いろいろやってました。
これね、見てめっちゃうお~~~~ってなった。
memex主催 "VR音楽活動のススメ Advent Calendar 2020"https://t.co/VfWeYSFwZ6
— キヌ🐛vket5(DC-07/Green-03) (@kinu_kaiko) 2020年12月23日
の記事を公開しました!https://t.co/igP5aK9FK4
「ライブ演出と立体音響を前提とした作曲」
と題して、 memeと森と蚕2020にて空間で演出と曲を作る際に考えたことやノウハウを実例を交えながらまとめました。 pic.twitter.com/LMWnPqmvdq
こう、やってくれたなって感じがしてめちゃくちゃ嬉しかった。見たかったものの一つかもしれません。
こういうタイプの人 (?) が周り (?) にたくさんいるのでほんと飽きませんね。ありがたいことです。
私もその中の一人でありたいものです。
今日の深夜にぼーっとしながらいろいろかんがえていました。
歌詞を演出で出すことに対する違和感。あとオーディオリアクティブに本当に求めているもの。ライブとは何か。私が次につくりたいもの。
あんまり何かがわかったという感じではありません。ちょっとだけメモ程度に書いておきます。
ちゃんとした歌詞のある曲、特に嫌いとかそんなことは一切ないです。まぁそういうのが (世間的には?) 多い現代ですから、嫌いになれるわけもないのかもしれません。
寧ろ私は重みの入った歌詞はめちゃくちゃ好きな部類だと思います。重みっていうのはこう、感情というよりも文脈とか情報としての重さですね。
実はそこに言語的解釈は必要ではないんですよね。NieR Replicantの話 はそうだし、梶浦由記の曲はめちゃくちゃ好きな部類です。あと韻を踏む、っていうのにも言語機能は必要ないですね。
意味の伴った歌詞はそれはそれであると思うんですけど普遍的な話をされても困る、みたいなことは良く思っています。自明なことを哲学のように語るのは好きではない、のと近いかも。
まぁ、そうすると「必然的に意味を伴う理由がある」という点で物語的な曲が好き、ということなのかもしれない。私は。
そうか?ミュージカルみたいなのはなんだか不思議な気持ちになっちゃうので違う気がする。なんだろうね。
この話はもうちょっと掘りがいがありますね…。
それはおいといて。
歌詞を演出で出す行為、まぁ言ってしまえばパのアレ、に対する微妙な感情はなんだろうというやつで。
今日ふと思ったのは、「音よりも出るのが早い」ことに対する違和感。一文字ずつ出していくことに対する違和感。
つまり元来あるのは音であるという気持ちの元では、文字がそれに先んじて出現することは不安になる。誰が未来を知っているのか?
そして音をベースとした表現であるなら文字単位で演出が分かれるのは不思議だと思う。単語単位、と言っても良い。
まぁ、それでもいいと思ってしまうものはあるんですけどね。
…正直に言ってしまうと作者以外が勝手に作っている現在が嫌いなだけかもしれない。
というかこれ二次創作文化なのか。今更気づいた。
それだけかもしれない。前提が文脈芸なんだこれ…。
いやちょっとこれは救いがなさすぎるので考えないことにします。
あとまぁ文字が出てくる理由、ってありますよね…。
これは文脈芸なんだけどメタ文脈だから好きなんだと思う。モーショングラフィックスを出す理由として現実にモーショングラフィックスを置くっていう。多分因果は逆だけど。
背景の方が重要みたいなところもあるよな。場があるんすよね。
あとこれは喋りと表示が同期しないっていう面白いところもあるな… お互い好き勝手やってるように見える。
なんだろう。音声に見た目が乗っかるんじゃない。お互いがお互いを食いに行ってる。そういう姿勢。
あれか。曲の展開に見た目は必ず追いつかなきゃいけないということかもしれない。それが出来てる演出、テクノビネガー以外に見たこと無いかも (これはズルいだけです)。
技術とかじゃなくて要素なんですよね、追いつくというのは。や、その要素を発見できることは技術かもしれんが。
あと納得しない技術ね…。
そういえば「手持ちを使うと意思が乗らない」みたいな話は…前しましたね。
延々とこうやって自分に呪いを掛けまくっている気がします。
次。オーディオリアクティブの話。…結論は出てるな。「音そのものじゃなくて意味に対応してほしい」。それだけ。
音に対応させるのはオーディオヴィジュアライザで、まぁそれはそれでいいんだけど、その先を見たい…という話。
