかちょっと思ったりはしています。だからそれを実装するのはとても楽しみです。
それにそれぞれの音のパラメータ弄ったり出来るようになったらまたそれも大きく状況を変えることでしょう。
そういう未来がみえているだけに、やっぱりそれが実装できていない現在はちょっと悲しく感じられてしまいます。
ゆっくり歩いていくしかないんです。
むしろよくここまで歩けたな、くらいの気持ちでありたい。
最近淡々と生きていて私のtwitterがあんまりおもしろくない気がします。そう見えるだけですが。
寝る時間が遅くて日記をちゃんと書けてないのもまぁ。だいぶ。
最近のちいさなお話をもうちょっと書こうかしら…。
Udonでテトリス動いた#madewithudon #UdonSharp #VRChat pic.twitter.com/5luFEP6sxz
— タービン@VRC (@tar_bin_vrc) 2021年2月21日
Kinoをもちもち弄っている間、タービンさんのテトリス制作を眺めていました。眺めるというか、まぁお話しながら、というだけですが。
何度かあった話が、「テトリスには知らないことが色々ある」ということでした。それはプレイヤーの成長とかそういうのじゃなく、ずっとそこにあり、だれにもきづかれないもののことです。
壁を蹴ること。出現の向き。次にくるピースの法則。操作の待機時間。
普通の人たちにとってはプレイ中意識することのない要素が、ゲームプレイにめちゃくちゃ影響を与えているのです。
それが良いUI/UXであると思うんですよね。自然な解釈としてさらっと受け入れられるもの。
これはテトリスという「異常な世界」に私達がどう解釈を与えるのか、ということでもありますけどね。異常であればあるほど任意の解釈は自然でありうる。不自然性がわからないので。
何度も実装して良く知っていますが、テトリスはそういう「プレイのしやすさ」という要素に関してはすごく勉強になる具体例ではないかと思っています。
追加でおもしろいのがテトリスだけであっても「違うプレイのしやすさ」があるということですね。アニメーションがあったほうがいい場合。Nextの場所。操作ボタンの位置。
…特に、こう、自分でテトリス作ると「これじゃない感」が出ると思うんですよ。こんなに遊びづらかったっけ、って。
「気づき」、ですよね。そういうの素晴らしいなと思います。
実際、そういうUX部分を抜けばテトリスの実装はシンプルでしょう。これは「任意性のある部分を勝手に解釈して良いから」ですね。
そういう点では総合的にテトリスは「練習」に良いのかもしれませんね。プログラムを書く練習と、体験設計という行為の認知と。「解」があるのもいいですよね。
昔、アニメーションのフレーム数とかもきっちり (実機に) 合わせたテトリスを作ったとき、「あぁ、これだよこれ」ってなったのはものすごい面白かったですね。
人の認知能力はすごいです。
どうしても人は自分の詳しいことに首を突っ込みがちです。テトリスもそう。The Witnessもそう。
善くないんだろうなぁ、と思うんですが、それが純粋にpositiveな影響であればいいな、と願いながらお話をしています。
物事の面白さは当人が一番よくわかっています。だけどそうじゃない物事も当然面白いんです。当人が知らないだけで。
知識という文脈には未だに勝てませんね…。私は出来る限り無知を装ってるつもりなんです。
でもどこまでも意識外の知は存在していて…。そこから抜け出せないのよね。
…ただ、ちょっとこの前から、考え方を微妙に変えつつあります。
大体の具象はずるいです。何故なら解釈可能な情報をたくさん含んでいるからです。
だから私はそういうものを「ずるい」と言って、使わないでいたい気持ちなのです。だったのです。
でもね、そうやって全てのものをずるいと言っていたらモノがみえなくなるっていう当然の帰結があって。
もっと素直に視なきゃいけないんだろうなぁ、とちょっと思った。
そのずるさの持つ合理性にちゃんと向き合わなきゃいけないんですよね。
そうやって「文脈を喰う戦い」をもうちょっと読めるようにしたいのです。願い。
こういう文章を書くのは本当に楽しいね…。
この日記という媒体は意外と私の性質に合ってるみたいなんですよね。私が言語を介して思考をしてるからでしょうか。
きっとこの話も昔書いたんだろうなぁ…いやどうかな。
日記としての空間、つくってみたい気持ちはあるんですけど、きっと私じゃないんだろうな、とちょっと思ったりしてる。
意思を伝えたい、というよりも意思を遺したい、なんですよね。
だから「完全に解釈可能な言語」である必要はないのだけど、「解釈不能な言語」もとい「任意解釈が可能な言語」ではダメなんです。
文字に意思は潜在していて、そしてそこに一方向性があってほしい。多分そうなんだと思う。
ずっと言ってるね、これ。書くことなくなるとこうなるんかな。
まぁそろそろ眠いので寝ようと思います。
明日は、3年目の記事を書きます。どうなるんでしょうね。
では。おやすみなさい。