これすき (見つけた理由は察せられる人は察せられる)。いや、こんな作品は世界にいっぱいあるとは思うけれど。
偶発性とかじゃなくて「純粋に場を表していること」が良い。
つまりあれか。オーディオじゃなくて曲として反応しろっていう話なのかこれは。技術のレイヤーだな…。または手作業。
音と同期するのは「存在に係る要件」でしかないという… いやよくわからん。
そういえば Just Shape & Beats は結構好きでした。純粋で機能的。
機能、機能かぁ…。まぁ世界に存在する物体、意味ないこと多いがちですからね…。あーだから最初に戻ってるじゃんこの話…。
だからやっぱり意味でいいんだと思うわ。
ずっと同じこと言ってるね私…。
ライブとは何か、っていうのはまぁ一個前と繋がってて、久々に解釈不一致を見に行ったんです。なんとなくね。
で、解釈してみようと思った。
所謂ライブ、大きなところでやるやつ、1回だけ見たことがあります。自分の意思で行ったものが。確かにね、アレじゃないんですよ。
その理由を考えていて、最近話したことで想起されたのが、安全であること。
要はライブ感というのは安全性を代償に支払っているのではないかということ。
私達はルールを守らなきゃいけない。物を投げたら当たってしまう。そういう緊張感。
昔行ったときにものすごい存在を感じたのは、演者が遠いところに居ることを認識したとき。遠さが逆に同一空間であることを強調していた。
遠くとも、たしかに視線の先なんですよ。演者に当たって反射した光は目に届いているんです。
まぁこの話、6月の時点で出てたと思いますけどね…。今も考えてることかわんねーな、ってとこ。
さて原因がわかったところで対処はどうだろう。
トリガー引いて演者に物が降ってきたら良いと思うか?そうではないですね。この世界は性善説では回らないので。
「禁止」という行為は結構できないんですよね。禁止するならまず出来ないようにするべきなので。この世界は。
観客を画面に映すという行為は昔は危険と隣合わせでしたね。今でもまぁ負荷との戦いみたいなところはあるけど。
観客に「必要性を伴って行動を制限する」こと。特に、自身の技術力不足以外で。表現として。
例えば… 「演者の実体が居る場所の近傍に観客は近づかなくてはならない」とか。要はアレに位置のオフセットを追加するというだけなのだけど。
それはpickupが出来ること (これは危険性と真逆ね) と引き換えだけど、プレイヤーは近づくことを強いられる、っていうのはそういう強制力として働く。
強制力は危険性と隣合わせで、まぁ例えば自分に向かって演者が突っ込んでくることがある。急に。でもそういう緊張感があるべきものなのかもしれない。
つまり「演者が危険」なのではなく「自身が危険」であることでも十分なのかもしれない。そうか?
現実では「演者を危険にすると自身に危険が及ぶ」という側面がある (怒られるので)。どっちの世界でもこっちが本質なら、救いはあるのかもしれない。
まぁ、それに不満を語る人は出てくるのかもしれないけど…。
私が次につくりたいもの。わかりません。以上です。
本当にわからない。さっき言ったように私は私の作るものに延々と条件を掛けている。
まぁ、何か作りたいコンセプトが見つかったときにやるんで大丈夫です…。今の所無いのよね。
元々私は「無」から生まれた存在なので、もうちょっと無寄りのことをやりたいなぁって思ったりはします。
でも構造が無ければ何にも成れないから。構造あってこその無だから。
…そういえば幽狐ちゃんの髪飾りとかも使って良いのか私…。
その辺が一番近いな…。目的が実在するので。
まぁ、わからん。衝動に任せてがーっとやりたいと毎日思ってる。
最近あんまり日記書いてなかったのでひさびさに書こうと思いました。書き始めるのが遅すぎて5時半になってしまった。
まぁこういう自分の中での考察とかを最近してなかったのでちょうどよかったのかもしれない。考えると書くことにはなる。まぁ。
明日も平常通り…なのだけど、なんかそういうもよくないな。
あ、AdCをやらなきゃいけないんだな…。そうね。
どちらかというとそれで終わるかもしれん。まぁそれはそれで…。
なんか今日はちょっとおもしろくて、急に4人程連絡を取る機会があった。全部独立でね。
私はいろんなところにいるんだなぁ、って思いつつ、困りつつ、って感じ。何か1つには成れないものね…。
人はどうしようもなく色んなところに遍在しています。誰かの心のなかに他者は居すぎだと思う。
もうちょっと純度上げていきたい。
では。まぁ明日はAdC書きです。
おやすみなさい。